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短編小説《ナツノトナリ》

 真っ白な夏の日を、私は、何色に染めてゆくのだろう。
 真っ白な夏の日を、『彼女』は、何色の瞳で見つめるのだろう。
 
 1年前。真夏の昼下がり。屋外にある小学校プールの監視員の仕事をしている最中、背後に視線を感じて振り返ると、フェンスの向こうで一人の女性がこちらを見つめていた。
 その瞳と目が合った瞬間、私の心臓はドクンと強く脈打った。
 周りの人達も、全ての景色も霞むほど、今存在する空間とはまるで別の次元に分離されているかのように、その人は佇んでいた。
 深くグレーがかって濁りきった鉛のようにつぶらな瞳が、こちらをただジッと見つめていた。
 そのつぶらな瞳に、濁った鉛のような瞳の色に、私は深く吸い込まれていってしまった。
 
 それが、去年私がはっきりと記憶した、戸鳴余志子さんの瞳の色だった。
 
 私には、その瞳の正体がわからなかった。去年見た、あの濁った鉛色の瞳の正体がずっとわからなかった。
 だけど今年、またあの場所で戸鳴余志子さんを見た時、その瞳は去年ほどの重々しい濁りがなく、少しだけ温かく感じたのは何故なのか。その理由が、私は少しだけわかったような気がした。
 その瞬間、去年見た瞳の濁りの正体も、わかったような気がした。
 
 *
 
 断言しよう。私、夏野弥生は訳のわからない人生を送ってきた。何のために生きているのか、生きている意味も見いだせないような訳のわからない人生を送ってきたとハッキリ言える。
 子供の頃、学校で長い間いじめを受け続けたこと。家族から暴力を振るわれ、暴言を吐かれ続けたこと。どんな職場に行っても、常に嫌がらせを受け続けたこと。
 保健室へ通い詰め、家出もして、職場もすぐ辞める。保健室の先生に依存し、彼氏に依存し、友達に依存する。何かに縋らなければ、自分が自分でなくなると思った。
 確かに、いじめは辛いものだ。身近な存在である家族に責められる事も、とても辛い。助けを求める事が出来ないのならば、逃げる事も時には必要だ。
 しかし、そうして逃げる事に慣れ続け、人に依存する事しかしなくなった私は、ほんの些細な失敗や困難にぶつかっても、ひとりで立ち向かう事もせず、すぐにその場を退くような逃げ癖がついてしまっていた。
 逃げて、逃げて、逃げ続けているうちに、私は失敗や困難と同時に、成功や楽しみからも遠ざかっていたのだろう。何かひとつの事を成し遂げる喜びも、生きていくことの楽しさも、自分自身で遠ざけてしまっていた。
 そうして自分の人生が上手くいかず、とても退屈でつまらないという事を、全て過去のネガティヴのせいにして、私は結局、自分の人生における義務や責任からも逃げ続けてきたように思える。
 
 自分が自分でなくなると思ってとっていた行動こそ、自分を自分でなくしてしまう行動だったのではないか。
 
 それに気づけたのは、去年の夏に見た戸鳴余志子さんの鉛の瞳を、今年の夏までずっと反芻していたからだ。
 
 その結果私は、全て戸鳴余志子さんに見透かされていたのだと察した。逃げ続ければ傷付く事もないという傲慢な考えも、いつまでも傷付いた過去を盾にする卑怯さも、大事な局面ですぐ逃げ出し、誰かに依存する心の弱さも。
 そんな自分の心が、戸鳴余志子さんの瞳の色に反映されていたのではないか。私はそう推測した。そう推測せざるを得ない気がしたから、私は自分の今までの行動を恥じ、見直した。行動を見直して、行動を変えた。
 逃げない。依存しない。
 立ち向かう心。立ち上がる気持ち。
 それらを行動に移す勇気。
 戸鳴余志子さんの瞳を反芻する度、私は強くなれる気がした。
 
 *
 
 その日の小学校プール監視員の業務終了後、プールの鍵を閉めた私に、一緒に監視をしていた由乃さんと瞬子さんが話しかける。
「そういえばやっちゃん、去年より若く見えるね!」
「えっ!?」
 瞬子さんに唐突にそう言われ、思わず大きな声を出す。
「ええ、私もそう思うわ。去年よりずっと若くて、イキイキしてる」
 由乃さんも同意してそう言う。
「そ、そうですか……?」
「そう! それに胸もおっきくなったね。なんか目立つし……」
「ええっ!?」
「もう、瞬子さんったら。やっちゃん困ってるじゃない」
「あはっ、ごめんごめん」
 由乃さんに指摘された瞬子さんはニカッと笑い、両手を合わせて軽く謝る仕草をした。
「でもさ、ホント変わったよね」
 無邪気な声から一転、静かな空気を纏った声で瞬子さんが口を開く。
「ええ、本当に。やっちゃん変わったわよ。自分でも気づいてるはずでしょ?」
 柔らかく包み込むような声で、由乃さんが言う。
 静かに私を見つめるふたりの表情は、凪いだプールの水面のように穏やかだった。今まで私が気づけなかった『何か』を、もう既に知っているような顔だった。
「……ありがとうございます」
 そう言葉にすると、フッと自然に笑みがこぼれる。その理由を、自分でもよく分かっている。
 
 ふたりと別れ、プールの近くに置いた自転車の鍵をバッグから出そうとしていると、どこからか視線を感じた。弾かれたようにバッと顔を上げると、そこにいたのは戸鳴余志子さんだった。
 私は無意識に、その瞳の色を見た。鉛のような色には変わりないのに、その瞳からは、初めて会った時に見た重々しい濁りが消えている。霧が晴れたように透き通り、冴え渡った銀色の瞳がクリアに輝いている。
 ああ、やっぱりそういう事だったんだ。
「今、仕事終わり?」
 戸鳴余志子さんはそう言って微笑む。「はい」と声を出そうとしたけど、喉の奥に何かが張り付いたようで上手く声が出なかった。
「みんな帰ったのね」
 そう言ってプールに近づく戸鳴余志子さん。外とプールサイドを隔てるフェンスに手をかけ、プールをジッと見つめている。
「あとは明日の朝まで、ここには誰も入れない」
 私達の頭上で、カラスが高く鳴いて飛んでいく。
「でも私、知ってるの。昔は夜のプールに忍び込んで遊ぶ子供達もいたのよ」
 私は想像してみる。真っ暗闇の中、星と月明かりの下で水遊びをする子供達の姿を。誰にも邪魔されない、子供達だけのプールサイドを。
「忍び込んでみる? 私達も、今夜」
 唐突に戸鳴余志子さんはこちらを振り向き、ニヤリと笑った。私は「えっ!?」と間の抜けた声を上げる。
「私も見たいわ、夜のプール。気持ちよさそうじゃない」
「でっ、でも! いろいろ大丈夫ですか!?」
「大丈夫とか、大丈夫じゃないとか、どうでもいいじゃない。忍び込む、ってそういう事でしょ?」
「それもそうですけど……」
 あたふたする私にトドメを刺すように、戸鳴余志子さんは言った。
「身を委ねましょ? 貴女と私の好奇心に」
 上目遣いのままこちらを見つめる戸鳴余志子さんの瞳は、私を捕らえて離さなかった。
「ね? 夏野弥生さん」
 磨き抜かれた純度の高い鉛のように、妖しくも美しい銀色の瞳。人間離れしたその瞳から、私は逃げられなかった。逃げられず、そして静かに二度頷くのだった。

 まだ暑さが残るその日の午後7時45分。プールの隣の施設から発せられる眩しい電灯と、それに交わる柔らかい暗闇の中、私はプールサイドと外を仕切るフェンスの前に立っていた。家の人には「夜に友達と遊んでくる」と言い、ライトを照らしながら自転車を漕いでここまでやってきた。
 私はフェンスに手をかけ、プールサイドを覗く。初めて見る夜のプールは、想像していたよりも明るく感じた。隣の施設の電灯のおかげなのか、はたまた、雲ひとつない夜空に輝く満月の光のおかげなのか、暗闇に浮かぶプールサイドは様々な光と闇が混ざり合う複雑な藍色に見えた。
「ごめんね。待った?」
 電灯の当たらない暗闇の中から現れた戸鳴余志子さん。少し小さな声でそう言って、小走りでこちらへ走ってくる。
「いえ、大丈夫ですよ。私も来たばっかりです」
「そっか。じゃあ早速忍び込みましょ」
 そう言うやいなや、戸鳴余志子さんはフェンスのてっぺんに両手をかけた。
 次の瞬間、トンと地面を蹴った戸鳴余志子さんの身体は、軽やかにふわっと宙に浮き、まばたきする暇もなくフェンスを越えてプールサイドに降り立っていた。
 私が唖然としていると、戸鳴余志子さんは「大丈夫? 来られる?」と振り向き、今度はプールサイド側からフェンスのてっぺんに手をかける。そしてまた軽く地面を蹴ると、ふわりと宙を舞った戸鳴余志子さんの身体は、それ程太くもないフェンスのてっぺんの上でバランスを保ち留まったのだ。
「ここから引っ張ってあげるから、ジャンプして」
「えっ!?」
 フェンスの上に立つ、この人間離れした目の前の戸鳴余志子さんに、戸惑いの目を向ける私。
「おいで」
 フェンスの上でしゃがみ込み、右手を差し伸べる戸鳴余志子さん。まばゆい満月の光が逆光となり、妖しく浮かび上がるそのシルエットが、より人間離れした雰囲気を醸し出していた。私は思わず身震いする。その震える右手を天高く伸ばすように、戸鳴余志子さんが差し伸べる右手を掴んだ。
「飛んで」
 戸鳴余志子さんに言われるがまま、私は膝を曲げ、両足で地面を蹴る。戸鳴余志子さんの握る手に力を感じた瞬間、私の身体は地面を離れ、空に浮くように舞い上がった。その間、時間が止まったような気がした。
 気がついた時には、私はフェンスの向こう側のプールサイドに降り立っていた。何が起こったのか、私はまだ把握しきれていない。
「これで、私と貴女は共犯ね。フフッ」
 後ろに手を組み、いたずらっ子のように戸鳴余志子さんは微笑む。
「向こうの飛び込み台に座って、お話しましょ」
 未だ状況を掴めない私は、まるで魂を抜かれたかのように、戸鳴余志子さんの言葉にただコクリと頷くのだった。

 靴も、靴下も脱ぎ、二人で裸足になる。五つ並んだ白い飛び込み台の真ん中に戸鳴余志子さん、その右隣に私が腰掛ける。
 私は足を伸ばして、プールの水に足を入れてみた。日中触れるプールの水と、それは全然違う。暗い色に染まったプールの水はほんのり冷たく、どこまでも深く続く闇のように見え、浸した足はその闇に一部飲み込まれているように感じる。それがどこか不気味に見え、一瞬寒気を覚えた。
 私の左隣の戸鳴余志子さんはプールを見つめたまま、飛び込み台の上でこぢんまりと体育座りをしている。その姿があまりにも可愛らしく、愛おしくて、思わず私はクスッと笑う。
「どうしたの?」
 戸鳴余志子さんは不思議そうにこちらを向く。
「いえ。……余志子さん、可愛いなー……って」
 少しずつ小さくなる私の声に、戸鳴余志子さんはクスクス笑う。
「フフッ……私、可愛いのかしら。貴女にそう言われるなんて思ってなかった!」
 クスクスという笑い声から、次第に大きくなる戸鳴余志子さんの笑い声。私もそれにつられて、アハハと声を上げて笑った。
「貴女と来られてよかったわ。夜のプールに」
 笑い声の後、心底楽しそうに弾んだ声で戸鳴余志子さんが言った。
「私もです」
 心からそう思った。はっきりと言葉にして、自然と笑みがこぼれた。
 突然、バツンと辺りが暗くなる。隣の施設の電灯の、消灯時間が来たようだ。強い人工の光が消えた事で、夜空に浮かぶ満月の光がより一層輝きを放ち、暗闇に飲まれたプールサイドをぼんやりと薄明るく照らし出す。
 戸鳴余志子さんは夜空を仰いだ。私はその瞳を見た。純度の極めて高い星々の銀色に、闇を裂く程まばゆい満月の金色を混ぜ合わせた、夜空の全てを映し込む大きな瞳。

 私は心のどこかで知っていたのではないか。
 戸鳴余志子さんの瞳を色を。

 私は心のどこかで気づいていたのではないか。
 戸鳴余志子さんが全てを知っていると。

 私は心のどこかで願っていたのではないか。
 戸鳴余志子さんに全てを暴かれる事を。

 そして、私は変わろうとしたのではないか。
 戸鳴余志子さんの瞳の色を、この心に持ち続ける事で。

 戸鳴余志子さんはプールに足を伸ばす。水に入った爪先から、その白く細い足はシュワシュワと音を立て、泡となって消えていた。
「余志子さん……」
 私は息を飲む。そして、言葉を続けた。
「余志子さん、あなたは一体──」
「シッ」
 月明かりの下、戸鳴余志子さんは人差し指を立てて唇の前に添える。
「そこまで聞くのは野暮よ。貴女はもう気づいてるはず……」
 全ての音が止んだ。私が唾を飲む音だけが聞こえた。
「……そうでしょ?」
 上手く声が出せない。私はゆっくりと頷いた。その理由も、私は知っている。
「……なら、それでいいの。これ以上私の正体について語るなんて……あまりにもナンセンスでしょう?」
 コクっと首を傾けた戸鳴余志子さんが、月の光を浴びてニコッと微笑む。新たな旅立ちを祝福するかの様な、清々しく愛に満ちた笑みだった。

「私は、貴女の──」

 優しい夏風が頬を撫でた。シュワシュワと溶ける泡の音が、長く、長く、響き渡った。大きく波打ったプールの水は、パシャパシャと何度も溢れ返って縁に打ち付けた。
 
 この、オーバーフローする水は、私の想いか。
 長い間忘れていた、大切にすべき感情か。
 
 胸がキュッと締め付けられ、目頭が熱くなる。私は笑みを浮かべたまま、静かに涙を流していた。

「やっと、会えた……」

 一人きりのプールサイド。
 震える声で、紡ぎ出した言葉。
 それが私の『答え』だった。

 *
 
 夏が過ぎた。
 少し肌寒い曇り空の下、私はフェンスの外からプールを見つめていた。プールサイドのテントは撤去され、塩素の香りが消えたプールの水は次第に緑色に濁り始めていた。
 この水に、この水の中に、戸鳴余志子さんは消えていったんだ。終わらない輪廻を繰り返す、この水の中に。
 日差しと子供達を受け止める透き通った青。誰も知らない月明かりを映し出す黒。夏の役割を果たして眠りにつく緑。そしてまた夏が来れば、その色は青へと戻ってくるのだ。
 
 それならば、また会えるのではないか。
 
 今年の夏に消えていった戸鳴余志子さんは、来年の夏にまた生まれるのではないか。今年の夏のプールの水を全て抜き、来年再び新しい水を張るように、戸鳴余志子さんは来年また生まれ変わって私の前に現れるのではないか。私はそう信じてやまなかった。
 
 今年の戸鳴余志子さんの存在は、全ての人の記憶から忘れ去られていた。そう、あの日の夜を境に。
 でも私は、覚えている。
 自分で出した『答え』を知っている。
 『あの瞳』を胸に秘めている。
 だから私は、何度でも立ち上がろう。
 壁にぶつかっても、絶望に打ちのめされようとも。
 馬鹿にされようとも、笑われようとも、ちっとも怖くはない。
 私にはいつも、『答え』があるから。
 揺るぐことのない、『あの瞳』があるから。
 来年の夏、『新しいあの人』に会える事も信じているから。
 
「……そうですよね、余志子さん」
 小さく息をついた後、夏の終わりを告げる風に向かって、私はそう呟いた。

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