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メディカル・ハック 第1話

 ここはゴミ捨て場みたいな街だ。放棄エリアと呼ばれているだけある。
 そして俺自身も、たった今バイト先から放り出された。
 胸ぐらを掴まれて力任せに店の裏口に押し出されると、その勢いと濡れた地面のお陰で、見事に尻餅をついた。
「店の金を盗むようなやつァ、これ以上働かせられねェな!!」
 俺はむせ返りながら、店主の怒鳴り声を浴びる。
 スラム街の大衆酒屋の店内なんてもともと鼻の曲がる臭いだが、店の外は外で、別の異臭が充満している。連日続く大雨は、洗い流すどころかゴミ捨て場を下水道の臭いに変えただけだ。
「ゲホ、ゴホッ……だから、俺じゃねぇって、何度も……」
 クビならクビで仕方無い。ただ、濡れ衣を着せられたままなのは納得がいかない。
「お前の他に誰がいるってんだよ!! バイトはあとうちの娘だけだろうが!! うちの娘が盗んだとでも言いたいのか!!」
「知らねぇよ! 男に貢いでんじゃねーのか? 昨日もホストと歩いてただろうが!」
「ホス…何ッ!? オイ、どういうことだ…!?」
 動揺を隠せずにいる店主の後ろで、娘が「彼氏のとこ行ってくるー」と飛び出して行くのが見えた。俺は畳み掛ける。
「アンタこそ、嫁と娘を働かせて稼いだ金で風俗通いしてんだから盗んでるのと同じだな!! 嫁は嫁で常連客の男何人と不倫してんだ!! 一家揃ってロクでもねぇな!! こんな店、こっちから願い下げだぜ」
 捲し立てるように吐き捨て、踵を返した。
「ちょっとアンタ、まだあんな所に行ってんのかい!!」
「お前こそ不倫て、どういうことだよ…!?」
 雨に潜るように進むと、背後に聞こえていた激しい口論の声も、次第に遠のいていった。
 一つの家族が崩壊したり、俺が仕事を失くしたりしても、街はいつも通りだ。
 出稼ぎに向かう日雇い労働者や、客とアフターしている夜の蝶たち。痩せ細った野良猫と烏が食べ物を探して闊歩。そこかしこに酔っ払いが屍のように転がっていて、時には本物の屍もいる。
 本来なら夜明け前だが、辺りはずっと暗い。極彩色のネオンサインだけがぼんやりと浮かんで揺れている。
 古いビルを更に違法建築で増築されて蜂の巣みたいに膨れ上がり、ほとんどの路地にまともに陽の光が当たらない。そのうえ分厚い雲と、止まない雨。まるで、何の希望も無い俺の人生を表しているようだ。俺は空を見ないように、パーカーのフードを深く被った。
 ここと真逆の街、金持ちだけが住む街がこの世界のどこかにあるらしいと、そんな御伽噺を聞いて育つ。そこまでじゃないにしてもそれなりに裕福そうな者たちを、テレビ越しに眺めて暮らす。そしてそのうち野垂れ死ぬ。それがこのスラムの住民の人生。おれもそうだ。
 何かを拾ったり売ったり捨てたり、拾われたり買われたり捨てられたり、時には何かを奪ったり奪われたりして、生きている。
 因みに、俺は本当に店の金は盗んでいないが、盗むこと自体は得意なほうだ。

  *  *  *

 大通りに出ると、人だかりができていた。
 人々の視線の先を追った先、白い服を着た者たちに何やら大きな箱が運ばれていくのが見えた。
 棺桶だった。
「介錯士……」
 思わず口から漏れていた。
 おれの独り言に相槌を打つように、隣にいた知らない中年男が言った。
「あんな小さな店でも見かけによらず、介錯を依頼できるような金があったんだなぁ」
 この国では、病気や高齢で働けない家族の、治療費を払うのや生活を養うのが困難な場合、本人の同意のもと、安楽死を選択できるようになって五年が経つ。
 しかし自殺は相変わらず罪だ。安楽死は、苦しまずに死なせられる技術を持つという国家資格〝介錯士〟に依頼するしかない。介錯を依頼するには、それなりに金がかかる。『いつまで払い続けなければならないか分からない治療費や介護費よりはマシ』というのが、この街のような低所得層の大半の意見ではあるが、富裕層は家族を死なせることに否定的な意見が多いらしい。
「誰が死んだの?」
「角のたばこ屋の親父だよ。もう長いこと病状が重かったらしい」
「………」
 知り合いだった。正確には、友達の父親だ。
 居た堪れない気持ちになる。
 俺は気を紛らしがてら、野次馬の中に潜っていき、目立たない程度にぶつかりながら歩いた。五つか六つほどの財布をスった後、素早くその場を離れた。

  *  *  *

 歪に重ねられた積み木みたいなビルたち。上階からでも行き来しやすいよう、その隙間を繋ぎ合わせている空中通路に立つ。
「シケてんな」
 舌打ちし、中身だけ抜いてポケットに押し込み、財布は捨てた。上から降って来た財布に驚いて、鼠が走っていくのが見切れた。
 相変わらず黒い空に、赤い小石を翳す。雫のような形の深い赤が、光に照らされて一層煌めく。
 俺はいつも首から提げているこの小石を取り出して、早朝の空に翳すのが、いつからか習慣になっていた。特に意味は無い。今日も命を落とさないための願掛けのようなものかもしれない。いつ死んでも不思議じゃないような所で生きているから。
 綺麗な石だが実際の価値は知らない。もし、値があるものだったとしても親の形見なので手放す気は無いし、価値を調べるつもりもない。

  【アノンの生い立ち】ここに追記予定

  *  *  *

「おーい、アノン」
 穴の空いたビニール傘から、女の子がこちらを見上げている。ペラペラに薄いワンピースに、コートを一枚羽織っただけの姿は、誰がどう見ても夜の蝶。見知った顔だった。
「ミモル……」
 ミモルは幼馴染の贔屓目を抜きにしても、美人だ。良家に嫁に貰われても、芸能界にいても、不思議じゃない容姿をしている。生まれた場所か時代さえ違えば、こんなスラムの夜の店で働かなくても十分に食べていけたに違いない。
 そんなことを考えている間に、ミモルはビルを上がって来た。
「やっぱりここにいた。さっき、うちのお客さんと、アノンのバイト先に飲みに行ったけど、クビになったって聞いたから」
「客って、お前……」
 こんな時に、と言いかけて飲み込んだ。
 フード越しにミモルの顔を見やると、
「お前その顔どうした」
 頬に打たれたような痕。赤くなり、口の端も切れているのがわかった。ばつが悪そうな顔。
「え? あぁ、これ? 酔うとすぐ暴れるお客さんがいて……はは、大丈夫だよ」
「良くないだろ」
「ごめんね……。大丈夫。いつものことだから」
「うるせぇよ、ちょっと見せろ」
 ミモルは慌てて、手で口元と頬を隠すように覆った。
 別の意味で気まずいのはこっちも同じだったが、この際それどころではない。
 俺はさっきスった金をミモルに渡した。
「病院へ行けるほどの金はねぇけど、これで塗り薬でも買え」
「バイト、クビになったくせに………」
「うるせーよ。俺の金じゃねぇから気にすんな」
「やっぱり」
 ミモルは呆れた様子で肩をすくめて見せ、食料品店の袋を寄越した。
 そうして並んで、雨降る朝のスラム街を眺めた。人工甘味料の味がする缶コーヒーを飲み、何の味もしないがデカくて焼きたてのスコーンを齧る。
 ミモルは何でもない調子で唐突に話し出した。
「ねぇ……うちのお父さん、死んじゃったんだ。うちが殺したの」
「殺したのは病気と介錯士だ。お前じゃない」
「なんだ、もう知ってるの」
 しまった、と一瞬思ったが、変に隠すほうが気まずくなるだろうと思い直す。
「……さっき見かけた。お前は、家で見送らなかったんだな。仕事休ませてもらえなかったのか?」
「ううん。感染する病気だから、うつっちゃいけないから家に帰って来るなって、お父さんに言われてたんだ。それに、私も見送る資格無いと思った。お父さんを殺したのは病気と介錯士かもしれないけど、介錯の依頼料は、私が働いたお金だからね」
「…………」
 つまり、未成年の娘が夜の店で、親を死なせるためのお金を稼いでいた、ということになる。しかも親を見送ることもできずに、客の男に殴られる朝。最悪の中の最底辺か。
「お母さん、彼氏と暮らすんだって。肩の荷がおりたような顔してた」
「そうか………」
 おれは奥歯を噛み締めながら、平然を装う。ミモルの目を真っ直ぐ見ることができない。赤く痛々しく傷ついた頬は彼女の心のようだと思った。
 ミモルはいつもと同じ、どこか歌うような軽快な口調で話している。
「ねぇ知ってる? 昔々、ホケンって仕組みがあったんだよ」
「なんだそれ」
「若い頃に国にお金を払い続けていると、ケガや病気になった時とか、歳とって働けなくなった時に、治療や生活のお金を国が負担してくれるんだって」
「ありえねーだろ。そんな仕組みがあったなら、なんで今こんなに貧乏な年寄りや早死にする若者ばっかりなんだよ」
「そりゃぁ、若い時に国に払うお金が多すぎたからよ。それで、子ども育てるお金が無いからみんな子ども産まなくなって、年寄りばっかりになって、お金払ってくれる若者が足りなくなっちゃったのよ」
「それで、ホケンの仕組みが立ち行かなくなって、子どもを育てられずに失踪する親が増えたり、年寄りを安楽死させていい仕組みができたっていうのか? 寓話にしてもマヌケすぎるお話だろ」
「ホントの話なんだってばー。昨日エラいお客さんが言ってたんだから」
「お前みたいな貧乏で頭悪いガキと酒飲むような店の客に、エラいやつなんかいねぇよ」
「……ホントだもん…」
「だとしても、エラいやつだろうと、そうじゃなかろうと、殴られてヘラヘラ笑って済ませてんじゃねぇよ」
「だってそうしないと生きられないじゃない……」
 消え入りそうな声に聞こえないフリをする。
 おれたちは、こんな地獄みたいな世界で生きている。神様なんていないと思うけど、いるのなら、ミモルもおれも、神様に捨てられたんだと思う。ここはゴミ捨て場みたいな所だから。

  *  *  *

「やぁ、そこのお二人さん。美味しそうな物食べてるね。どこで買えるの?」
 声をかけて来たのはヘラヘラと笑う奇妙な男だった。
 奇妙なのは見た目ではない。むしろ見た目がまとも過ぎるのだ。端正な顔立ちに、高そうなジャケット、見たこともないほど深い艶のある靴、差している傘は骨の数が多く丈夫そうで、持ち手も木製。つまり明らかな金持ちだ。だからこそ、この街の風景や空気から浮いて見える。
「この下の通りを西に一本入ったお店だよ」
 ミモルはそう答えてから
「見かけない顔だね…」
 小声で俺に言った。少し警戒しているのが分かる。当然だ。わざわざ大雨の中、こんな早朝のスラム街を歩いている金持ちの男なんて怪し過ぎる。
「ちょっと人を探していて……。というかお姉さん、その顔どうしたの」
「これは別に……」
 ミモルは困ったように俯き、コートの襟を立てて顔を逸らすが、頬は隠せていない。俺の苛立ちも増す。
「おい! 俺たちに用がねぇなら、どっか行けよ」
「いやいや、ケガ人は放っておけないだろ」
 そして男は、信じられない行動に出た。
 流れるような慣れた動作で懐から銃を出し、さも当然のような顔をして、ミモルに向けたのだ。
「!?!? おい!? 何のつも……」
 俺が動くより先にミモルは撃たれていた。
 瞬きをする隙も無いほど、一瞬のことだった。

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