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日本式サムライ経営術 序論

はじめに

皆さんは、職場で何か変だな、と感じていることはないだろうか。
学校や家庭なども含めた社会の中で、長年、疑問をもっていることや、違和感を覚えていることはないだろうか。
皆の言っていること、していることが、不自然だ、と感じることはないだろうか。
自分の本心を偽っている、と思うことはないだろうか。
それでいて、何となく「仕方がない」という諦めのような気持ちと空気に包まれてはいないだろうか。

この違和感やストレスは何なのか。
一つは、心と身体に無理がかかっているということ。
そして、もう一つは、自分の中の良心や自然な感覚に照らし、何かが引っかかっている、ということではないかと思う。

「人としての良心」、「自然な心や身体感覚」は、あらゆるもののベースとなる。
これを否定するものや抑圧するものは、人間に過度のストレスを与え、害を及ぼすのだ。

しかし、現代社会にはそうしたものが溢れているように見える。
この問題を解消するために説きたいのが「日本式サムライ経営術」だ。

日本人は古くから、「心」と「体」と「道徳」を重んじてきた。商売や経営の世界でも、その基本は変わらない。
「経済的なこと」と、「良心」や「肉体」といったものを、切り離して考えることはなかった。これは極めて重要なポイントである。

伝統的な「日本式」の思考では、経済学や経営学を、他の分野から独立した学問とは考えなかった。

「日本式サムライ経営術」=「経営学(組織論など)」+「道徳」+「心理学」+「身体的な働きや技術」+「美学、美意識」+「自然さ」

上に挙げた六つの要素、分野は代表的なものである。
これらをはじめ、あらゆるジャンルや知恵、働きなどをすべて統合し、人間にとって、より自然な経営術を提唱する。

人は本来、活き活きと、のびのび生きてよいはずである。にもかかわらず、多くの人が不安を感じ、自らを否定し、あるいは逆に、必死で自己をアピールし、疲れ果て、不自由な心を抱えている。

現代社会では、困った時は勉強をしろという。新しいスキルを身につけろという。しかし、いくら勉強をしても、答えは見つからない。
新しいスキルや知識を教えるという名目で、これまでの自分の技や経験が否定されていく場面もある。自己を否定され、自尊心を傷つけられたあげく、何が正解かも分からない、という悪循環……。

勉強をするには、お金もかかる。多大な労力も要る。それだけのものを投じて、自分の大切な尊厳を奪われたのではたまらない。
不安は晴れず、夢や楽しみもない。時間もなく、お金もなくなる一方だ。

今の社会は何をするにもお金がかかる。
お金の稼ぎ方を習うための授業料にはじまり……人生設計をするにも専門家の助言と費用が必要であり、自分が健康であることを確認するためにもお金がかかる。ただリラックスするためにもお金は必要だ。友人と会って、話すためにもお金が要る。栄養を摂るのではなく、やせるのにもお金がかかる。

昔の人は、このようなことにいちいちお金を払っただろうか。
そうは思えない。
一体、どうすれば、この収奪の地獄から解放されるのか。

もっと自然で、頭や心が疲れない世の中にしたい。
そのためには、問題の根本に迫る必要がある。

多くの人々を抑圧し、皆から労力や金を奪い、嘘をついたり、社会の不安を煽ったりして、不当な利を得ている人達。彼らは、どのような特徴や戦略をもっているのか。
なぜ、我々はそのような人達の罠にはまってしまったのか。
我々は、悪徳な人々が出世したり、組織の中枢へ昇らないような、新しい社会を作る必要がある。

今、世界中で、このようなことが議論され、嘘や搾取からの脱却が叫ばれている。
誰かから何かを吸い取られることなく、自分達の価値を否定されることもなく、生きていけるように。
仕事の仕方や、ものの学び方を外部から規定されず、自分で好きにものを考えたり、知恵をしぼったりして、自由に働けるように。
お金や地位をめぐる戦いに無理矢理かり出されたり、競い合うことを強制されたりせず、人と人がもっと助け合えるように。

日本の伝統を思い出し、仲良く地道に働きながら、侍のような勇気や崇高な心を持ちたいものだ。


戦さと重税で、実は地獄のようだった豊臣時代

日本の侍ファンの間では、戦国武将などが人気で、戦国の世に憧れる人が多いようだ。
しかし、戦国時代は間違いなく、地獄のような時代であった。

戦い、戦い、競争、競争で、気が休まらないのだ。
いくら戦い、何度、勝利を重ねても、安全な場所に辿り着くことはない。
身分の低い雑兵は大変だと思い、必死に出世して大名になっても、以前より、ますます敵から首を狙われる。危険な毎日を過ごすことになり、自由に出歩くこともできなくなって、幸せなど、まるで感じられない。

そもそも、皆、一体、何のために戦っているのかも分からない。
一時的な達成感や、高揚感のためなのか。
弱い人々を威圧して、優越感に浸りたいのか。
泥棒のように、他人の領地を盗むのが喜びなのか。

戦国時代に憧れ、真似をして、むやみに戦えばよいとは思えない。
多くの人にとって、必要かどうかも分からない商品を頑張って売り、ノルマを達成したら、嬉しいのか。
不安な人や困っている人達から法外な金を取り、あなた達は駄目だと言って、新しいスキルを教えて優越感に浸りたいのか。
すでに供給過剰な分野で、他社と泥沼の戦いを演じ、シェアを奪うのが喜びなのか。

そのようなことに、毎日毎日、心血を注ぐのは、もうやめたほうがよいと思う。
過剰な競争をやめ、心をもっと平穏にし、落ち着かせ、柔軟に、自由にすべきだ。

これは、2009年『新陰流サムライ仕事術』(マガジンハウス)を出版した頃から、筆者が言い続けてきたことである。
剣術では、敵を切ろう、切ろうとするから切られる。相手に勝とう、勝とうと執着すればするほど、身が固くなり、眼は曇って、結果的に負ける。そんな理を説いてきた。

しかし、なかなか世の中は変わらない。
競争主義に限界を感じる人は増えたかもしれないが、その代わりに何をすればよいか分からない。
生産的、創造的に競争ができないならば、足の引っ張り合いをするしかない。そんな空気が蔓延し始めた。
失敗や衰退、敗北の責任から逃れるため、いかにうまく責任転嫁をするか。この面に知恵をしぼる人も多い。

しかし、私達には、もっと他にすべきことがあるはずだ。
戦いや争いが絶えなかった戦国時代に、それを知っていたのが、徳川家康である。
皆が目先の利益や自らの保身ばかりを考えていた時に、武士のすべきことを知っていた。

よく、家康は豊臣秀吉の天下を奪って将軍になった、などと言われる。
だが、豊臣政権が素晴らしい統治を行なっていたのだろうか。皆が幸せで、世が安定していたといえるのだろうか。

豊臣家は天下を統一するという大事業を成し遂げた。しかし、太閤検地は二公一民ともいわれるほどの過酷な税制であり、皆が朝鮮出兵などの戦さにかり出され、多くの人が苦しんでいた。上方に住む極一部の大名や、政権に近い豪商、文化人、僧侶らのみが、贅沢三昧の生活を送っていた。これが豊臣時代の実態である。

秀吉と家康は、人物的に全く違っていた。このため豊臣と徳川も、家風が全く異なっていた。
この点を観ずして、理解せずして、歴史を知ることはできない。
豊臣から徳川への政権移行は、ただ、一武将から他の武将へ天下の実権が移った、ということではないのだ。

徳川時代になると、「道徳」などが重んじられるようになり、為政者の考え方も、態度も、それを支える家臣達の生き様も、大きく変わった。
もともと、秀吉の重臣達と家康の重臣達はかなりカラーが異なり、豊臣と徳川では、「どのような人物が出世するか」も、違っていたのだ。

秀吉は、競争や勝負に勝つ天才であった。
しかし……というべきか、だから……というべきか、豊臣家には、敵に勝つこと以外、明確な目標や指針がなかった。
戦いに勝てばよい、相手を上回ればよい。そのためには手段を選ばず、どのような策も考え、旺盛な実行力で結果を出す。

豊臣家の実績は、とにかく数々の合戦に勝った、ということである。経済的な戦いにも、とにかく勝ち続けようとした。
勝って利を得る。快楽をむさぼる。これだけが人の喜びだと思っていたのかもしれない。
世の中が、乱れ切った「地獄」であるから、ある意味、仕方がない面もあった。

豊臣家は天下を取り、政治の実権を握ってからも、「我々は勝者だ、だから従え」。基本的にはこれだけだった。
勝つことが正義であるならば、弱さが出始めた豊臣家が、天下の実権を失うのは当然のことである。

石田三成は民に嫌われていた

一方、家康は、勝ち負けや強弱とは全く違った為政者の価値を示した。
関ヶ原の戦いで、西軍(反徳川)の大将、石田三成に味方した大谷吉継が、三成と家康について、以下のように評している。

「世の人石田殿をば無礼なりとて、末々に至ってこころよからずいひあへり。江戸の内府(家康)は只今日本一の貴人なれども、卑賎の者に至るまで礼法あつく仁愛深し。人のなつき従う事大方ならず」
                                                                                                     『常山紀談』より

「日本一の貴人」とあるのは、この時、すでに秀吉がこの世を去っていたため、家康が最も高い地位にあったということだ。
家康は、身分が低い者にまで礼法あつく仁愛が深い。人々が非常になついて、従った。
「大方ならず」というから、人がなつき、従うことが甚だしい。大変なものであり、尋常ではなかった、ということだ。

石田三成の親友で、最終的には徳川の敵に回る大谷吉継でさえ、家康をこう評した。
そして、徳川に合戦を仕かけようとする三成をいさめた、といわれている。

つまり、関ヶ原の戦いというのは、西軍と東軍によるただの武力衝突ではなかった。
「無礼」で「末々に至ってこころよからず」思われていた石田三成が挙兵し、「仁愛深」く、「人のなつき従う」ような人物である家康が、この悪評絶えない武将を葬り去った、という合戦であった。

この歴史は、あまり広く知られていない。
明治以降、徳川を讃えることはなくなり、江戸時代は民が抑圧された未開と困窮の時代というようなイメージが作られた。
長い徳川の支配に不満をもっていた人々も多かったであろうから、一時的に、反徳川の論が高まったのは仕方がない。
特権階級であった武士が滅んだ時代に、豊臣秀吉が人気を得たのも分かる。

だが、もう江戸幕府が滅びてから150年以上も経つ。
江戸時代というのは、長く平和な世が続き、自然ともうまく調和して暮らし、素晴らしい文化もあり……日本人にとっては、誇るべき歴史だ。
そろそろ、これを正統に評価し直すべき時であろう。

勝っても負けても失われない、武士の「道」と「美学」

とにもかくにも、三成が無礼で、多くの大名から嫌われていたことは確かだった。
これまではしばしば、三成は文官気質の吏僚だから、武功派の大名達と合わずに対立した、と言われてきたが、それだけではない。人物的に問題があったのである。
末端の庶民に至るまで、皆に嫌がられていた、というのは、ただごとではない。その言動が非常に不評であり、政策も支持されていなかったことがうかがえる。

三成は、主君の秀吉を喜ばせるために、新しい税の取り方を「発明」したりしていた。
それまで、庶民が自由に刈り取り使っていた「葦」に税を課したのである。この莫大な税収で、三成は軍備を整え、秀吉に褒められたという。

しかし、これは室町時代、重税に苦しんでいた人々にとって絶望的な政策であり、時代に逆行するやり方だった。
織田信長の時代には、楽市楽座などの考えが広まり、減税によって民を自由に活性化しようとしていた。が、その流れとはまるで違う。

三成は、頭は良く、秀吉の命令を実行したり、主君の欲を満たしたりする力はあったのだろう。しかし、それだけだ。
この世の中全体のことを考えていたとは、とても思えない。
民はそれをよく知っていたのだ。

このような人物が、豊臣政権の奉行という要職に就いていた。
三成は、秀吉と諸大名の「取次ぎ」も務めていた。大名達の戦場での働きぶりを秀吉に報告したり、様々な用件を伝えたりする立場にあったのだ。
三成は慈悲の心や、穏便に事を済ませようといった配慮がないため、多くの大名達が秀吉の怒りを買い、処罰されてしまった。こうしたことが重なって、豊臣家は混乱し、不安定化していく。

秀吉の死後、この大問題を正そうとしたのが、黒田長政など、いわゆる武功派の大名達であり、三成は訴えを起こされ、失脚している。
それで円く治まったのだが、三成はおとなしくせず、反撃に出て関ヶ原の戦いを起こし敗北、命を落とすことになった。

三成を嫌っていた武功派大名の多くが、親徳川の武将達であった。三成が、家康を警戒し反徳川の考えをもっていたため、当然のことかもしれない。
ある意味、三成が、大名達を徳川へ走らせたともいえる。「三成憎し」「反三成」で、武将達が強く団結してしまったのだ。
黒田長政ら反三成の大名達は、三成を武力で討つことも視野に入れていた、といわれる。

しかし、家康は、三成を政権から外せばそれでよいと考えた。有能な人材をわざわざ殺すことはない。武功派大名の怒りをくむ一方、三成も一大名として生かしたのだ。
人の命を奪わず、災いとなる力(権力)や技のみを無効化する。これは兵法の極意ともいえる采配だった。

ところが、三成は、敗北を受け入れることができなかった。
自分が「不道徳」とか「無礼」といった自覚がなかったであろう三成は、怒った。
これをただの権力争いととらえ、家康が三成を失脚させた黒幕だと考えて、恨んだに違いない。
家康への憎悪のため、三成は吏僚らしい知恵や冷静さすら、失ってしまった。

家康は人物的に優れており、三成より歳もずっと上である。
地位ももちろん上であって、朝廷からは秀吉の跡取り、豊臣秀頼と同等の扱いを受けたともいう。石高も三成の十倍以上、しかも、多くの勇猛な大名達を従えていた。
そのような徳川に戦いを仕かけるというのは、まさに無謀というしかない。

三成は、勝つこと以外に目標をもたずに育った。そして、幸か不幸か、豊臣家は負けたことがなく、戦さの虚しさや敗戦の屈辱を決定的に味わう機会がないまま生きてきた。
三成の個人的な性格や気質の問題もあるだろうが、やはり豊臣家の家風や価値観も影響していたと考えられる。
秀吉とその信奉者達は、負けた時にどうすればよいか、分からなかった可能性が高い。

武士ならば、否、人ならば、自分が負けることを思い描いて戦うことなどないだろう。しかし、万一、負けたときにどうするか。これは考えておかねばならない重要な問題である。
武士は敗北したとき、せめてもの誇りや美しさを保つため「潔さ」という価値観を生み出した。

例えば、自分の城が敵に攻められ、戦っても勝てず、もはや終わりだというとき、城主が切腹することで、家臣や城兵などの命を助ける。あるいは、敵将に降って家臣になるなどし、事を収める。
いずれにしても、負けが決まれば「潔く」振る舞うということだ。

もし城主がを張り、泥沼の戦いを続ければ、皆が苦しむ。死傷者も増える。
そのため、こうした地獄を避ける道があり、美学があり、具体的な手法や作法も定められていたのだ。

しかし、この武士の厳しい生き様というのは、にわかに身につくものではない。
家康などは、幼い頃から武士として、ままならない人生を送っていた。戦さには勝つことが多かったが、負けたこともある。豊臣家にも、ある意味、負けた。

家康は、負けているときに、妙にあがいたり、強者に逆らったりはしなかった。妙な反逆は、不必要に世を乱すことにつながるからだ。
負けながらも、誇りを失ったり、自暴自棄にならない。このすべを、家康や徳川の重臣達は心得ていた。
戦うことや勝つこと以外にも、武士の仕事はいくらでもあるということを、分かっていたのだ。

徳川はもともと豊臣家の家臣ではなかった。一時はむしろ対立し、秀吉と戦っていた。
そんな「よそ者」の家康が豊臣家の大老となったのはなぜか。秀吉の寵臣で稀代の知将といわれた石田三成より、多くの大名から支持されるに至ったのはなぜか。
それはやはり、豊臣家にはなかった価値観や姿勢を示したからであろう。単に「強い」、あるいは「知恵がある」ということの他に、「道徳」や「武士の美学」といった価値基準を加え、そこで高い徳を表したからに違いない。

乱世では、「いい人」などはすぐに負け、他人の食い物にされると思われていた。
強くなって、勝ち続け、己の利を得続けることが、唯一の生きる道だと考えていた。
しかし───秀吉をも脅かした戦国の大大名、徳川家康が武将の資質に加え、「徳」を兼ね備えていた。
これは、多くの人々に、ある種の感動を与えたと考えられる。

善良な心や、人としての温かみを捨てなくても、生きて、大きくなれるのだ。

勝ち負けにしか興味がなく、不道徳な世を諦めの境地で受け入れていた人々は、家康に「なつき従う事大方ならず」ということになった。
乱世では、皆、戦いに明け暮れつつ、負ければ意味がないと思っていた。しかし、主君や大将に「徳」があり、侍の世界に「道」があるならば、命をかける価値がある。
たとえ敗れても、討ち死にしても、無意味ではないのだ。

「私的な義」や「偽善」では、国は治められない

そんな徳川勢に比べ、石田三成らが結成した西軍には、「反徳川」ということ以外に、これといった方針や一致点はなかった。
秀吉の遺児、豊臣秀頼を家康にとられないようにし、豊臣家を三成ら秀吉の古参の寵臣だけの手で掌握すること。これを大義のように掲げた。
しかし、それが国を治めるための天下の大方針とは、とても思えない。武家の長の志とも考えられない。むしろ、豊臣家の重臣同士の典型的な内紛、権力闘争の動機である。

実際、合戦が始まると、西軍の大名達は各々、勝手な行動をとり始める。
自己の利を求めるため利害が一致しないのだ。士気も低く、互いに疑心暗鬼の部分もあった。
西軍の目標(豊臣家の家名や家風、古参の重臣などを守る)を理解している者でさえ、徳川の武力を恐れて気持ちが定まらない。
そして、徳川に内通する将が続出した。

一方、徳川の率いる東軍では、石田三成と密かに通じたり、西軍を恐れて形勢を見るといった将は、ほとんどいなかったという。
理由は様々あるが、一つは、やはり徳川には明確な方針があったこと。腹を決めさせるだけの魅力、心のよりどころがあったこと。これが大きかったと考えられる。

徳川方の武士達は、何のために戦うのかを知っていた。武士がどう生き、どう死ねばよいか、といったことについても、迷う必要がなかったのである。

単純に数だけを見れば、兵数は、西軍も多く集めていた。しかも、西軍は大坂城を押さえ、豊臣秀頼を抱え込んでいる。京の都も西軍の圏内にあった。
ところが、東軍は非常に強かった。

西軍は、連合軍を構成する大名達がバラバラになり、岐阜城という大事な城を落とされてしまう。徳川に対し不戦の腹を固める将も現われた。更には、関ヶ原という決戦の場で東軍へ寝返る大名さえ出た。
これで、西軍の負けが決定的となる。

そんな中、三成との友情と豊臣家への義理のために反徳川へ回った大谷吉継は、自害。
吉継を含め多くの大名や兵達を戦さに巻き込んだ大将、三成は逃亡した。
東軍はこれを捕らえて処刑し、この合戦は終わった。

両軍の違いは何なのか。真剣に、よく観る必要がある。
石田三成が悪将であったか否かは、現代では意見の分かれるところかもしれない。反徳川、反江戸時代の人々が、その代表として美化してきた、という経緯もあり、良いイメージが広まっているようにも見える。
しかし、あの当時、多くの大名が三成を問題視していたことは確かだ。そして、三成を討つことに闘志を燃やし、命をかけた者は、莫大な数にのぼった。

石田三成のことを、今さら、悪くいって攻撃することが、本コンテンツの目的ではない。
ただ、三成は何かを象徴している。
現代にも、三成のような人が大勢いるのだ。

三成は「人間的に問題のある秀才型エリート」の典型である。
現代社会も、このようなエリートが多くの問題を起こし、しかも、大きな利や名声を得ている。そのことを明確に認識するため、三成を取り上げるのである。

三成的エリートの問題は、個人の話にとどまらない。
多く組織が豊臣政権のような問題を抱えているのではないか。石田三成のように、ただ頭が良く、仕事の要領がよく、上司や自分の利益だけを追求する。そんな人間を重要なポストにつけてしまい、多くの人が困っている、という状況があるのではないか。

近年、言葉では「人道」や「社会貢献」などと皆が声高に称し、それが一種のトレンドのようにもなっていた。だが、中には偽善もある。社会貢献といって資金を集めたり、アピールしたりして、実際には自分達の利を追求している。そうした組織が世界中に存在し、大問題となっている。

石田三成も、ある種の大義は掲げていた。それは豊臣家への忠義だ。
豊臣の天下を徳川に奪われてはならない。秀吉や秀頼への忠義心を忘れてはいけない。
しかしこれは、実は「私的な義」であり、「小さな義」に過ぎない。

国のため、民のためという大義とは違うのだ。
国のためを思うなら、自らはおとなしく身をひき、皆に慕われている家康に天下を任せたほうがよい。
民にとっては、豊臣か徳川かという看板より、戦さがなく、世の中がうまく治まることのほうが重要なのだ。

三成が、そのことを理解した上で、自らを正当化した偽善者なのか。
それとも、武士の大義の何たるかを知らないまま一生を終えたのか。
これは定かではないが、とにかく、本当の善とは何なのか、大義とは何なのかを、よく考える必要がある。

真の善や正しい道などは存在しない、と言う人もいるだろう。
所詮、皆、言葉では美しいことを述べつつも、腹の中では自分の利を追求している。それが世の中の実態であり、逃げようがない定めであり、唯一の生き方である。
そんな風に思っている人もいるだろう。

しかし、これは罠だ。
我々は長年、そのように思い込まされてきただけである。

本当の善などないと思い込んだ結果、利己的なリーダー達に使われて、悪徳に手を染めた人もいるだろう。
偽善者に支配され、綺麗に飾られた、怪しいスローガンや企業理念に従った人もいるだろう。

現代社会では、いつの頃からか、とても素晴らしい理念や目標を語る人が増えた。だが、人間は、そう簡単には変われない。今まで、欲をむき出しにして戦い、道に外れたやり方で利を得てきた人達が、急に高徳の仁者になれるとは思えない。
利己的な人々は、慌てて善人の仮面をかぶっているに過ぎないのだ。そして、その美しい仮面を使って、更にまた利と快楽をむさぼろうと企んでいる。

そういう人々がいる一方で、本当の善人や、本気で社会を良くしようと志している人も、確かにいる。
徳川家康のように、どのような厳しい戦いの中にあっても、道を踏み外さなかった人物もいるのだ。
こうした人間と、にわか偽善者の差は非常に大きい。
よく観れば、違いが分かるはずだ。

今、何かに不安を感じたり、世の中を懐疑的な気持ちで見ている人などは、徳川的な考え方、生き方、経営術などを取り入れることで、ぜひ、迷いの雲を払い除けていただきたいと思う。
一時的には負けてもよい。損をしてもよい。道を踏み外さず、知恵をしぼり、仲間を増やしていけば、必ずいつか、最後には勝つ。
そして、抜群の安定性と永続性をもった組織や社会を作っていける。

豊臣秀吉とその政権は、戦国時代に隆盛を極めたものの、短命に終わった。
この「乱世型組織」と、徳川の家風、特長を比べることで、我々は多くの知恵と教訓が得られると確信している。

公に尽くした武士たちに学ぶ、総合学

「日本式サムライ経営術」では、徳川の事例や経営手法を中心にすえる。
ただ、日本には徳川以外にも、もちろん優れた武士がたくさんいた。
徳川家康も、彼らの力を借りながら天下を取ったのであり、江戸時代には、ほとんどすべての侍が、徳川に協力し、平和国家の確立と維持に尽力した。

もともと日本の武士は、古い時代から強い道徳心や、自然と調和する感覚などをもっていた。生き方、死に方についての指針もあった。
戦国時代などは一時的に、そうしたものが揺らぎ、忘れられていただけである。
和を志向するという大指針も、聖徳太子の時代から公文書に明記されていた。
そんな日本人と武士の心が蘇り、現代人が誇りをもって、道にかなった生き方や仕事ができるようになれば、と思っている。

「日本式サムライ経営術」のポイント

1、日本の歴史、特に武士から学ぶ総合学であるということ
2、利の追求だけではなく「人間性」を問うということ
3、心理学を含むということ
4、身体の働きや身体技術、身体感覚などを重視するということ
5、自然を大切にし、自然の理にしたがい、不自然なことを極力、やめるということ

2に関しては、すでに述べた通り、偽善なども横行しているため注意が必要である。
自分を「人間的に立派に見せる」ためのスキルなども発達しているため、真の人間性を見極めるのは容易ではない。
この対策として、3の心理学を学び、人間に対する観察眼や洞察力を養う。そして、人の良し悪しや、行ないの善悪について、鋭い感覚と判断力を得ていく。

経営方針などについても、近年は、近江商人の「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)などが話題になっており、「善行」や「社会貢献」などが謳われている。
しかし、これもよく確認し、本当に社会の役に立つ仕事をしているのか、改めて問う必要があるだろう。
他社や他人の言行が偽善でないか、見せかけだけの善行でないか、注意すると同時に、自社や自分の行ないについても、よく観て、考えねばならない。

この日本式の経営術を、武士の経営術、侍の経営術と称する心は、昔の武士の独特な社会的役割を意識し、表現するためである。
それは「公に尽くす」ということだ。

侍というのは、私的に武器をもって、その武力で私利私欲を満たすという、賊のような者達ではない。むしろ、私利私欲を捨てて、世のため、お上のために奉公した人々であった。
「日本式サムライ経営術」は、こうした日本の侍の生き様に敬意を払い、「公の心」を持ちつつ、この広い社会に尽くしたい、と志す人のための経営術である。

何度か述べてきたように、この経営術では、経済や経営学といったものを、独立した分野、学問とはとらえない。
「経済」+「道徳」+「心理学」+「身体的な働きや技術」+「自然さ」などなど……という考え方だ。
これらをすべて統合すれば、日本式の素晴らしい組織経営が可能となり、皆が納得して働けるような、温かく、理にかなった、自然な職場づくりができるだろう。

多くの人から支持される立派なリーダーが生まれ、本当の意味で、社会に貢献できる組織が増えることを、心から願っている。                                                                                                        序論は以上

「正義」や「大義」というテーマ、何が正しい道なのかということについては、下記のコンテンツに詳しく記しました。
「剣の神と鹿と正道古流の復興【3】正義、大義とは何か」

心理学については「自然和合エニアグラム   心を癒し、あなたを成長させる古代心理学」というタイトルで配信しています。
第一回は、二千年という長さを誇るエニアグラムの歴史と概要を記した後、性格のタイプチェックができる質問をご用意しました。
ぜひご活用下さい。


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