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自分の生き方のガイドラインになるのが座右の銘や人生訓・処世訓を持つことだ

あなたには座右の銘や人生訓・処世訓といった、自分の行動や生き方の指針としているもの、ガイドラインがありますか?

座右の銘とか人生訓・処世訓などとカタッ苦しく考えなくても、日々の暮らしの中で「これだけは」と自分に課しているマイルールや、意識していることでもガイドラインになり得るので、無いよりあったほうがいいですよね。

私の人生訓・処世訓というのは、過去記事にしたことがあるので、そっくりそのまま引用すると、こんな感じです。


上記の記事の中でも触れていますが、私の人生訓3箇条はこちらです。

1.盥の水 
2.恩は着るもの着せぬもの
3.情けは人のためならず

まず1番目の人生訓「盥の水」なんですが、読み方はタライのミズです。

盥の水や洗面器に満たした水は、奥から手前に向かって両手で水をかき寄せるとその流れは手前のフチにぶつかり、そのまま両脇から向こう側へとまた流れていってしまいます。

それを何回繰り返しても、水の流れは手前にきてもすぐに両側に分かれて向こうへ逃げていくのです。

これが、お金や物や評価や信用までも我欲を出して、自分の得になりそうなことを必死でかき集めている姿になるわけです。

ところが、同じ盥の水であっても、先に手前から両手で向こうに水を押しやると、向こうのフチにぶつかった水は両側に分かれて、両脇から自分の手元に流れ込んでくるのです。😄

手前に流れて来た水を向こうに押しやってあげると、また同じような流れを作って手元に戻ってくるわけですね。

この盥の水の流れが、我欲を捨ててまず相手のことを先に思い、お先にどうぞと差し出せば、いつかは必ず自分のもとに戻ってくるのだ、ということを教えてくれるのです。

損得で判断しがちだけど、目先の損得に目を奪われてはいけないよねっていう教えでもあるわけです。

同じように盥の中に水の流れを起こすとしたら、どちらのほうが好ましいかってこと。

どっちにしても盥の水は流れます。が、先に我欲で手前にかき寄せる流れを生み出すのか、それとも、まずは先に相手に押し出して流れを生み出すのかその判断は流れを生む自分に委ねられているのです。

どうせ同じ流れを生み出すのなら、相手が喜んでくれて自分の心も満たされるような流れを生み出したほうが良くないかな、ってことですね。

我欲むき出しで必死でかき集める姿は醜いと思いませんか。それよりにっこり笑ってどうぞどうぞのほうが、見ていても和やかな気分になれるのではないかと。

盥の水の流れをどの向きにするのかの姿勢で、その人の人格・品性に差が付くのではないかと考えているのです。

これが私の人生訓「盥の水」の話でした。

2つ目の人生訓「恩は着るもの着せぬもの」については、そのまんまで分かりやすいのではないかと。

人から受けた恩を忘れないのは当然として、この「恩は着るもの着せぬもの」という言葉に込められているのは、恩を施したほうは忘れなさいということ。

よく恩着せがましく、なんて言い方をするけど、まさに恩を施した側が相手に対して恩に着せるのは、見苦しいですよね。

恩というものは、受けた側が自分から恩に着るのであって、相手に着せられるものじゃないということですね、それが恩っていうものだと。

だから、受けた恩は忘れてはいけないけど、してやったことはサッサと忘れるべきだということです。

あとは受けたほうが勝手に恩に着てその恩返しを別な人に施す。そういう回り回っていく恩の返し方が、恩の着方と返し方としての心意気じゃなかろうかと、そう考えているのです。

今の夜は、ややもすると
「してやったほうは、些少のことでも、いつまでも忘れずにいる」
「してもらったほうは、大きな恩でも、サッサと忘れてしまう」
なんてことが当たり前のようになってしまいました。

でもですね。人生の難局にぶつかったときに窮地を救ってくれるのは「盥の水」の姿勢と「恩は着るもの着せぬもの」をきちんと守った生き方をして来られたかどうか、そこで決まるのが人生の面白いところだと思いますね。

最後の3つ目はあまり言わないのだけど、ついでにもう一つと追加で出すのが「情けは人の為ならず」っていうヤツですね。(^^ゞ

これを若い頃は「同情はその人の為にならないから、情けをかけるな」という意味だと受け止めていたけど、ほんとは別の意味だったのです。😓

「情けは相手のためにかけるのではなく、自分の心の満足感のためにかけるものだから、見返りを求めるようなものではない」という意味の解釈のほうがぴったりきますよね。


この「情けは人の為ならず」の原典は、武士道の著作で世界的な著名人になった、お札でもお馴染みの新渡戸稲造にとべいなぞうの格言集にあるようですね。

そこに書かれている格言の全文を読めば、さっきの「恩は着るもの着せぬもの」に通じる言葉が含まれています。

施せし情は人の為ならず おのがこゝろの慰めと知れ
我れ人にかけし恵は忘れても ひとの恩をば長く忘るな
『一日一言「武士道」を貫いて生きるための366の格言集』 新渡戸稲造著

『一日一言「武士道」を貫いて生きるための366の格言集』 新渡戸稲造著より

この「情けは人の為ならず」という言葉の意味を、人に情けをかけておけばいつか廻り廻って自分に返ってくるから、人の為じゃなく「自分の為」なんだという風に、早とちりの解釈をしている人が多いようです。

しかし原典を読めば、情けをかけることで「自分の心の慰めと知れ」と書いてあるとおり、廻り廻っての「自分への見返り」を意味しているのでは無いことが理解できます。

見返りを求める気持ちは、原点の文章にはありません。

ただ自分のなしたことを自分で満足することで、すでに完結しているわけなのです。あとから自分へいつか戻ってくる、などという見返りを求めるものではないのですね。

以上の3つが、私が生きていくためのガイドラインにしている人生訓・処世訓になります。

もし、この記事を読んで、自分のガイドラインを決めていなかったなぁという方がおられたら、参考にして頂ければ幸いです。(^_^)b


ってことで、今回は
自分の生き方のガイドラインになるのが座右の銘や人生訓・処世訓を持つことだ」という自分のガイドラインを持つべきだという話でした。😊
※見出し画像のイラストは、メイプル楓さんからお借りしました。


では!

恩情おんなさけ  たらいの水で  のほほんと


<昨日投稿のサブアカの記事がこちら!>


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