#進行性核上性麻痺
施設にいる母に会いにいくのが面倒なのは、きっと雨のせいだ。
子供たちを土曜保育に送り、そのまま電車に乗って母に会いに行かなくちゃ。
1週間分の疲れがしっかり背中に乗った土曜、私は朝から自分自身を奮い立たせて、なんとか家を出たのだけど。
保育園に着いたら、3歳のタイの預け薬の書類に不備があり、「今日はもしお熱が出ても痙攣のお薬は入れられません」と言われ、そのまま自宅にお薬手帳を確認しにいくことに。
家に帰ってしまったが最後、もう一度雨の中、母に会いにい
母の「何かあった時」のノートに書いてあったこと②〜心を軽くしてくれた〝手紙〟〜
続きです。
続き。
「何かあった時」
そう書かれたノートを1年ほど前に母から預かった。
エンディングノートのようなものだった。
その中に美しい詩が書かれていた。
2015年6月13日
母が62歳の誕生日を迎えた翌日に書かれたものだ。
母がこの詩を書いた時、まだ病気は発症していないと思われる。
それから7年、まるで予測していたかのように彼女はこの詩のとおりに
今までと違う姿になった。
母の「何かあった時」のノートに書いてあったこと①〜決意を決めた言葉〜
「何かあった時」
そう書かれたノートを1年ほど前に母から預かった。
エンディングノートのようなものだった。
2008年に書き始めた形跡がある。
母が55歳の時だ。
そこには、加入している保険や証券番号、年金の受け取り期間などが細かく書かれていた。
ページを捲るにつれ、読んだ本の感想や簡単な日記のようなものもあり、
ここは読まないほうがいいかなと飛ばして読んでいた。
改めて、このノートを見
母の生きる場所を欲張って探してみよう〜ホームホスピスという不思議な場所に出会った
〝当施設は癌の末期の患者さんのための施設です。お母様は癌の診断は受けていらっしゃいますか?〟
家の近所に小さなホスピスを見つけた。
何日も何日もホームページをみて、施設の前をウロウロしたりした。
ここなら少しだけ美味しいご飯が食べられるかもしれない。
ここなら保育園の帰りに子どもたちとガラス越しでも顔が見られるかもしれない。
急に希望が湧いて、やっぱり諦めないで探すべきだな!と妙な自信まで湧
親を介護施設に入れるのはかわいそうなのか? 自分の気持ちだけ見つめてみると。
「お母さん一人で頑張ってきたんだから」
何度も何度も耳にしたこのセリフ。
その言葉がいつも側にあり、在宅介護を選択してきた。
父と母は私が3歳の時に離婚した。
自宅で学習塾をやっていた母は、
塾を続けながら、生命保険の営業レディになった。
母は頭がよかった。
さっぱりした性格で、信頼も厚かった。
当時、フルタイムで働く母親は珍しく、
いわゆるバリキャリだったと思う。
そんな母が難病になり