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ものづくりの核 -「FORMULA」-

「FORMULA」という舞台が、10月15日より東京芸術劇場で始まりました。本作品は、ダンサーの森山未來氏と脳科学者中野信子氏のコラボレーションで、副題に”ダンス×脳科学のプレゼンテーション”とあります。ちなみに、「FORMULA」とは料理の世界では「調理法」、数学では「公式」、心理学では「身体を動かす為の手順を示すのだそうです。

また、このコラボの興味深きテーマは「言語(言葉)とは、どのように私達の意識となり、我々は身体を動かすのか」です。これは私たちマーケターが日々行なっているプレゼンテーションの在り方をも示唆している気がします。

俳優・ダンサーの森山未來氏、脳科学者の中野信子氏、そして振付家のイスラエルのエラ・ホチルド氏。その表現方法は、動的で迫力があり、我々に様々な思いを抱かせてくれたのです。

「表現しなければ、思考ではない」

ご承知の通り、マーケターがコンセプトを"言葉"で明示化すれば、クリエーターがそれをうまく表現してくれる(ビジュアルであれコンセプトボードであれ)時代ではなくなっています。マーケターとクリエイター、さらには顧客との境が無くなったことも、ソーシャル時代に入ってからは顕著でしょう。つまりどのような立場であっても自分ゴトで考えて、表現する時代になって、如何に共感し得るかが、重要になったのだと思います。

こうして「共感が未来をつくる」と言われる現代において、表現しなければ、そして伝わらなければ思考ではないとまで言われています。この場で何度もお伝えしているビジョン思考(センスメイキング理論)では、全ては表現から始まるとしていますが、それもこのような時代に即した考え方なのではないでしょうか。

暗黙知から形式知へ

前置きが長くなりましたが今回のnoteでは、今回のこの公演から時代の最先端で身体を使うことで表現する「ダンス×脳科学のプレゼンテーション」から、"暗黙知から形式知への転換、対話へと反復作業をしているケース"を考えてみたいと思います。

本公演を積極的に楽しむ方法、それはパフォーマンスを観劇するだけではありません。参加アーティスト作品と共に、それまでに協業していた現代アーティスト、人類学者、農業史研究者などのさまざまな視点、言葉の断片が再編されています。

例えば、山極壽一(人類学者/総合地球環境学研究所所長/前京都大学総長)、藤原辰史(農業史研究者/京都大学人文科学研究所准教授)の存在です。メンバーは人類史のムーブメントを考察していくことに注力していました。つまりは「人間って何なんだっけ」をゴリラ研究の山極さんや有機農業の藤原さんとダンサー森山さん、脳科学者の中野さんが知的バトルを広げて、過去から未來を考えているのです。こんな"知の融合"が、身体知で考えることもできるのだと感動いたしました。

ちなみにプレゼンテーション前の作業を「リサーチ」と呼んでいるのだそうです。まるでジャズセッションのように時間をかけ森山氏と中野氏が対話を続け、ダイアログでの有機的結び付きを育んでいく。これもまた知の融合であり、徹底した対話なのでしょう(あれ、私たちマーケティングの世界での「リサーチ」とは何やら程遠いものですね)。

コンセプトから人間の身体知へ

ここまで終えた後、イスラエル人の振付家エラ・ホチルド氏の登場です。彼女によって、コンセプトから人間の身体知-動き-に変換されていきます。

その過程を森山氏と中野氏とエラ氏は、次のように語っています。

・過去と未來を考えて、"リサーチ"を通して考えていく。
・自分の見たものに新しい見方を与えて、ダンサーの動きを創造する。
・その時,言語は制約が多い。"言語で手探り"して少しずつ形にする。
・従来の日本教育の受験生パラダイムにある目標があって進むのではなく、正解が分からない中をとにかく進んでいく作業である。

(公演パンフレットより一部抜粋)

これらの過程は、ほぼ「センスメイキング理論」の腹落ちしたらやってみるという考え方に近いですね。正確であるかどうかにウェートをおいて、なかなか実行に移さないのでは何も生まれない。まずは動いてみる、です。

中野氏は、このようなエラ氏の創作振付手法よって、まるで地図をつくる作業のように森山が身体的表現をしながら、作品を創造していく姿を初めてだったと言及し感動しています。それは財産になったと。

 「FORMULA」の問いかけ

 以下は、森山氏が、劇中かなり早口で、観客に語りかけたセリフです。

「わたし」は一人で生きている
と、感じる人も少なくはないでしょう

けれども、それは無数の見知らぬ人たちの生命活動に、直接的に、間接的に,支えられているのです
人間は無数の見えないつながりの糸がないと、生きていくことができません

わたしたちはなぜ、わたしたちだけなのか
わたしたち以外にも、人類はいたのです
けれども、わたしたち以外の人類は種ごと滅びてしまい、
もう生き残っているのはわたしたちホモ・サピエンスだけなのです

ホモ・サピエンスが生き延びたのは、集団として生きる為の進化を遂げたからでした
その為に生まれた巨大な脳
そうすることでしか処理できない、複雑な社会性
つながりを求める情動としての、愛情

そんなわたしたちにとって、
生命活動を終えて、物理的に肉体が動かなくなる自体よりも
誰かがいなくなり,大切な人を失って、それを忘れてしまうこと
そして、自分も同じように忘れ去られてしまうであろうこと
それこそが、原初の、リアルな死の恐怖であっただろうと推測できます

人とのつながりが断たれること
「わたしたち」が、小さな「わたし」のばらばらな寄せ集めに過ぎなくなり
誰もが誰かの記憶を失い、思い出をすべて忘れてしまうこと
もしかしたら、そのことこそが、
わたしたちの最終的な死のかたちなのかもしれません

(公演パンフレットより抜粋)。

長い文章です。要約すれば、
「人間が人間たらしめているのは、一体なんなのか」
「人と人とが繋がっていくこと、互いを想いあって生きること」

それがどのような世界を生きていくことなのかを問いかけているのだと考えられます。

「FORMULA」で表現したかったもの

今回の公演を通じて「家族の世界観の中に全ての人間関係がある」、これが辿り着いたものでした。

ステージには、森山氏を含めて六人のダンサーが、家の中にある様々な柱、ドア、間仕切り板のようなものを持って登場します。観客席にも、ところどころに柱が一本ずつが立っています。

舞台のダンサーが持っている柱、ドア、間仕切り板は、別々にの家族が持っているのですが、踊りながら徐々に1人に全てを持たせる(お仕着せるイメージ)こととなり、森山氏が全ての柱とドア、間仕切り板を抱え込みます。
ここが大きなポイントです。中野氏はこれを人間性(humanity)と表現しました。慈悲と後悔の表現であるというのです。

家の全てを1人に背負わせる。オキシトシンは愛情ホルモンであるが、愛情とは全く真逆のしがみつくホルモンである。つまりは、両義性(アンビバレント)の意味を出している。「好き⇄嫌い」が同時に引き起こるのが,人間の家族である(事実、殺人事件の半分の50%は家族関係)。

エラ氏も家族のコンフリクトを振り付けしたと言います。さらに「私としての存在 全てを曝け出すのが創作過程である」と。これが今回の表現のコアだと私は理解いたしました。

「家族の世界観の中に全ての人間関係がある」
人間1人ひとりは変わっていないのに、光の当て方で変わったように感じる。心が移り変わった、裏切られたと思ってしまう。光源が変わって満月の月が変わっていないのに、地球の自転で変わって見えるのと同じ。人間の多面性を表現している、と。

まとめの代わりに

今回の身体知での表現は、目的があってそれを達成させるものだけでなく、分からないものを恐る恐る進んでいくことで新しい知を融合させるのに、極めて効果的なのではないかと感じました。

弊社でも、表現であるプロトタイピング作業で、身体知として寸劇を活用していますが、言葉を超える新しい意味を発見し共有できる点で、重用しています。

今までマーケティングセオリーは分析が中心で、まずは市場分析やSWATなどをしてから課題を抽出し,戦略骨格を決めていくというようなロジカル思考重視だったのは確かです。しかし時代は変化しました。

言葉より身体で伝える人間の本性は、100万年前には実施されいましたが、言語は3000年の歴史しかまだありません。ゆえに脳の中での様々理解するのは、五感を含めて右脳から入るのは極めて自然なことなのかもしれません。

今回の公演を通じて、身体知で理解しながら、それに情報を加えていく。しかも脳科学者、ダンサー、農学博士、振付師が互いに会話していることによって今回の舞台を生み出した姿にとても感動しました。

私たちマーケターも今一度、脳を解放する時が来ているのかもしれません。

(完)

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