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生きる理由はない。けれど死ぬ理由もない

非常にセンシティブなタイトルかもしれないが、

生きる意味(理由)はない。けれど、死ぬ意味(理由)もない
やる理由はない。けれど、やらない理由もない

のような状況が日常の様々な場面で起こりうる。

何かを選択するとき、それを選ぶ理由を考えるのは自然な流れだし、何かを決断するとき、それに決めたい理由を模索するのも自然だ。

けれど、そういう時に限って、納得のいく理由や意味を見出せない時がある。

これまでの人生を振り返ると、「こっちは、何か決め手に欠けてはいるんだけど、特にデメリットもないしな」と、やや受動的な理由で選択や決断をしてきたことは何度かある。

日常の範疇であれば、そもそも「迷う」という状況になっている時点で、大方答えは決まっているように思う。

目の前にある好みの服を買おうか買うまいか悩むとき、前提として「欲しい」という願望が潜んでいる。

「んー、これ別にいらないけど買おうか悩むな」

とは、ならないだろう。

・欲しいけど、値段が高い
・欲しいけど、同じような服を先日買ったばかり
・欲しいけど、似合うかどうか分からない

「買うか買うまいか」というよりも、「今買うべきか否か」で実は迷っているのかもしれない。

迷っている時点で、心の奥底では「やりたい」、「Yesと決断したい」と思っていることが多い。

だからこそ、無理矢理やりたい理由を探し出して決断を正当化しようとするのではなく、やらない理由や選ばない理由を探して、それが何もないと結論づけてみるのはどうだろう。

冒頭に話を戻すと、よく「生きる意味」についての議論やエッセイなどを見かけるが、これがなかなか難しい。

人それぞれだし、そもそもこれを考えることに意味があるのか、と言ってしまえばそれで終わりなのだが、生きる意味について考えて“しまう”状況は、決して良い状況とは言えないかもしれない。

自分自身も、生きる意味について明確に答えられる自信はない。

けれど、ただ一つ言えるのは、死ぬ意味も見出せていないということ。

人間として生まれた以上は、こちらから願わずとも確実に「死」へ近づいている。

それならば、可能な限り生きていたいし、生きる意味は見つけられなくとも、最期には自分が“生きた意味”を見つけられるのかな、いや、見出せるような人生を送りたいな、という具合にしか考えていない。


今、こうして文章を書いている意味や理由だって同じなんだよな。

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