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「かぎかっこ」がない小説おすすめ3選

 もしも小説投稿サイトで公開したら、「読みにくい」とコメントされてしまいそう。だけど読めばあっという間に引き込まれて、「かぎかっこ」がない効果に導かれて没頭してしまう。それが、「かぎかっこ」がない小説の魅力です。

 今回は、私が今までに読んだ「かぎかっこ」がない小説の中からおすすめの作品をご紹介します。
 小説としての魅力はもちろん、「かぎかっこ」がないことがいかに効果的だと感じたのかについても触れて行きますので、ご興味が持てたらぜひ本を手に取ってみて下さい。あなたが好きになれる本があるかもしれません。


1.象の旅

ジョゼ・サラマーゴ著/書肆侃侃房

概要
1551年、ポルトガル国王はオーストリア大公の婚儀への祝いとして象を贈ることを決める。象遣いのスブッロは、重大な任務を受け象のソロモンの肩に乗ってリスボンを出発する。
嵐の地中海を渡り、冬のアルプスを越え、行く先々で出会う人々に驚きを与えながら、彼らはウィーンまでひたすら歩く。
時おり作家自身も顔をのぞかせて語られる、波乱万丈で壮大な旅。

出版社公式サイトより

 私の中で「かぎかっこ」がない小説と言えば、1922年ポルトガル生まれのジョゼ・サラマーゴ。映画『白の闇』(出演:ジュリアン・ムーア、マーク・ラファロ、伊勢谷友介、木村多江)の原作者であり、ノーベル文学賞受賞者として知られています。

 どうして私がこの本を読みたくなったのかと言えば、2022年に読んだ『「その他の外国文学」の翻訳者』がきっかけ。

 この本では、日本語訳が出来る人が多くない言語の翻訳者へのインタビューが行われていて、その中で紹介されていたのがジョゼ・サラマーゴ。私はポルトガルに行ったことがあるので、ポルトガル/アンゴラ文学に興味が湧いて『白の闇』を読み、ジョゼ・サラマーゴのファンになりました。

 更に、この言語の翻訳者として登場した木下眞穂さんのインタビューが大変格好良く、彼女が訳された『忘却についての一般論』(ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著)もかなりツボ。
(感想を長々投稿しているのですが、あまりに長いのでリンクを貼るのは途中までにします。)

 そんな経緯があったので、ジョゼ・サラマーゴ著/木下眞穂訳なんてサイコー! と、『象の旅』を手にしたわけです。

 象に乗ってパレードしながら旅をする! なんて考えると、もしかしたらどんちゃん騒ぎの華やかな景色を想像するかもしれません。
 だけど、それは安全に舗装された道があって、寒暖差に耐えうる衣服や保存食が整っていて、行く先々で上級なおもてなしを受けられて、怪我や病気をしてもすぐに治療が出来て、任務達成すればたんまりもらえる報酬が確約されていれば……のお話。
 1551年が舞台の本作では、そんなものは何一つありません。

 それでも、彼らはポルトガル国王の政治的思惑のために、ウィーンまで行かなければなりません。この途方もない旅物語が、実話に基づいた小説だというのだからびっくりですよね。

Googleで「リスボンからウィーン 徒歩」で検索した結果。何この距離と標高差……。

 道端の石を一つ一つひっくり返しながら進む道、寒さに震えながらの峠越え……。人里近くを歩けば、所によっては沿道で住民たちが手を振ってくれることもあります。だけどそんなのは旅のほんのひとときだけ。

 もちろん『象の旅』は、途方もなく絶望的な場面だけが描かれている苦しい物語ではありません。ジョゼ・サラマーゴ節の、どこか皮肉たっぷりだけど愛嬌のあるやりとりも楽しめます。

 こうした世界観の中、「かぎかっこ」がなく物語が進む。ジョゼ・サラマーゴの作品は「かぎかっこ」がなく改行も少なく一文が長いのですが、それでも引き込まれてしまう魅力があります。
 言うなれば、「かぎかっこ」がないことで本作が巻物に書き記された庶民が主役の叙事詩のように見えてくるのです。

 そんな風に感じられるのは、「かぎかっこ」がなくて登場人物が多いのに、発言が誰のものかわかりやすく読むのにストレスを覚えないから
 あまりにわかりやすかったので、私は読み始めてからしばらくの間、「かぎかっこ」がないことに気付いていませんでした。これは著者の筆力はもちろん、訳者の方々の努力のたまものに違いありません。プロの手仕事、ありがとう……。

 上記の私の投稿にある『ジョゼとピラール』とは、『象の旅』を執筆中のジョゼ・サラマーゴの姿が見られるドキュメンタリー映画です。YouTubeで日本語字幕付きで無料公開されていますので、詳細はこちらの記事にてご確認下さい。


2.ピュウ

キャサリン・レイシー著/岩波書店

概要
舞台はアメリカ南部の小さな町。教会の信徒席で眠る「わたし」を町の住人はピュウ(信徒席)と名づけた。外見からは人種も性別もわからず、自らも語ろうとしないピュウの存在に人々は戸惑う。だが次第に町の隠れた側面が明らかになり……。

出版社公式サイトより

 1985年アメリカ生まれの著者は、2014年のデビュー作『Nobody Is Ever Missing』で『ニューヨーカー』が選ぶ 2014年のベストブックに選出された実力派。

 普通、小説の主人公と言えばかっこいい・可愛い見た目や名前をあてがわれていたり求心力のある発言をしたりと、とにかく目立つ存在ですよね。

 ところがどっこい、『ピュウ』の主人公には何もありません。名前もない、見た目の特徴もない、更に言えばほとんど無言で自分のことを語ろうともしない。
 そんな謎の人物が、敬虔なキリスト教徒が多いアメリカ南部の小さな町に現れるんですから、住民たちの心中は穏やかではありません。神様の教えの通り、本当に隣人を愛せるのか? どこの何かもわからない、謎の存在であったとしても?

 本作には「かぎかっこ」はありませんが、人の台詞である部分が太字になっています。そのため、台詞と地の文の区別はつきやすいのでご安心を。
 その点、ジョゼ・サラマーゴを数冊読んでいる私としては、「わざわざ太字にしなくてもわかるのになぁ」なんて思っていたのですが……。
 台詞が太字になっていることで、感じるものがありました。

 それは、住民の台詞が太字になっていることで、全てがピュウに答えを強いているものだと強迫的な存在に思えること。

 例えば、町の司祭。
 彼は、執拗なまでにピュウの性別を聞き出そうとします。「(性別を教えてくれるのは)準備が出来てからでいい」と言いながらも、かなりの文字数をかけてピュウの口を割ろうとします。その台詞が全部太字。ピュウでなくても司祭の妙な性別への執着に気付けますし、とてもうっとおしく、恐ろしささえ感じます。
 こんな風に聞こえていたら、そりゃ何も言いたくなくなるよね。

 だけどその一方で、ピュウに対して自分のことを語る住民も少なからずいます。彼らの独り言のような、懺悔や告白のような語りもまた、同様に太字で表現されているのですが……。
 ピュウの耳には、同じ太字の声であっても違うように聞こえているようです(ピュウの対応が変わる時があります)。

 すべてが謎のピュウを迎えた町では、週末にお祭りをすることになっています。そのせいでどこかピリピリしている町、閉鎖的な田舎の人間関係の中で、ピュウの道行きはどこへ向かうのか。

 読み終えた時に「幻みたい」と自分が感じたのには色々理由がありますが、「かぎかっこ」がないことでどこかすべてが非現実的に思えたからかもしれません。


3.黄色い雨

フリオ・リャマサーレス著/河出書房新社

概要
沈黙が砂のように私を埋めつくすだろう――スペイン山奥の廃村で朽ちゆく男を描く、圧倒的死の予感に満ちた表題作に加え、傑作短篇「遮断機のない踏切」「不滅の小説」の二篇を収録。

出版社公式サイトより引用

 1955年スペイン生まれ、2022年には自選による『リャマサーレス短篇集』も発行されている作家。『黄色い雨』は彼の代表作と言える作品です。

 彼の作品で描かれるスペインは、日本人が想像するキラキラ明るく陽気で派手なスペインとは一線を画すものです。
 寂れた地方の田舎町、貧しい労働者たちの暮らしといった、どこか砂ぼこりが入り込んで来るザラザラした質感のスペイン。その生活には、ガウディみたいな突飛な創造性が入り込む余地はなく、ロエベのような高級品なんか登場するわけもありません。

『黄色い雨』の舞台は、寂れた地方の田舎町どころか山奥の廃村・アイニェーリェ村(実在する地名で表記はAinielle、Googleのカタカナ表記はアイネレ)。この村で暮らす最後の住民、高齢な男性が主人公です。

スペインの端も端、山間部にある村です。(Googleマップより)

 雪が積もっていれば、まだ前の村の様子と大して変わらないように見えるけれど。いざ雪が溶けてしまえば、真っ白な雪の下に隠れていたものが見えてしまいます。崩れ落ち、朽ち果てて骸骨のようになった家々の姿。静まりかえった村の景色。
 主人公の他に村人はいません。みんなどこかへ引っ越してしまい、村で暮らしているのは主人公と雌犬(名無し)だけ……。

かつての村の住民たちが、1995年以来村で集会をして来た記録の本が2003年に出版されているようです。本の紹介文では『黄色い雨』についても言及されています。(AINIELLE. LA MEMORIA AMARILLA紹介ページより

 さてさて。
『黄色い雨』を読んでみようと思ったあなた。多分、本のページを開いて仰天することでしょう。このエッセイで取り上げているので、「かぎかっこ」がないことはお察し頂けると思います。

 それだけでなく、『黄色い雨』の見た目は私たちが慣れ親しんでいる縦書きの文章とはちょっと違います。本文を引用するのはよろしくないので、恐縮ながら拙作の文章で形式を再現するとこんな感じ。

文章は拙作「夢の島」より引用

 こんな塩梅で、私たちが考える「段落先頭は文字下げ」とは真逆の形式で物語が進みます。私は「かぎかっこ」がないことよりも、この形式の方に面くらいました。でも、慣れてしまえば特に問題なく読み進められます。大丈夫大丈夫。

 冒頭からしばらく、やけに「だろう」が文末に付く文章が続いてなんだかおかしい……。村に誰かが訪ねて来て、それを眺めている主人公の独り言のはずなのに……。読み進めていくうち、主人公が今どんな状況にあるかが明かされます。

 やがて時間はさかのぼり、語られるのは村にまだ誰かが居た頃の短い描写や彼の息子・妻が居なくなった時の光景。
 ただ、村に人が居た時代からこの場所が活気づいて大盛り上がりだったとか、隣人同士の暖かな交流だとかの描写はありません。単に主人公がそういう視線の人だったのか、村自体が崩壊の気配に鬱々としていたのか。
 息子とのやり取りも冷え切った場面だけしか回想されないので、どんな関係性だったのかもその中から読み取ることしか出来ません。

 そんな物語が「かぎかっこ」なしで語られることの意味。作者にどんな意図があったのかはわかりませんが、私はこれを圧倒的な孤独だと感じました。

 よく考えてみたら、(独り言という話し方もありますが)「かぎかっこ」とは基本的には相手が居なければ必要のないものです。誰かに向かって問いかける、懇願する、笑い合う、非難する……。そうした言葉を伝える相手が存在しなければ、「かぎかっこ」は不要です。

 だから、『黄色い雨』の中に一切の「かぎかっこ」がないのは、主人公の孤独が故なんだろうと感じました。それは、彼が村の最後の村民になった時に始まったものではありません。まだ彼に家族が、隣人が居た頃からの孤独。人を安堵させる孤独ではなくて、人を蝕む黄色い雨、圧倒的な孤独。

 作中で主人公は、一言も寂しいとは口にしません。だけど、だからこそ彼の孤立した生活が浮き彫りになって、華やかなスペインとは真逆の静かで陰鬱な村の様子がよく見えます。

 ここまででお分かり頂けたかと思いますが、『黄色い雨』は決して明るい話ではありません。「喪失とは何か」を細やかに立体的に、とても静かな現実味を持って描いた物語です。
 それを美しいと思うか、辛気臭いと思うかは読み手次第。いずれにせよ、『黄色い雨』を読み終えた時に心に染み渡る黄色い雨や、ざらざらとした砂埃の肌触りは、何物にも代えがたい感覚です。


 私の拙い読書感想文では、「かぎかっこ」がない小説の良さは100分の1も伝わらないかもしれません。ですが、もしこの中で少しでもあなたの興味のアンテナにぴんと引っかかるものがあれば、ぜひとも手に取って読んでみて下さい。
 そこから始まる「好き」の世界は、きっと広大でとても素敵なものになるでしょうから。


追記:noet公式マガジン『【小説】読書感想文』と読書カテゴリの『小説の読書感想文』に追加されました。有難う御座います!

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