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多様化する義務教育とセーフティネット

義務教育とは、保護者や社会が、子どもが学ぶ機会を提供する義務のことである。子どもが学びたいと思ったときに、自分が学びたい内容や方法で学ぶことができる機会を、保護者や社会が保障する選択肢という意味でも使われる。もちろん、子どもが学びたくないと思ったときには、無理に学ぶ必要はない。

今では義務教育を保障する選択肢も増え、様々な学びの形がある。子どもに適した内容、方法、環境を選ぶことができる。背景には「教育機会確保法」の存在と、成立に至るまでの様々な人達の尽力がある。

ただ、学ぶこととはどのようなものなのかは、学んでみないとわからないということもある。だから、とりあえずは、代表的な選択肢である学校に通うことを保護者が選択することが多い。

学校といっても様々で、法律が定めた学習指導要領に則った学習活動を行う「一条校」と、学習指導要領とは違った内容や方法で学習活動を行う「オルタナティブスクール」に大きく分けることができる。

「一条校」とは、「学校教育法第一条」で定められた「幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校」のことを指す。「義務教育学校」はいわゆる小中一貫校のこと、「中等教育学校」はいわゆる中高一貫校のことである。

一条校の良さは、学習指導要領に基づいた安定した教育の質と、公私に関わらず張り巡らされた強力なネットワーク、公的資金による学費の低さである。

一条校で働く教員は皆、大学で所定の単位を修得し、教員免許を所持している。国が定めた学習内容をバランスよく学習することができ、特に上級学校に進学する際の受験に向けて、過不足なく学ぶことができる。

特徴的なのは、生徒会活動や部活動で、他の学校と交流できることである。高校のインターハイや全国高校野球のように、社会的な影響力のある大会も開催されている。このような大会に参加するためには、一条校に所属する必要がある。

また、公立学校はもちろん、私立学校に対しても助成が行われている場合が多く、比較的学費を抑えられる。

一方「オルタナティブスクール」とは、サドベリー教育、シュタイナー教育、フレネ教育等の、独自の教育計画に基づいた教育を行う学校のことを指す。学習指導要領とは異なる内容、方法、環境で学習することができ、学校によって特色がはっきりしている。

保護者がそれらの教育について知識があり、入学年齢で入学することもあれば、一条校に通っていた後に編入する場合もある。一条校にはないような環境で、独自の魅力を持った教育が行われており、子どもが主体的に通学を選ぶ場合もある。

一方で、教育の機会の場として多様に展開しているのが、「フリースクール」とか「フリースペース」と呼ばれる場である。

これらには、オルタナティブスクールのような独自の教育計画に基づいて運営されているものもあるが、子ども達が主体的に教育の場を運営していることが多い。ほとんどが数名から十数名が通い、自分達で学ぶことや学び方を決めている。スタッフは、教師というよりは構成員の一人であり、大人の立場から意見は出すものの、決定権は子ども達にある。

特徴的なのが、通っても通わなくても良いという姿勢をとることが多いことで、個々の特性に応じた通学をすることができる。

一条校との連携も行なわれており、フリースクールへの登校を学校への登校の代替として認める場合も多い。なので、学籍は学校に置きながら、フリースクールで学ぶことを中心に生活している子どももいる。

さらに、学ぶための方法も多様になってきており、家庭で学習する「ホームスクーリング」とか、通信技術を用いて学習する「通信制の学校」も選ばれるようになってきた。

今や紙媒体でも電子媒体でも、教材は溢れている。その子どもに合った教材、学び方を保護者や本人が選択し、学べるようになった。それらを構成的にカリキュラム化して、支援するようなある種の「学校」もある。通信制の学校での学びを支援するための「サポート校」も、大手学習塾等が運営している。

以上のように、様々な教育の機会を保障する場、方法が広まっている。そして、それらは時に組みあわされて利用されている。例えば、一条校に学籍を置き、フリースクールで過ごしながら、ホームスクーリングで学ぶこともある。通信制高校に通いながら、学習を支援するサポート校で学ぶこともある。

かつての一条校しか選択肢がなかった時代に比べると、今は多様な選択肢があり、学びたいという子ども達のニーズに応えることができるようになってきた。様々な事情で「学びたいけれども学べない」という状態が、義務教育の多様化によって、解消されてきたとも言えるかもしれない。

また同時に、「学ばない」という選択肢も保障されるようになってきた。教育はあくまで子ども達にとっては権利であり、義務ではない。子ども達が「学びたい」と思った時には、保護者や社会に義務は生じるけれども、本人がそう思わないのであれば、無理に学校等に行かせる必要はない。学びたい内容や方法、環境、本人の気持ちや体調が整ったときに、学ぶことを検討すればよいのだ。

こうして、今では多くの義務教育を保障する選択肢があり、少しずつ理解が広がっている。

ただ、そんな義務教育の多様化の中で、こぼれ落ちてしまう子ども達がいるんじゃないかということを危惧している。

かつての一条校は、子ども達にとってのセーフティネットでもあった。毎日食事をとっているか、清潔な衣服を身に着けているか、暴力を振るわれていないか、を確認する場でもあり、保護者が子育てに困っていないかを確認する場でもあった。

しかし、今では多様な教育の場があり、全ての子ども達が一条校に登校しているわけではない。オルタナティブスクールやフリースクール、通信制の学校に通っている子どももいる。家庭の中で学んでいる、または「学ばない」という選択をしている子どももいる。

そんな中で、どうしても社会の目が届かない子ども達が出てきてしまう。社会の目というのは、時として暴力的な要素を持っていたり、権利を侵害するような要素を持っていたりもする。しかし一方では、支援や保障を与えてくれるものでもあるのだ。

もちろん、保健所や児童相談所、社会福祉協議会が見守っているケースもある。しかし、これらの支援には、つながるきっかけが必要である。誰かが気付かなければ、支援につなげることができない。家庭の中だけで暮らす子ども達については、保護者がつなげるしかない。

今のように義務教育が多様化している状況の中では、そこからこぼれ落ちてしまう子どもがいると考えられる。特に、貧困との関係は大きい。なぜなら、現状において、多様な選択肢の多くにはお金がかかるからだ。

一条校の中でも私立学校では、学費が発生する。高額な学費が必要な学校もある。オルタナティブスクールやフリースクールでは公的支援がない場合がほとんどなので、学費が必要になる。これらを組み合わせるとなれば、さらに経済的負担は増える。そのため現状では、多くの選択肢にはお金がかかるということになる。

ということは、もし、公立学校に通うという選択肢をとらない、もしくはとれない場合には、「学ばない」という選択肢しか残されていない家庭も少なくないはずである。ましてや、経済的な理由で公立学校に通えない家庭だってあるはずだ。

このような背景によって、「学ばない」という選択肢をとっている子ども達は、果たしてどれくらいいるのだろうか。これは、保護者による「義務教育」違反という以上に、社会による「義務教育」違反だと思う。社会に、学ぶ機会を保障するための十分な仕組みがないことが、背景にはあるからだ。

そう考えると、まずは多様な教育の機会を保障するためにも、経済的な問題を何らかの方法で解消することが必要だと思う。法律的には「教育機会確保法」が施行されたが、システムとしてはまだ不十分なことが多い。

また、保健所、児童相談所、社会福祉協議会等が十分に機能するための仕組みを作ることも大切だと思う。適切な支援を行なうためには、余力が必要である。特に人的資源の確保が叫ばれて久しい。

そして、子ども自身が支援にアクセスする仕組みも大事だと思う。通信技術の発達の中で、もっと子ども自身が、自分の権利を守るための情報や支援者につながる仕組みを作れないだろうか。保護者や周囲の大人を頼れない状況は少なくない。そんな子ども達が、自分の置かれている状況を客観的にとらえ、支援を受けるために行動できる仕組みを作れないだろうか。

ルソーは『エミール』の中で、大人に対し、「かれらは子どものうちに大人をもとめ、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない」と記している。この18世紀の教えに従って、僕たちは教育を行なってきた。子どもの発達段階に応じて、適切な教育を行なうことが必要だと考えて来た。

それは今でも正しい姿勢だとは思う。けれども一方で、「大人が持ちうるものを子どもは持たない」という間違った認識を持ってしまっていることもあるんじゃないだろうか。

子どもにだって苦しみはあるし、困難を乗り越える力もある。そして、子どもにだって正しく判断する力や、自分のために行動する力があるはずだ。大人とは違った形で、大人の基準とは違うかもしれないけれど、子どもにも力はある。

理想としては、大人がうまく立ち回って、子どもたちを完璧に守りきれればいい。けれど、現実にはその中でこぼれ落ちてしまう子どもたちが、けっこうな割合でいるんじゃないだろうか。

そんな状況だから、子ども達自身の力に頼ることも必要なんだと思う。彼らを直接見つけて、直接手を差し伸べられない代わりに、その力になれるようなツールを与えることはできないか。孤軍奮闘する彼らのもとに、情報や手がかりを届けられないか。孤立して危機的な状況にある、居場所も存在も不確かな彼らのために、物資を送り続けることはできるのではないか。

「フリースクール」という場が好まれるようになってきた背景には、もしかしたらこのような危機感があるのかもしれない。いつまでたっても大人とは区別され、必要な情報が与えられず、庇護される存在として力を奪われている子ども達。そんな状況に危機感を感じるからこそ、自分達で情報を得て、学び、判断し、秩序を作り上げ、自立していく、というシステムを必要としているのかもしれない。

子どもたちが直接支援につながる仕組みは、宛先の無い手紙のような、届くかもわからない存在だ。しかし、そんな仕組みが、必要になる気がしている。多様化の中で、その隙間に落ちてしまった子ども達に届ける教育。それは、様々な教育につながっている子ども達にとっても、役に立つはずだ。

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