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母の生きる場所を欲張って探してみよう〜ホームホスピスという不思議な場所に出会った

〝当施設は癌の末期の患者さんのための施設です。お母様は癌の診断は受けていらっしゃいますか?〟

家の近所に小さなホスピスを見つけた。
何日も何日もホームページをみて、施設の前をウロウロしたりした。

ここなら少しだけ美味しいご飯が食べられるかもしれない。
ここなら保育園の帰りに子どもたちとガラス越しでも顔が見られるかもしれない。

急に希望が湧いて、やっぱり諦めないで探すべきだな!と妙な自信まで湧いてきた。

意を決して問い合わせをしてみたら、癌専門の施設という呆気ない形で私の希望は泡となった。

ホスピスという選択肢はどうだろう?

「ホスピス」という言葉の定義は広いが、日本ではまだ癌の患者さんのための施設がほとんどだ。
癌は「強い痛み」が症状として現れることが多いのだろう。
その痛みを緩和しながら、末期を自分らしく生きる施設。

母は癌ではない。痛みもない。
ただ、歩くことも、話すことも、食べることも全てが難しい。

その人が自分らしく、人間らしく生き切ることを支援するのが緩和ケアです。
人間にとって、誰かの力を借りなければ生きていけないような状況は耐えがたく、生きる意味を感じられなくなることもある。
私はそのような状況を生きる拠り所を見つけられない苦痛を「スピリチュアルペイン」と考えています。
医療やケアの現場が絶えず問われているのが、そうした人たちに対して我々はどんなケアができるのかということです。

ケアタウン小平クリニック院長 山崎 章郎

このスピリチュアルペインを出来るだけ感じずに残りの人生を生きられる場所を探したい。

「毎日、外が暗くなるのばかり待ってるの」

という母は、もう自分の死をとにかく待っているようにしか見えないのだ。


ホスピスを見に行ってみた感想

夜な夜な検索していると、とあるホームホスピスのHPにたどり着いた。
早速電話すると、温かい声で話をしてくれる担当の方が「一度見にいらしたら?」と誘ってくれた。

約束した日に行くと、そこは普通の家の玄関だった。

「おじゃまします」と言って靴を脱いだ。

いままでたくさんの施設を見に行って「おじゃまします」と言ったのは初めてだった。それほど、ここは家だな、と思った。

お部屋は清潔だったが、新築の今の施設と比べたら古い感じがした。
言うなれば、在宅で介護をしている普通のお宅にお邪魔した感じだった。

施設長さんは「私たちは90%のわがままはなんでも叶えますよ!」そう笑って、「お母さんとお話ししてみたいわ〜、どんな話が聞けるかしら」と呟いた。
母が患者ではなく、人として迎えられるような気がした。

お部屋の外には小さなウッドデッキがあり、ここにプランターをおいていた方もいましたよ、と話してくれた。

ここにトマトやお花を植えたら、母は毎朝水をやってくれるだろうか?

母が残りの人生を過ごす場所はここがいい。と思った。
母が死にゆく場所も、ここがいい。と思った。


母の生きる場所は何を基準に決めればいいのだろう?

私が直感で〝ここがいい〟と思ったところで、そんな簡単にことは運ばない。
冷静にならねば、焦って答えを出してはいけないのだ。

母の気持ち。姉の気持ち。
母のことを大切に思ってくれている人たちの気持ち。

それから、私の気持ち。

さぁ、しっかり向き合おう。私はまだまだ諦めない。



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