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ぼくは別にいい人じゃない、“都合のいい人”だ

ふと、ずっと湧いてきている想いを綴っておきたい(自分的に整理しておきたい)と思ってキーボードを取った。

先日ひさしぶりに地元に帰った。僕の地元は岐阜県の山奥にあり、信号もないようなド田舎である。御多分に洩れずうちの田舎も森が伐採されソーラーパネルで埋め尽くされてきているが、そこにはいつも変わらず迎え入れてくれる自然が残っている。
いわゆる買い物ができるような町は車で2~30分ほど山を下らないといけないのだが、今回の滞在では一度も下界に降りなかった。

ひしめき合う住宅も大きなビルもないその場所は、見上げればさえぎられることのない青空が広がっている。こんなに空は青くて近かったかと思わされるぐらいだ。確かに空気のきれいさは圧倒的な違いを実感できるほどだが、別に東京の空だって青いし数は少なくても星だって見られる。でもいつしか都会では空を見上げることが少なくなっていた。(新しくできたお店や、すれ違う美女や、スマホばかり見ているのかな…苦笑)

ずっと実家近辺で過ごし、日差しを浴びながら洗濯を干したり、散歩をして鯉に餌をあげたり、お墓まいりに行ったり、子どもを自転車に乗せて学校まで遊びに行ったり、森に入ったり…とにかく澄んだ空気の田舎と戯れた。

そんななか、近所の老後に都会から移住してきた夫婦のお庭にお邪魔することがあった。そこには(僕が特に3年前あたりに深く関わっていた)パーマカルチャーな世界ができあがっていた。
広く開墾された土地に畑があり、ニワトリが平飼いされ卵やヒヨコを産み育てやすい設計の古屋が作られていたり、脇には枯れ木や落ち葉を熟成させられるコンポストがあったり、薪が積み上がっていたり、ピザ窯があったり…と、僕の地元でもここまで完成された生態系を築き上げている人がいたかと終始脱帽しっぱなしだった。ちょうどそのときも近くの牧場から牛糞を軽トラいっぱいに積んで帰ってきたところだった。

庭で話を聴きながら土と草むらの上を歩き回っていると、どこか忘れていた“丁寧な感情”が蘇ってきていた。すごく心が癒されたのだ。やっぱりこういう世界が身も心も気持ちよくしてくれると実感した。

でも、結局僕はただの訪問者であり、傍観者だ。

たまにそういう環境に還っては「やっぱこれだよね〜」とほざいている。その良さと価値を信じ、ずっとパーマカルチャーな暮らしづくりを拡げようと言っておきながら、いざ自分がそういう生活にどっぷり時間を投資するとなったら、そこまで人生を賭けられず一歩が踏み出せなかった。

そういう田舎は大好きだし大切にしたいと思っているが、都会の物理的に人が集まるコミュニティにも魅力を感じている。今はそこでやりたいことが見つかって生活している。

(自宅では再生可能エネルギーの比率の高い自然電気を契約はしているが)化石燃料でつくられた電気を使い、ガソリンをまき散らして車に乗り、世田谷区はプラスチック含め大体のものを燃えるゴミで出せるし、使い捨てのモノの恩恵だって日々受けている。重箱の隅をつつきだしたらキリがないと思うが…環境を破壊しながら生きている。

でも、何かの本で読んだ。「もっとも環境保護につながるのは、人が生きないことだ」と。

結局きれいごとを並べても、無情にも資本主義経済は回り続けるし、その歯車にならなければ生きていくのは困難だ。
民=世を經(おさ)め、民を濟(すく)う』というものの、人や自然に優しくなく目先の私利私欲を優先する事業も多く目立つが、それでもお金を動かすことで生きていける家族が増えることは意義があると言われてしまう。

僕も真面目に持続可能なコミュニティ社会の復興を目指して、故郷の選挙に出馬し政治の世界を志したこともあった。
でも(結果を出していないので何も言える立場ではないが…)グローバル化が進みテクノロジーの後押しにもより、趣味嗜好の合う人たちとバーチャルとリアルを行き来しながらつながり合い、国や自治体というコミュニティのあり方が変わろうとしている最中、国境や県境、自治体の境界で票や政策を争っている世界に違和感を抱いていた。もちろん、分業という意味での担当割りであることは理解しているが。(実際、一歩自分の選挙区を越えると見向きもしない候補者、政治家もいた…)

経済においても、お金はあくまでもツールであるから、法定通貨より仮想通貨が力を持ち始めコミュニティ通貨も拡がり、クラウドファンディングなど新しい資金調達と富の再分配の方法が市民権を得ているなか、旧態依然とした税金徴収システムにも疑問を感じる。事実、脱税や租税回避(タックスヘイブン)も横行し、確定申告での節税対策という無駄な時間やエネルギーが浪費されていることはもったいないと感じる。(なにより、税金の使い道を決める最高決定機関のあれがあんな状態だからね…苦笑)

現状を悲観しても批判しても意味はないから、自分の信じることを声をあげ行動し続けるしかないのだけれど。
つまるところ人は、ないものねだりだし、“都合のいい”生きものなんだと思う。でも、それでいいんだよね。とも最近思う。だって人間だもの。笑

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四の五の戯事に付き合わせてしまったが、経済や社会のあり方、働き方や暮らし方がパラダイムシフトを迎えている今の時代、自分の生き様で少なからず世の中…と大それたことは言わず、周りの数人に何かを伝えられたらと思って日々活動している。

結局いま行き着いたところは、「一度きりの限りある人生、やりたいことだけやって生きる」という身も蓋もない結論だが苦笑、それを続けるためによりミニマルに、そしてできるだけエシカルでユーモラスに、人生を楽しめたらと考えている。
そしてそんな仲間を増やして、世の中をほんのちょっとでも面白くできたらいいなと企んでいる。

なんだかんだ走り書きしていたら長文で駄文となってしまったが、ここまでご静読いただいた方、有賀とうございました!引き続きよろしくお願いいたします。

与え合いの恩贈りで巡る世の中になったらいいな。 だれでも好きなこと、ちょっと得意な自分にできることで、だれかのためになれて、それが仕事にもできたら、そんな素敵なことはないですね。 ぼくの活動が少しでも、あなたの人生のエネルギーになれましたらうれしいです。