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「葬送のフリーレン」から学ぶ日本文化史

最近、「葬送のフリーレン」の話題をよく耳にする。
驚いたのは、このアニメが序盤の4話分を「金曜ロードショー」の枠で放送しちゃったことだよ。
新作アニメとしては異例の扱いであり、いかにこの作品が別格かということだ。
作品の内容は、エルフを主人公にした異世界ファンタジーである。
もはや食傷気味ともいえる異世界物だが、この作品が他と一線を画すのは、原作が少年サンデーというメジャー誌の連載漫画ということだ。
異世界物といえば「なろう系」の専売領域かと思いきや、いまやメジャー誌がこのジャンルに参入しちゃうのか・・。

葬送のフリーレン

もともと異世界物といえば、80年代後半に小説「ロードス島戦記」「スレイヤーズ」、漫画「ベルセルク」といった名作が一気に涌いており、これらがルーツといっていいだろう。
私も「ベルセルク」にはハマったクチで、あのヒロインが主人公の目の前でレイプされる展開なんてのは衝撃を受けたもんさ。
これは今のNTR文化の原点でもあり、エロゲに与えた影響も大きいだろう。
「この素晴らしい世界に祝福を」のダクネス嬢が常に凌辱願望を持ってるのも、この「ベルセルク」のパロディともいえるわな。

ヒロインがレイプされながら「見ないで」と主人公に喘ぎながら言うシーンは心が痛い・・

「葬送のフリーレン」で私が萌えたのは、主人公の声を種崎敦美が担当してたことだ。
この人は「魔法使いの花嫁」のチセ、「響けユーフォニアム」の鎧塚先輩、「青春ブタ野郎」の双葉など、人とコミュニケーションとれない女子を演じさせたら間違いなく日本一の声優である(SPY×FAMILYの幼女ヒロインもやってるけどね)。
今回もそういう役柄かなと思ったら、やっぱりそうだった。
1000年以上も生きるエルフだけに、先に寿命が尽きる人間に対して感情を持たないようにしてきた、という設定。
なんか、切ないストーリーだわ。
私は、序盤なのにもう泣いちゃいましたよ・・。
というか、この作品は「なろう系」と比較するとレベルが違うね。
いや、「なろう系」というのはあくまでジャンクフードであって、もともとクオリティを求めるものじゃないさ。
だけど「葬送のフリーレン」は間違いなくクオリティで勝負しており、私はもはや次元が違うメジャー誌の底力ってやつを思い知らされたよ。
というか、最近の少年誌はこんなオトナ向けの作品を連載してるのか?

特に「なろう系」を否定するつもりはないんだが、こういうシステムの恩恵でプロではないセミプロが普通に作品を発表できちゃう時代ゆえ、中には質の低い作品が出回っちゃうこともあるわけよね。
最近私が「やめてくれぇ」と思うのが、アニメにおけるテンプレの「デレ」である。
「あんたのことなんか全然好きじゃないんだからね!」と顔を真っ赤にして叫んだ場合、それは好きですと告ったのと同義というのがひとつのテンプレなんだが、あまりにも分かり易すぎて逆に萎えることないか?
それこそ昔の少年サンデーなら、不朽の名作「タッチ」の中で浅倉南は絶対デレなかったんだよ。
南ちゃんが何を考えてるのか正直なところよく分からなくて、でもそこが「タッチ」の名作たる所以だろう。
それをイマドキのアニメは全部分かりやすく作っちゃって、行間を読む文学的要素がゼロなんだよね。
その点、「フリーレン」はきちんと行間を読ませる構造になっている。
ああ、さすがだな、やっぱメジャー誌は分かってるな、と思わざるを得ないよ。
このアニメを見てると、プロの漫画家がセミプロの「なろう系」作家に格の違いを見せつけてるようにも感じる。

ツンデレのプロトタイプを確立したとされるのが声優・釘宮理恵

そりゃまぁ、WEB小説と漫画じゃ歴史が違うからね。
漫画の歴史は古く、おそらく原点は平安時代の「鳥獣戯画」だろう。
これを描いた人は鳥羽僧正とされていて、彼の名をとった「鳥羽絵」という1コマ漫画が江戸時代に流行した。
そこから発展し、コマ数を増やしたのが次のものだ。

明治時代のコマ画

ここまでくると、もう完全に漫画だよね。
さらに大正になると美人を描かせたら無双の竹久夢二が出てきて、我が国のサブカルの根幹をなす「カワイイ」の概念が完成した。

竹久夢二夢二作品集

さらに後には江戸川乱歩の「怪人二十面相」シリーズが刊行されて、我が国のサブカルの根幹をなす「厨二」の概念まで完成した。

怪人二十面相

つまり現代日本のサブカルの素地は、昭和初期の時点で既に出来ていたといっていい。
このてのものは手塚治虫から全てが始まったかのような誤解があるが、それは違う。
日本のサブカルはもっと古い時代から始まってるし、そのへんの詳しい部分に興味のある方はこちらをどうぞ↓↓

ひとつ文学の話をすると、日本の近代文学史で面白いのは黎明期でいきなり夏目漱石という頂点ともいえる才能が出てきていることである。
彼は弟子が多くいたみたいで、そこから芥川龍之介が出てきている。
ある意味、漱石は手塚治虫みたいな立ち位置だったんだね。
こういう「トキワ荘」的なグループが明治にはあちこちにあったみたいで、やがてそれが「文壇」というものになっていく。
文壇というのは何かというと、作家や編集者で結成されたギルド、といったところか。
文学に限らず、このてのギルドはあらゆるジャンルに存在していた。
しかし、こうしたギルドには功罪があって、人によっては「若い才能の芽を摘む老害」という解釈もあっただろう。
それもあってか、現代では公式な形での文壇は存在しない。

文豪たちの相関関係

ただ、文壇の功罪の功の方をいうなら、ひとつに日本文学の質の低下を食い止める役割があったと思うんだよね。
見るに耐えないものが出てきたらプロの矜持として潰す、みたいな。
そして現代、その文壇に代わるものがネットを含めた世論ということになるんだけど、どうだろう、かつての文壇が危惧したような惨状になっていないだろうか。
プロと呼べるかどうかも怪しいラノベ作家が横行しており、また不思議にもクオリティが低いのに売れるという異常現象まで起きている。
これは作家の質が下がったというより、作家自身は市場ニーズに応えただけだと思う。
難しくてよく分かんないから~、もっと~、分かりやすくね~、という感じの市場ニーズに彼らは素直に応え、その産物がこれですよ↓↓

テンプレート表現

その点でいうと、漫画メジャー誌はまだ編集部がしっかりしてる分だけ全然マシだと思う。
そこは「葬送のフリーレン」を見て、安心することができた。

腐女子大好き「文豪ストレイドッグス」の太宰治、芥川龍之介、織田作之助、中原中也

昔は電車の中で漫画誌を読んでると、「イマドキの若いもんはオトナなのに電車で漫画なんか読んで、恥ずかしくないんかねぇ」と苦言を呈されたもんである。
昔の人は漫画を読んでると頭悪く見られると思っていて、そういや昔、村上龍が「若い頃は頭よく見られる為に、理解できないランボーの詩集をいつも持ち歩いてた」と語ってたっけ。
今は電車の中で漫画を読んでる人はほとんどおらず、代わりにみんなスマホをイジっている。
電車でスマホをイジるのが悪いとは思わないけど、ただそこにいる全員が黙々とスマホをイジってる光景を冷静に見て、ちょっとキモチ悪さを感じたことがある。
そんな中、スマホをイジらず文庫本を読んでる女子がいたら萌えるな~。
それも、古典文学とか読んでくれてたらサイコー。

この本がBL小説とかだったらイヤだな・・

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