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運慶・湛慶親子の仏像「雪蹊寺」お遍路第30番札所「秦神社」長宗我部元親【高知シリーズ】【お遍路シリーズ】

 運慶・湛慶親子の仏像を拝観でき、鎌倉仏像の宝庫とも言われ、仏像の数は四国一の「雪蹊寺」は 運慶作の薬師三尊、湛慶作の毘沙門があり、十二神将も安置されている。一時期、仏師の名から「慶運寺」と名乗っていた時代があり、お遍路の33番札所。イタリア開催の「日本仏像展」に出展され多くのイタリア人の心を掴んだとか。
 その真横に「秦神社」があった。おお~秦氏だ!!と思ったが、祭神は長宗我部元親公だった・・。ただ長宗我部元親公を主祭神とするのは日本国内でただ一つのよう。 

変更履歴

  • 2023/12/14 初版


▼HP▼アクセス▼祭神・本尊と脇時

※後述「▼見どころ」参照

▼見どころ

▽雪蹊寺:高知市長浜857-3

  • 782年から806年、空海の開山の古刹

  • 四国八十八ヶ所霊場33番札所

  • 創建当時は少林山高福寺と称する真言寺院だった

  • 仏像の数は四国一で、運慶作の薬師三尊、湛慶作の毘沙門があり、十二神将も安置されている

  • 一時期、仏師の名から「慶運寺」と名乗っていた時代がある

  • 「雪蹊寺」という寺号は長宗我部元親の戒名「雪蹊恕三大禅定門(せつけいにょさんたいぜんしょうもん)」が由来


→大師堂

 ここから右に行くと後述する「秦神社」になる。

→本堂

→観音堂、お稲荷さん

 1931年に改築され、こちらが土佐西国観音霊場の札所本尊。写真の通り馬頭観音を安置しているようです。竹林寺もそうだが、馬頭観音も良く目にする。

 観音堂の奥にはお稲荷さんがお祀りされていた。やっぱ、稲荷さん=伏見稲荷大社(私のNOTE)が本宮=秦氏ですね。こっそりアピール?

 お稲荷さんは小さいながらも、凝った彫刻がたくさんあり、神社じゃないよ寺だよアピールしていますね?たぶん・・・。

→本堂裏の宝物館

仏像の写真は公式パンフレットである「https://www.city.kochi.kochi.jp/uploaded/attachment/58080.pdf」参照ですね。

 運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を制作、また、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、善膩師童子像を彫造して安置したとされる。弟子の道運と海覚作の12神将共に、すべて国の重要文化財に指定されている。

●2017年:東京国立博物館 興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」●
四国八十八ヶ所第33番の札所で、四国指折りの仏像寺。運慶作と伝えられる「薬師如来像@重文」や、運慶の子・湛慶作と伝えられる「毘沙門天立像@重文」が安置されるが、運慶展では「毘沙門天@重文」、「脇侍吉祥天@重文」、「善膩師童子@重文」が展示されていた。毘沙門天は運慶の流れを組んでいることがよくわかり、善膩師童子は願成就院の矜羯羅童子に似ている気がした。

私のじゃらん旅行記より
https://www.jalan.net/travel-journal/000073071/

●2018年三井記念美術館で見仏●
運慶の長男坊・湛慶作「木造毘沙門天@重文」と脇侍「吉祥天@重文」と「善膩師童子@重文」が安置されている。毘沙門天像の墨書から湛慶の数少ない真作の一つととされる。毘沙門天像の右腕と左手首などが失われているが、顔は父・運慶に共通する毘沙門顔なのが、すぐわかる。

私のじゃらん旅行記より
https://www.jalan.net/travel-journal/000090057

◆2020年なら博「毘沙門天 北方守護のカミ」◆
 四国1位の仏像寺からは運慶の長男坊・湛慶「毘沙門天立像@重文」三尊が展示されていた。毘沙門は腕が失われているが、顔は運慶作の毘沙門天立像@国宝と瓜二つで、腕の印相なども想像できる。

私のじゃらん旅行記より
https://www.jalan.net/travel-journal/000107318/

▽秦神社:雪蹊寺真横

 秦氏だ!と思ったが主祭神は違うよう。そして、ここの神社は次のNOTE「若宮八幡宮」管轄のようですね。
 ただ、「秦」は長宗我部氏の先祖が「秦」姓であったことに由来しているようですね。やっぱ、賀茂氏と秦氏はつねに近くにいるんだよなと思ってしまう・・・。
 さて、この神社は雪蹊寺が廃仏毀釈で荒廃したときに分けたようで、明治創建で新しいのだが、秦氏の方が復興されたので「秦神社」としたらしい。って、やっぱ秦氏のようですね。

長宗我部氏の菩提寺であった雪蹊寺が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐の中で明治3年廃寺となったため、元親の弟の親房の子孫と称する島弥九郎与助たちは土地の有志たちとともに再三高知藩庁に働きかけ秦神社の創建を請願し、同年12月許可が下りました。

↓公式HP

 主祭神は「長宗我部元親」で、 付祭神として「秦家代々霊」「家臣忠死の徒霊」となっており、秦氏関係もいたと思ってよいかと。

  • 1599年、四国の覇者・長宗我部元親が死去

  • 雪蹊寺が長宗我部家の菩提寺となる

  • 1615年、大坂夏の陣で長宗我部氏は滅亡し、山内氏が治めることになる

  • 長宗我部氏の滅亡後、山内氏は雪蹊寺に香典として寺領100石を与える

  • さらに、長宗我部元親の200年法要、さらに250年法要を行う

  • 1870年、雪蹊寺が廃仏毀釈で廃寺

  • 1871年、長宗我部元親末裔と地域の有志が元親を祀る神社を建立

  • 秦河勝の繋がりもあり「秦神社」とするとか

境内左の舞殿?

→拝殿と本殿

本殿左は「神饌殿」のようです。

→本殿右「長宗我部盛親公慰霊の碑」

→本殿左手前「神母神、四社神」「荒神、二社神」「鎮八幡神」

 祠ですね・正直祭神は不明。

→西宮神社

西宮神社は秦神社よりずっと古い神社のよう。

御創建、縁起沿革等は未詳、云い伝えによると、天正14年、豊後の戸次川の戦に出陣する際、長宗我部の家臣、芳原七郎は曽和家所有の畑で馬蹄にかかった神鏡を拾いあげた。この戦いは歴史的な激戦で長宗我部信親公以下、740余名の土佐武士が討死するという敗北をきしたが無事帰国した七郎は奇瑞ありとこの鏡をここに祭り西の宮と称した。
 その後、御社号が同じであることから、摂津国(兵庫県)の西宮神社から恵美須大神を御勧請し合祭したため、西宮戎とも、又、西の宮権現とも称したが、明治元年、西宮神社と改称した。
 こうした縁起から、近年に至る迄、当社本殿の鍵は曽和家が預かり、祭典のつど御扉の開閉をしたという。
 又、この鏡については、一説に長浜村の曽我部平助の先祖が元親公と共に朝鮮の役に出陣し、帰国した際得たものともいわれる。

↓由緒より

 純粋の兵庫・西宮神社(私のNOTE)から勧請のようですね。

→帰り

 寺の本堂裏の宝物館が見えます。

▼旅行記

▼セットで行くところ

▼仏像展

▽2017年:東京国立博物館「運慶展」

▽2020年:奈良国立博物館「毘沙門天 北方守護のカミ」



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