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薩摩の示現流と自顕流はどちらもジゲン流と読むけど同じ流派ではないという話

今回は武学についての記事をお届けいたしますね。(^_^)b

武学とは、身体操作や身体を使った格闘術や武器術を研究する学問であり、武術、武道、格闘技が趣味の人にはおなじみの、言ってしまえば「なんちゃって学問」ですね。😓

ただ、武という漢字は矛と止めるという象形文字でできており、ここからもわかる通り、武は戦いを止めるという意味を持っているのです。

織田信長が旗印にした「天下布武」も、天下統一の意志が込められているわけですが、その統一のためには武力だけではなく、徳をもって治めるという徳治主義が必要だったのではないでしょうか。

武には戦うという意味だと思ってしまいがちですが、争いごとを止めるという重要な意味があることを覚えておいてくださいね。


さて、そんなわけで、今回は薩摩示現流についての話をしようと思います。

テレビや映画の時代劇でもよく登場するため、幕末ものや関ヶ原の合戦などを扱った歴史物が好きな人には、けっこう馴染みがある話だと思います。

薩摩ジゲン流は、数多くある剣術流派の中でも「剛の剣」として特に名高い流派のひとつですが、知らない人もいるかもしれませんね。

剣豪ものの時代劇や歴史小説などでも、主人公の強敵として現れるのが薩摩藩士であり、ジゲン流剣術の遣い手という設定がよく見られる話で、このときの漢字表記は「薩摩示現流」であることが多いようです。

ちなみに、薩摩の剣術でいうと、同じジゲン流でも「示現流」と「自顕流」という別の流派があるのですが、音は同じジゲンリュウでも別物なのです。

このことはよく知られていないようなので、今回の記事では少しだけ解説をしてみたいと思います。

示現流は、もともと門外不出のお留め流儀として藩主以下の幹部に相当する「上士じょうし」の身分の侍しか、学ぶことが許されなかった流儀だと解釈されていました。

しかし実際には、下士や足軽身分の者でも、示現流を学んでいた記録が残っているのですね。

このお留め流儀の起源となったのは、戦国時代から江戸前期にかけて活躍した剣豪・東郷重位とうごうちゅういとされており、彼は1561年に生まれ当時としては長寿といえる83歳まで生きて、1643年没とされています。

東郷重位とうごうちゅういは、関ヶ原の合戦があった慶長年間の頃に、これまで学んできたタイ捨流たいしゃりゅう天真正自顕流てんしんしょうじけんりゅうを組み合わせ、独自の創意工夫により、今日では知られる「示現流」を創始したのですね。

1604年(慶長9年)の御前試合でタイ捨流の剣術師範に勝利し、新たな剣術師範に就任した彼は、その後に偉大なお坊さんから「示現流」という命名をもらって、薩摩藩の御流儀として認められたわけです。

しかしながら江戸時代後期になると、達人と評価されるような後継者を輩出することができず、創始者の高弟だった門人が分派した別流派に、実力面で見劣りする有様となってしまったのです。😓

このような状況に至った最大の要因は家督争いで、その家督争いのために門人たちが分裂したことに衰退の原因がありました。

跡目を継いでいた東郷家当主の継母の子と東郷家当主の本妻の子の間で起こった家督争いは、東郷家本妻の子が島流しにされるという結果を招いてしまいました。

その後を継いだ東郷家継母の息子は技量が低く、体調も不調気味で病気がちだったため、東郷示現流の門人たちも減ってしまい、次第に衰退してしまったのです。

この事態に対して、東郷家は思い悩んだ末、技量に優れ、門人からの信頼も厚かった薬丸兼慶やくまるかねよしに師範を委ねて、示現流を再興する決断を下したことで、薬丸派示現流が誕生したのですね。(^_^)b


薬丸家の先祖である薬丸兼陳やくまるけんちんは、示現流の創始者東郷重位の高弟であり、家伝として受け継がれていた野太刀の技を修めた後、これを示現流とは別に編み出し、個性的でかつ優れた古流剣術を確立しました。

その薬丸派示現流を東郷宗家の示現流と区別するために「野太刀自顕流のだちじげんりゅう」として別表記するようになったというわけですね。

この流派は、紆余曲折うよきょくせつ、混乱衰退の末に、示現流とは似て非なるものとして、「ジゲン流」という同音の宗家の流派と区分されることになったのです。

薩摩では、この二つのジゲン流が存在していたのですが、多くの分派もあるなかで現在まで伝承されているのは、ほんの一握りの流派になっています。

薩摩の剣術は、直心影流(正式名:鹿島神傳直心影流)や剣術・居合い・棒術・柔術・鎌などの総合武術、浅山一伝流も学ぶ者がいたようですね。

通説として「薩摩の太刀は初太刀を外せ」というのは、初太刀さえ外すことができればあとは楽勝だという解釈があるけど、これは誤解です。

示現流は、ただの一撃必殺、振り下ろすだけの剣術ではないのですよ。

その一撃のすさまじさは間違いないけど、そのスピードの速さも半端ないために、普通レベルの剣術遣いの腕前では、避けようとしても避けられないほどの速さと打撃力なんですね。(^_^)b

幕末期には示現流や自顕流の太刀を受け止めたものの、その打ち込みの強烈さのせいで、受け止めた自分の刀の峰や鍔が自分の頭に食い込んだ状態で絶命していた侍がいた、という有名な話もあるほど斬撃の威力は強烈でした。

これは、稽古が重ねられ、一日に何千本何万本と立木や横たえた束木たばねぎを打ち据える稽古を続け、膂力りょりょくも鍛えられスピードも磨き上げられていたからこその強烈な斬り込みだったのですね。

中国拳法の技の極地を称えた「半歩崩拳遍天下打」という言葉があるのですが、これは半歩崩拳はんぽほうけんあまねく天下を打つと読み、中国拳法の形意拳の達人郭雲深かくうんしんを讃える言葉です。

形意拳の達人郭雲深かくうんしんは「半歩進みながら打ち込む崩拳」という技だけで、天下に敵なしという強さを誇った人物ですが、それくらいに強烈な打撃と同じように、薩摩示現流の斬撃も強烈だったわけです。


一つの芸を徹底的に極めることで、他の芸を習得するのにも役立つという実例ですよね。

実は示現流には、初太刀を外された時の反撃から続く連続技があるのですがその連続技の存在を知らない人が多いんですよ。

だから、初太刀さえ外せば、それ以降はなんとかなるという間違った情報が広まったんだろうと思います。

そうは言っても現代の稽古量や技量では、かつてのような驚くべき技を発揮することはできないですよね。

明治維新の激動期には、ジゲン流の使い手として有名な人物も多く、その中には「野太刀自顕流」の流れをくむ人たちも多かったようです。

現代においては剣術の奥義に達することよりも、流派としての形態、技法、稽古体系を伝承することが、最も重要な目的になっているようですね。

ちなみに小説・ドラマ・映画などでは、両者を混同して「示現流」と表現されることが多いんだけど、実際にはここまで述べたような違いがあることを混同しているので、これはちょっとしたウンチクに使えるかも、ですよ。

ちょっと長くなりましたが、ここまでお付き合いくださりありがとうございます!

自分のスポーツや武道・武術の経験をもとに、武学談義をしてみました。🤗


ってことで、今回は
薩摩の示現流と自顕流はどちらもジゲン流と読むけど同じ流派ではないという話」という薩摩の太刀、示現流と自顕流についてのウンチクでした。😅
※見出し画像のイラストは、メイプル楓さんからお借りしました。


では!

休日に  故きを温ね  のほほんと


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