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彼の人生ごと愛しているから


恋人は常にフラットで感情的にならない人なのだけど、最近、彼の人間らしい一面を久しぶりに見た。

あれほどわかりやすいのは珍しいのでとても印象的だった。

最近転勤になった職場の先輩(上司)のことを彼はかなり慕っていて、「転勤になるみたい」という話を私に話してきたときの表情から滲み出る寂しさとか不安とか、珍しいから尚更かもしれないけれど見ていて私まで切なくなった。

転勤の理由は売上を上げるための引き抜きみたいなもので、その人の実力なら任されて当然だと彼は話してくれた。その人なら断らずに行くだろうなって思うとも話してくれた。

転勤が確定してからというもの、彼は無自覚だったかもしれないけれど、ふとした瞬間とか家の中でもぼんやりとしていることが増えて、仕事に対するモチベーションが下がっているというよりは、パッとしないわだかまりを抱えているように見えた。

私の肩にもたれかかってそのまま寝てしまったり、私の手を意味もなくいじって遊んだり、そういうわかりにくいけどわかりやすい甘え方も増えていた。

その先輩の上司がラストだった日の朝、「今日が最後か」と言うと「ん」「気持ち良く終わってほしいから俺も頑張る」と言って彼は仕事へ行った。

頑張れという気持ちを込めて強めのハグをしたときに彼の心拍がいつもより早くて、彼なりに自分を必死に立たせようとしてることが伝わってきた。

それでも玄関のドアの向こうに消えていく背中を見送りながら思った。「あなたは、あなたなら大丈夫だよ」と。「それに躓きそうなときは私がいる」とも。

彼の表情が曇ることはほんとうに稀で、それほどその人は彼にとって重要で大事な人で、彼が仕事で前を向ける理由だったのだと思う。だからこそ、そのとき彼は足元が崩れていくような不安があったのかもしれない。

彼からその人の話を聞くとき、彼はいつも誇らしげな顔をしていて、その人の仕事に対する姿勢とか厳しさと優しさを持った人なんだなとか、彼の話しを聞くたびに伝わってきた。彼は自分で口にはしなかったけれど、きっと仕事をする上で彼が目標とする人だったのだと思う。

それはきっと今も変わらず。

一度だけ顔を合わせたとき、彼がその人と話すときの表情を見て思った。ああこの人は、彼にとっての憧れの人なのだと。そして同時に彼が憧れた理由にも強く納得もした。

彼も私も、仕事で関わっている人たちのことは大体間接的にしか分からず、そうやって顔を合わせたことがある人もいるけどやっぱり一緒に仕事をしているわけではなかったから、想像でしか分かり合えない部分はたくさんあった。

仕事の話は2人でいるときも結構するけど、業界も違うし職種も違うから、想像で埋められない部分ももちろん数えきれないほどあって、どんな苦難があってトラブルがあって、それがどれだけの負担で、乗り越えるためには何が必要だったか、そういうことは同じ仕事をしている仲間にしかわからない。

仕事のことはどうしたって同じ仕事をしている人同士でしか救えない部分があるから、私が仕事でしんどいとき、彼が仕事でしんどいとき、互いに支えにはなれても答えにはなれない。

だからこそ、彼がずっとそうしてくれたように、私にできることがあるなら全てしてあげようと思った。あなたが答えを出すためのできる限りを、最大限を。

いつだって愛する人が何よりも安心できる場所で、ひと息つける場所でありたい。胸がざわつく日が続いても、私の隣にいる間だけはせめて、心が穏やかでいられますようにと願っている。

***


その人が転勤になったあとで、彼がいる支社も色々と体制変更があったようで、彼にも大きな変化があった。

それは努力に伴う嬉しい変化で、おめでとうと言うと彼は嬉しそうにありがとうと言って「いつもありがと」と抱き締めてくれた。

とはいえ新しいことだし仕事量も増えるので彼も緊張感があったようで、「ペースを掴むまで、とりあえず慣れるまでだね、乗り切るよ」と深呼吸をして落ち着かせようとしている様子だった。

仕事の内容が新しくなる初日、仕事から帰ってきた彼の表情がみるからに明るかった。彼はお弁当箱を台所で洗いながらすぐにこう話してくれた。

「今朝、(先輩)さんから頑張れよって連絡きてさ、なんかめちゃくちゃ泣きそうになった」

そう言葉にした彼の目は赤く滲んでいて、けれどその目に溜まったものは嬉しさとか自信とか、そういうものだった。彼は照れ臭そうにはにかんだ。

はじめてみる彼の表情に心が強く動いて私の目にも涙が溜まった。「よかった」と言ったあとで、彼の隣に言って「頑張れそうですか」と目を見て問うと「とーぜん!」といつものように笑っていた。

その日から彼は明らかにまた一皮剥けて、わだかまりも溶けたように思う。

私がどれだけ言葉を並べてもその先輩の「がんばれよ」のひとことに勝る効力はきっとなくて、なぜかそれがたまらなく嬉しくもあって、私がいない場所で進む彼の人生も、私には見えない何かも、私はぜんぶ愛していたい。

私が知らない場所であなたがしんどいとき、私にできることは安心して眠れる夜のお手伝いをするくらいのことかもしれなくて、けれどそれができるのなら翌日あなたの優しい新しい朝をつくることができるのもきっと私で、

私はあなたの生きる日々を、これからも私のすべてで抱きしめていたいなって思っている。

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