見出し画像

即興演奏という語り

即興演奏は、ある種の語りである。

楽譜があって、それを演奏するのは、朗読に近い。朗読は、文章をただ声に出すわけではない。文章の内容を理解した上で、自分なりに解釈しなければならない。ただ読む場合には、文章を理解するだけでも良いが、朗読するためには、どのように表現するかを決めるためにも、解釈が必要になる。

例えば物語であれば、一つの場面に込められた感情や、台詞の意味を解釈しなければならない。例えば評論文であれば、強調すべき部分はどこなのか、確かなのか不確かなのか、感情がこもっているのかいないのか、解釈する必要がある。文章は共通でも、解釈は多様である。

そして、朗読とは、その解釈を経て表現する行為である。だから、朗読する人によって、解釈が変わり、表現は変わる。また、その人が持っている声にも左右される。解釈と声とが相互に作用して、表現が生み出される。

この行為は、楽譜を解釈して楽器を演奏することに似ている。楽譜は同じでも、解釈は変わる。また、持っている楽器や技術が変わる。そして、解釈と楽器の特性とが相互に作用して、表現が生み出される。

その魅力は、楽譜の魅力、解釈の魅力、楽器の魅力それぞれであるとともに、その集合体でもある。部分的な魅力に注目して聞くこともできるし、全体を楽しむこともできる。演奏者はそこに至る過程も楽しむことができ、演奏会での聴衆との相互作用によって生まれる更なる魅力を楽しむ。

一方で、即興演奏には、楽譜の魅力や解釈の魅力があるわけではない。即興演奏といっても言葉の定義は広いので、楽譜やコード等の制限がある場合もあるけれども、ここでは完全なフリーインプロビゼーションをイメージしている。

では、即興演奏の魅力は何かと言えば、楽器そのものの魅力、そして奏者の音楽性の魅力である。これは、語りの魅力に近い。

語りという言葉も範囲が広いけれども、例えば友達がとうとうと愚痴を言っている場面を想定してみればいい。

友達は、ただ自分の言いたいことを、言いたいように語っている。聞き手のことなどおかまいなしに、わかりやすさや、言葉の適切さも考えずに、ただ語っている。友達の目的は、自分の言いたいことを理解してほしいわけではない。そういう所がないわけではないけれども、本質はそこではない。ただ、語りたいだけだ。語ることが、語ることの本質的な目的なのだ。

即興演奏もまた、本質は演奏すること自体である。聴衆に理解してほしいという気持ちが全くないわけではないけれども、それが本質ではない。ただ、演奏するために、演奏している。わかりやすさや、演奏の適切さは二の次だ。

語りには様々な魅力があるけれども、一つには、語り手の気質と経験値の融合がある。予期せぬ語りには、語り手の気質が表れる。考え方の偏りや、趣味、感受性の凹凸、その時の感情や思考の過程が表れる。また、同時にそれまでの言語経験が表れる。語彙や話の展開、イントネーションやアクセント、息遣いや緩急について、それまでの経験に基づいた語りがなされる。

即興演奏も同じで、音楽という言語を通じて気質が表現され、音楽的経験値がにじみ出る。語りでは表せないような気質が表現されるとともに、音楽的経験値の中で演奏される。

それに加えて、即興演奏では、楽譜による演奏とはまた違った楽器の魅力を感じることができる。楽譜というものは、不自由さを常に抱えている。作曲者の想定した音楽を、楽譜によって正確に伝えることは不可能だ。楽譜は不完全な部分をどこかに必ず持っているし、そこに解釈するおもしろさが生まれる。

それに比べて、即興演奏では、楽譜では指定しきれないような音楽を生み出す可能性を持っている。現代音楽では指定が増え、それもほとんど可能にはなってきているけれども、どうしても限界がある。その点で、その楽器が奏でうる音楽の幅が広がり、楽譜による演奏とはまた違った魅力が生まれる可能性があるのだ。

僕自身は小学生の頃から20年以上、楽譜のある音楽に親しんできた。決して楽譜を読むのは得意ではないけれども、だからこそ、時間をかけて楽譜に向き合う過程を楽しむことができた。楽譜があるからこそ生まれる集団で作る音楽の魅力にも、どっぷりはまってきた。楽譜を適切に解釈するための知識を得ることも楽しかったし、適切に演奏するための技術を磨くのも楽しかった。

しかし、最近になって、「語る」音楽に親しむようになった。それは、かつては通り過ぎた音楽だった。かつては音楽的な語彙力が少なかったというのもあるし、何より語る内容が少なかった。それが今は、ずいぶんと語りたいことが増えてきた。それは、誰に伝えるわけでもない、語りたいだけの言葉だ。語らずにはいられない言葉と言ってもいい。少ない語彙力のせいにして語らなかった言葉たちが、溢れてきていた。

極端に言えば、音楽的な語彙力なんてなくてもいい。なんなら、音楽的な語彙力が内面を語るのを邪魔することもある。それはまるで、多様な表現を持つ人が、時として内面をうまく語れないように。

今の僕もまた、ついつい形式的な音楽表現にとらわれてしまったり、自分の感覚よりも和性理論を優先してしまったり、内面を吐露することに抵抗してしまうこともある。

それでも、語る機会は増えたと思う。そのほとんどをYouTubeで配信しているので、自分が一番それを視聴している。自分が一番、そこから内面をくみ取ることができる。そして、そんな演奏を回想するとき、不思議な心地よさを得られる。

不思議なことに、自分の即興演奏を聴いていると、眠くなってしまう。これは自分の語りを聴いているときもそうで、いつの間にか意識が遠のいている。理屈はわからないけれども、両者に共通したところがあるんじゃないかと思う。

僕が好んで即興演奏を行なうのは、卓上木琴とピアノだ。それしか演奏の機会がないというか、それしか扱えないというだけかもしれないけれど。ただ、音階というものはあった方がいいようだ。かつては、ありとあらゆる叩けるものを集めて、何時間も演奏していたものだけれど、今は音階というある種の制限があった方が、自分の言葉を語りやすいらしい。

ピアノはなんといっても、ペダルを開放できるのがいい。ピアノに親しむようになってからずっとそうなのだが、ピアノの、永遠に伸びるような倍音を含んだ響きが好きだ。

好きすぎて、大抵の演奏でペダルを踏みすぎて、聴きづらくなってしまう。踏みすぎると音が濁ってしまうのだが、僕はどうもその濁りが好きで、ついつい伸ばしすぎてしまうのだ。学生の頃は、最低音を弾いて、聞こえてきた倍音を弾いて、さらに聞こえてきた倍音を弾いて、というのを数分間楽しんでいた。僕にとってピアノとは、倍音を楽しむ楽器なのだ。

卓上木琴は、今では一番の相棒だけれど、買った当初は即興演奏なんて思いもよらなかった。既存の曲を練習してみては、マリンバに比べてどうしても響きが劣ってしまうと思っていた。ピアノ伴奏があれば曲として成立するけれども、ますます音色の貧相さが際立ってしまう。逆におもちゃのようなかわいらしさが強調されてしまう。

しかし、フリーインプロビゼーションのワークショップで卓上木琴を使って以来、可能性が一気に広がった。卓上木琴らしさを活かすこと、既存の曲に捕らわれないことが同時に体感できた。その時は独奏ではなくて、誰かとセッションするという体験だったのも幸いした。語りも、まずは誰かとの会話をするところからの方が、自己表現に至りやすい。

気がつけば、卓上木琴を使って語るようになっていた。結果的に音楽的な語彙力が増えたし、少しずつダイレクトに内面を表現することができるようになってきた。

演奏していると、ついつい頭で考えて演奏するようになってしまう。次にこの音階を使ってみようかなとか、ロールを中心に使ってみようとか、考えて演奏してしまう。そんなときの演奏は、どこか安易で、お決まりのようで、恥ずかしくなってしまう。

そんな演奏の方が、聞き手には理解しやすいし、音楽として認識されやすいのは確かだ。音楽を聴いてもらえることは、それはそれで嬉しいから、そういう要素も悪くはないとは思う。けれど、そんな演奏が続きそうになると、そこから逃れるために抵抗してしまう。

そんな語りをするようになって、まだ数年である。ほんの入り口に立ったにすぎないことは自覚しているけれど、それがまた楽しい。明らかにこの先に、未知の魅力が待っている気がする。それは他の誰のためでもなく、自分のための音楽だ。自分のための音楽を持つことは、自分の生き方の上で大きな影響を与えていくように思う。

***ご参考までに即興演奏動画***


他の演奏の再生リストはこちら



【筆者公式サイト】


サポートしていただければ嬉しいです!