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北九州市の為に闘った、人情ウラ話

このnoteという媒体で、自由に使っていい素材を選ぶ検索機能で「北九州」と入れると一番綺麗な写真がこれだった。

因みに、写真右斜め上に写る大きなマンションの隣が、我がYANAGIHARAボクシングジムである。

決して宣伝ではない(笑)。

真ん中に映るモノレールが完成したのは、確か私が20代半ばの頃だったと思う。

北九州は今より景気が良く、前市長時代に完成したモノレール。

このお陰で他地区の会員さんも、小倉北区の我がジムに通え、更に小倉駅迄一本で行けるという便利さ。

このモノレールは、北九州名物とも言える。

我が育ての親 細川松義こと吉永松義

しかし世の中には、表と裏がある。
こういう計画があるとき、昔は地元対策が大変だった。

まだ私が20代半ばの頃の北九州といえば、柄が悪い。
そう全国的に有名だった。

そこにこんな物を架けるとなると、朝昼晩、入れ替わりに音が煩いと、地元住人が喜んで苦情にくる。

時には地元住人じゃない人も来ていて、追い返したこともあるが、今思えば笑い話であり、いい思い出でもある。

暴排条例もなく、民事不介入のこの時代、小倉の中でここが一番怖いという箇所に、まずモノレールの駅を造った。

自慢じゃないが、これを遂行したのが、今うちにいる社員の父と、私の亡き育ての親、細川だ。

この地域を抑えておかないと、他の地区は駅が造れない、という事になる。他の地区から文句が出ると、あそこの地区はいいと言ったやないか。

恐らくこうした、コペルニクス的転回で「一番柄が悪いとこから、モノレールを作ろう」という立て付けに基づき、地元交渉をしたに違いない。

そう思っても、細川はもう亡くなった。
いつか、真相をあの世で聞いてみたい。

育ての親の細川は頭が良いので、こういう作戦と、いざという時、私達の行動の責任を取る親分肌な人で、卑怯な事はしなかった。

怖くて誰も出来ない貧乏くじは、必ず細川に来る。

新北九州空港設立もそうだった。しかしいつもケロッとしてるので、心中は当時分からなかった。
私はこの時、殆どの地域に同行した。

しかし空港ができると本人はケロッとして、他の貧乏なくじを引いていた。

当時、三萩野という所にあるファミレスに、朝7時から午後1時位迄、細川への陳情客がファミレスの玄関までズラリと並んだ。

「北九州の田中角栄」。「パソコンより計算の速い男」。
そんな異名を持っていた細川。

自分にお金をかけない人だったから、目白の御殿代わりがファミレスだった。

当時の私は、何の為に、こんなややこしい事を引き受けるのか、考えた事もなかった。

今なら少し分かる。死ぬ程辛かったろう、と。
49歳で亡くなったが、あれが限界だったかもしれない。
だからあれで良かったのかな、と思う程、とにかくいつも生き急いでた。

手法は違うが最近、小倉駅周辺の開発、黒崎駅の周辺の活性化の相談等々が、私に来る様になった。

相談されると正直嬉しい。市のお役に立ちたいとも思う。

思い起こせば、モノレール構想の初期が、昭和60年。

と言う事はモノレール駅の、ややこしい地元対策を、裏で汗をかいていた時の細川は当時まだ35歳と言う事になる。

これは凄い事だ。

私は北九州を活性化し、教育を主とし、ボクシングも普及させる。

言うのは簡単だが、なぜ私がこう言うことをするのか?
考えると、細川が志半ばで亡くなった影響かも知れない。

いつもノープランで文章を書く私は、こうして書いて思い出し、頭の整理も兼ね、忘れぬ様に残す。

あの頃まだ20代の子供だった私は、単なる細川の運転手であり、法律の詳しい交渉が強引な秘書で、手の焼ける息子でもあった。

「お前はあそこに行って、こう言うふうに話を片付けてこい」。
そう言われるのが嬉しかった。

「俺の言う事が聞けん?今から柳原行かせるぞ。布団敷いとけ」。
そう言いながら、いつも周りを笑わせていた細川の親父。

こういう一つ一つが、今の北九州の一部を作ってきた。

昔と違い、今の北九州は本当に品のいい、そして住みやすい街になった。

それは間違いない。

しかし、その今だからこそ、この現状に満足するのではなく、未来を考えねば北九州の繁栄は永遠に来ない。

ユニバーサルプレイジャパン(株)北九州最大 夢のe -sports


人の人生に指図はしない私だから、誰の指図も受けず、私は北九州の活性化をライフワークとする。

但し、子供や少年教育に力点を置き、障害のある子とない子。
これを交わらせるプロジェクトもやる。

一つ言えるのは、こう言う政治や改革事は、多くの方の意見を傾聴し、諫言をいただき決断するべきと思う。

時代を間違え、おまけに義を利に変え、辻褄の合わぬ言い訳をする、どこかの元府知事には私はならない。

そして決断して起こした行動は、途中で投げない。
投げださい事だけは、細川と私の矜持であり、性格でもあった。

やはり、人間は師を持たねばならない。

私のレーゾンデーテルは、北九州を唯一無二にする。
そうしようと決めた。

それが亡き親、細川の意志でもあると思う。

出処進退の、退を考えれる様に早くならねば、私の様な創業者は特に晩節を汚す。



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