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卑弥呼以前に倭王となった男、スサノオ

日本の歴史において、プロローグのメインキャストとして注目されるのが、まず卑弥呼である。
しかし、彼女の存在感の前で思いっきり霞んだ可哀相な人物がひとりいて、それが「漢委奴国王」なんだ。
この人物は日本史の授業でちょろっと触れられるだけで、ほとんど無視されてるといっていい。
中国から日本史上初めて金印を授かった偉大な人物だというのに、あまりにも扱いが雑すぎるじゃないか・・・。
といっても致し方あるまい。
だってこの人物、あまりにも情報がなさすぎるんだから。
まず「漢委奴国王」という名称、これが金印に彫られてた名称なんだが、読み方は一応「かんのわのなのこくおう」と皆さんも授業で習ったよね?
つまり「親魏倭王」とほとんど意味は同じで、漢が公認した倭王だと。
でも、ホントにそうなのか?
少なくとも、後の魏志倭人伝に出てくる奴国は既に邪馬台国の勢力下にあり、かつて権勢を誇ったはずの奴国王は一体どうなったんだ?

漢委奴国王印

「漢委奴国王」の金印を授かったのは西暦57年のこと。
それから50年を経て西暦107年、奴国の師升という王が再び後漢に朝貢してるんだ。
後漢書には朝貢があったとだけ書かれていて、特に金印を授けたとかの記述もない。
よって、この師升が倭王かどうかは不明である。
とはいえ、50年前に金印を授かった王の後継者が彼だとするなら、事実上の倭王ということでいいのかもしれない。
後漢に朝貢したことで後ろ盾を得た手応えもあり、彼は向かうところ敵なし大王だったんじゃないだろうか。
しかし2世紀の後半には、なぜか「倭国大乱」が起きるんだよなぁ。
興味深いのは、朝貢されてた後漢がこの大乱で奴国を援護したという痕跡が全くないことだよ。
奴国としてはこういう時の為の朝貢だっただろうに、完全にアテが外れたことになる。

倭国大乱の正確な時期が分からんので、この時に師升が存命だったかどうかは分からない。
多分、没後だったと思うけどね。
しかし彼についてはひとつ面白い解釈があって、この師升って名前、中国語で発音すると「シュイシャヌイ」、ちょっと強引だけど「スサノオ」。
そう、あの日本神話に出てくるスサノオって師升のことだったんじゃないか、という解釈をしてる人がいるんだってさ。
なるほど。
そういう考え方、私は好きだね。
だとすれば、神話で天界を追放されて出雲に来たスサノオってのは、つまり倭国大乱で九州から撤退して出雲に本拠を移した師升一族(正確には師升の子孫)というふうにも解釈できるよね。
つまり、出雲族の祖は元倭王の師升一族だった、と。

スサノオ

一方で、師升一族不在となった九州の奴国本体は、敵対勢力と和睦し、協定として九州に大連合を作ることになった。
それがすなわち、邪馬台国の出発点である。
この大連合は大きな戦争被害を反省し、タカ派だった師升と真逆のベクトルであるハト派の卑弥呼を敢えて首班指名したんだ。
この当時の卑弥呼はまだ若いはずで、おそらく20歳そこそこ。
そんな若い娘に連合の長を託すのは本来無謀なんだが、実際のところは「女なら扱いやすいし、こっちの思惑通りに操ってやろう」という各国長老たちの老獪な思惑があったんだと思うよ。
ところが、実際にフタを開けてみたら卑弥呼を操るどころか、彼女に会う事すらできない。
私は巫女ゆえ人に会えません、と。
さすがに長老たちも「おもてたんとちがーう!」と叫んだはずさ。
なんせ全てを彼女の呪術で決めるという特殊な政治システムゆえ、周囲は口を挟む余地がない。
ならばと政略結婚で彼女を取り込もうとする長老も出てくるんだが、それに対しても、私は巫女ゆえ結婚できません、と。
最後は長老たちも、懐柔を諦めざるを得なかった。
おそらく卑弥呼は、周りが想定してたより遥かに賢かったんだよ。

卑弥呼

邪馬台国のそんな様子を、出雲からずっと伺ってたのが師升一族である。
連合などしょせんは寄せ集め、すぐに瓦解するだろうと踏んでたのが意外とそうならない。
武闘派の彼らも「数は力なり」のロジックを理解しており、兵数で勝る連合相手では迂闊に動けん。
よって、彼らもまずは本州で大連合を目指すことに目標をシフトし、一族は武闘派の筆頭であるヤマトタケルに全国の豪族を恭順させるべく兵を動かすように命じた。
日本海沿岸、吉備、近畿、果ては東日本の蝦夷などを制圧し、彼らは着々とその勢力を拡大していった。
そしてヤマトタケルは南の航路で九州南部に上陸し、遂に熊襲を制圧。
邪馬台国連合と隣接する狗奴国を支配下に置いた。
出雲の荒神谷遺跡からは銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個が発見されており、いかに彼らが大きな勢力に拡大していたかが伺える。

ヤマトタケル

まぁこんな感じで、古代は邪馬台国の母系一族vs出雲国の父系一族という構図があったと私は思うんだよね。
ここで母系と父系を一度復習しておくと、
【母系ルール】
・一族の首長は女性。
・後継者は、首長の子の中から女子が選ばれる。
・男子は後継者となり得ず、他家に行くこととなる。
【父系ルール】
・一族の首長は男性。
・後継者は、首長の子の中から男子が選ばれる。
・女子は後継者となり得ず、他家に行くこととなる。

ひとつ邪馬台国の反省をいうなら、首長の卑弥呼が生涯独身で子を産まなかったことだ。
巫女だから生涯独身は当然でしょ、と思うかもしれんが、国家のシステムとしてはそれじゃ困るのよ。
事実、卑弥呼の死後には内紛が起きたわけで・・・。
辛うじて次代は卑弥呼の親族の中から台与を擁立できたものの、もうこんなことはこりごりだから、台与ちゃん、お願いだから先代みたいに生涯独身はやめてね、と周りは懇願したことだろう。
しかし母系の維持というのは、父系以上に難しいものがあるんだ。
なぜって、父系ならば側室を増やすことで子を増やすことが可能だが、母系の場合は女王が愛人をいくら増やしたところで、産む体がひとつである以上は基本的に子が増えないのよ。
もし仮に、台与が男子しか産まなかったらどうなる?
お家断絶なのか?
私は、台与=神功皇后説を支持していて、彼女が男子しか産まず、その彼女が我が子可愛さのあまり一族を裏切り、男系に鞍替えしたというシナリオがどうしても思い浮かんじゃうんだよね。
こうして、応神天皇=神武天皇が父系の初代として誕生したんじゃないか、と。
つまり神武天皇の東征など単なる創作で、ホントにあったのは母の暴走ともいうべき近畿への亡命だったわけよ。
父親は、そうだな、一応仲哀天皇ということになるのかな?
台与がなぜ彼を殺しちゃったかというと、まあメスのカマキリってやつは、交尾が済んだらオスを食っちゃうもんだからねぇ・・・。

オスを食うメスのカマキリ

実はもうひとつ、また別の解釈があって、それは神武天皇が九州から近畿へ行ったことは一応事実なんだけど、ただその内容が東征などではなく、単に近畿への婿入りだったんじゃないか、という考え方さ。
もともと九州は母系社会で、男子である神武に家を継ぐ権利はなく、外へ婿として出されることになる。
結婚相手は神である大物主の娘・イスケヨリヒメであり、この神の子という高貴な設定からして、実はイスケヨリヒメって母系ヤマト王朝の女王だったんじゃないの?
で、ポイントは彼女が産んだ子なんだ。
彼女は3人子供を産んだんだけど、実は3人とも男なのよ。
これ、母系一族としてはどうなるの?
私が思うに、ここで神武が我が子の為に奮起し、周囲の母系論者を一掃して強引に王朝を父系に組み替えたんじゃないか、と。
でもって、「今日から私が初代天皇です。神武天皇って呼んでね」と襲名を自ら宣言。
案外ヤマト王朝の成り立ちなんて、こういうお家騒動の帰結にすぎなかったんじゃないかなぁ。

神武天皇とイスケヨリヒメ

もともと、ルーツの師升も卑弥呼も同郷の九州人であり、そういう意味じゃ両者は兄弟、母系のアマテラスと父系のスサノオなわけよ。
この母系vs父系が古代の戦争の公式なんだが、どうあがいたところで、私は母系が父系に勝つことは無理だと思う。
それは戦力の話でなく、ただ単純に母系では家系が途絶えるリスクが高いというだけの話だよ。
事実、邪馬台国の母系は消滅し、ヤマト王朝の父系が生き残ったわけで。
女王蜂は一匹で生涯80000個の卵を産めるから女王なんだが、さすがに人間の場合はそうはいかない。
人間の女性ひとりには出産の限界がある以上、王は男性とし、その種を複数の女性に与えることが家系存続のカギである。
たとえ母系が戦争に勝ったところで、戦後処理で最終的に勝つのは父系なんだ。

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