北九州市 修羅の国と呼ばれた街が「日本一住みたい街」と言われる様になった理由
初の新刊が、甲斐柱様の全面協力にて発売されたが、これは
序章であり、ここで終わらない。むしろスタートである。
私の活動はボクシングジム、そして多種多様な会社の、危機管理
コンサルタント業や、NPOの理事長なので多くの経験をする。
さて、小倉で大手ゼネコンが工事をする、と言う行為は30年程前
は、大変な事だった。
面白い様に、地元住民のターゲットにされた。
そんな時の、北九州のまとめ役が私の師であり、育ての親だった。
色々な所から頼まれ、仲裁に入る。
私は過去、この人の事を「北九州の為に闘った、人情裏話」という
題名で書いた。
公共工事をすると井戸水から赤い水が出る、と言う地域の工事を
まとめた時の話。
私の師が交渉をまとめ、住民に地元の集会所に集まってもらい、
赤水の補償金を渡すのだが、私はここで面白い経験をする。
見た覚えのあるオジサンが立って並んでいる。私は言った。
「あんた確か団地住まいやろ。庭がないのに井戸どこにあるん?」
このオジサンは「あ!そう言えばわしの家、4階やったなあ」。
そう頭を掻いて、帰っていった。
今思えば、懐かしい話だが、今はそんな事は全くない。
逆に、今や北九州は、日本で1番安全な街となった。
しかし経済は思う様に発展せず、人口は減り100万人都市が、現在
92万人となった。
私の師であり、育ての親であるこの人の口癖は一つだった。
「親父が市会議員、辞めてくれたらなあ。わし金に困らんのやけどなあ」。
つまり、普段から人の面倒を見て、票を考える。
親分肌な所があり、困った人にすぐお金を渡す。
いくら稼いでも、誰彼構わず、弱いものにお金を貸す。
金融のプロの私が、どれだけあいつに貸したらダメだ、と言って
も聞かなかった。
普通のサラリーマンが一千万円を貸りる、と言う事自体、相手は
騙してる証拠なのだが返せない場合、集金に行くのは当然、私で
ある。
時に「柳原、もういいぞ。あいつはもう追いかけんでいい」。
そんな事を言う。
選挙で票を取るには、こう言う事も必要としていた。
この市議のお父様は、仏の様な人だった。
だからこそ、息子である師は父の為に票を集めようと、何でも引き
受けた。
北九州市小倉北区の、昭和から平成にかけての我々の選挙は凄まじ
かった。公選法で逮捕なんか当たり前だった。
良くも悪くも、私はこの人の側にいた。
平成10年に亡くなった後、如何に北九州に貢献したのかは、私が
今は1番知っていると思う。
私はお小遣いを、殆どこの師から貰わなかった。
よく考えたらこの方の秘書の様に、親子の様に、お付き合いをした期間は、7年程。
毎日、時には2日徹夜で、と言う時もあったが、本当に楽しく濃密
なスリルのある7年だった。
私の好きな作家で、濱という一つがいる。
警視庁公安部上りの方で、兎に角この人の小説は面白い。
濱氏の書籍に、警視庁公安部の内調経験者の方に「この人の為なら
人も殺せる」と思わせる位、人物と言える大臣がいるそうだ。
その気持ちはよく分かる。私もこの師の為なら出来ると思ってい
た。しかしこの方は、絶対に暴力を振るわなかった。
戦わずして誰が来ても勝つ。
1時間の交渉で、最後は交渉相手に「おいお前」「はい、社長!」
と言う立場に持ち込むと言う、徳があった。
思えば、この育ての親が亡くなったのが享年49歳。
もう25年前となる。私は55歳となり、師の歳を超えた。
しかし、後どれだけ生きても、この人の人徳には叶わない。
だからこそ、私は私の為すべき事を行おうと思う。
仕事もせず、とても不良という言葉では言い表せなかった、10代
から20代。
自業自得で、乞食にまで落ちた21歳の時。
使いきれぬ位のお金を稼ぎ、絶頂を極め、遊びの限りを尽くした
30代。しかしボクシングを痴、が付く程勉強をした30代。
お年寄りが大好き、と言うだけで、訪問介護事業を経営した、30
代半ば。
ジムを経営し、金融とおさらばした40代。
教育や徳、子供の未来の大切さを知る、50代の今。
子供の親と語り合う。
素晴らしい北九州市教育委員会と、利益にもならない事で語る。
今は課と、障害のある児童について意見交換をする立場となった。
こう言う事を書物に残し、これからも為すべく事を行う。
亡くなった育ての親。
そして従業員、教え子やジムの子供達の思いを背負い、北九州を
同士で新しくする。
そう言い続け、為すべく事を行う、と俗人の私が思うと言う事は、
市の職員、市民の方も同じ事を思うのは、自然の摂理である。
かのような流れとして来年、北九州市長選挙を迎える。
偶然ではなく必然の流れである。
北九州市長選挙は、今最大の盛り上がりを見せる。
何せ16年続いた現市長の退任により、北九州を変えると言う候補
が、4人も出馬を表明した。
私は「男は最初に自分の旗色を鮮明にすべき」という信条に基づ
き、過去散々ご紹介した、武内和久、という候補者を全面支援して
いる。
しかし。仮にそれ以外の人がなっても、時代が変わる様に、
北九州も変わる。
現市長の北橋氏が、いろいな取り組みをされ、次世代が受け継ぐ。
我々北九州市民であり、特に経営者は最早、他人事ではない。
来たる北九州市長選挙に向け、何を為すかを明確にし、理念
を掲げ、北九州の為にやれる事をやる事は、宿命だと言える。
「北九州を変える」と言う発想は、今までの北九州も素晴らしい
街であったからこそ、私は生まれて殆どを北九州で過ごした。
であるならば、北九州を変える、のではなく、今ある北九州を
造化させ「ただ一つの街 北九州」を創ろうと決めた、初心を
忘れてはならん、と私は思う。
そしていつか、北九州に日本チャンピオンベルトを持ち帰る。
他の都市と争うのではない。真似されるべき市、尊敬され模倣
される市にする。
こう言う思考が消えた時、本当に日本が終わる時だと思う。
隅を照らす政令指定都市が、一つか二つしかないとすれば、日本
は本当に終わる。
宗教がどうだの、宗教のせいで可哀想だのと言い、仕事がないと
理屈を言い、散弾銃を手にしたり、神に手を合わせるだけの者は、
拝んだその手に職をつけ、働くべきでこれが教育である。
そして、それが健全な街であり、道徳である。
道徳は、ひいては利他的で徳のある日本を造る事になる。
少なくとも何もせず批判をし、愚痴や悪口を言う人や組織は、
見方を変えれば資本主義はおろか、社会・共産主義にも悖る、
ただの贅沢な駄々っ子でしかない。
一隅を照らす都道府県が、48ヶ所あれば、日本は変わる。
問題は何もせず、どこも照らさない都市や首町、政治家に有権者
が問題だ。
北九州は変わる。
そうでなければ、少なくとも私はあの世で育ての親に、合わす顔が
ない。
そう言う荷を背負い生きて行こうと思えば、人生これまた楽しい。
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