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飲食ベンチャーで25歳で部長になった男  それと50歳で亡くなった父 〜幼少期編〜

こんにちは飲食ベンチャーで商品開発部部長をしているヤマトです。

現在25歳埼玉県出身で東京在住のただの人間ですが自分が今に至るまでを気ままに書けたらと思います。

話は幼稚園からはじまります

私の実家は地元で寿司屋を経営しておりとても顔が広いほうでそれを助長していたのが父親の性格とキャラクターです。

自由奔放で好きなことをして金を使い思ったことを、とにかくする人で基本的には家におらず仕事か麻雀で遊んでおり会話をするのは週に1回あるかないかでした。

父親は家の敷地内でノリで自分の乗っていたキックボードを車で引き倒したり小学生の自分と競馬の予想をしたり競馬のアイドルタイムはチンチロをしたり家族に相談なく車や犬を買ってきたり人様には言えないことも多くあったとおもいます 

現在でも父親を超えるクレイジーな人にはあったことがありません。

そんなこともあり物心ついた時から周りに人間からは顔を見るたびに「〇〇の跡取り」や「●●のせがれ」など何万回も言われて生きてきました。

このことが尾をひき自分は気がついた時には飲食をやる以外の感覚が全くなく他の職業が選択にあるということすらも知らない位でした。

学校に行けば先生に言われ友達と遊べば相手の親に言われ街を歩けば知らない人にも言われたらどうしょうもないですよね。歌舞伎役者の跡取りに気持ちはわかると思います。

会社の海外進出!?

例のごとく父親は気がついたときには訳のわからないことをしておりました。
いつも家にいない父親が1ヶ月以上いなかったのです
これは流石におかしいと思い母親に聞くとタイっていう当時は全く観光地になっていない発展途上の訳のわからない国に店を出しにいったというのを聞かされます。
当時は全く理解できませんでした。
何故かというと父親は高卒で成績をオール1だから上から定規で一本線で書かれたことがある程の学力で英語もタイ語も話せない状態です。
もちろんタイに法律やルールなどは全く知りません。
父いわくタイ語が喋れるようになってからや法律を学んでからの行動では遅い!負けてしまうから見切りで発射したそうです。
その状態で何千万とぶっこむことは今飲食ベンチャーにいる自分でも考えられません。

それから徐々に生活が少しずつ変わっていきます。
今までごく一般的な暮らしだったと思いますが子供ながらにお金がないことを悟りはじめます。
理由としては料理におかずが畑で取れた筍や芋や白菜がメインでお肉とはは出なくなってきました。
今でも思い出すのはお店で仕入れたマグロに皮についている少しに身を一生懸命母親とスプーンでかきとって食べてその皮も茹でて食べていました。

父親も普段は親友の美容室で髪をきっているのにバリカンで坊主にしているのをみてこれは結構やばいのではないかと本気で思いました。

なので当時流行っていたゲーム機などは買ってもらえず弟とダンボールにゲーム機の絵を書いてボタンを押すマネをして頭の中でお互いに楽しむという極限の遊び常にしていたのは良い思いでです。
その反動で自分は今になってもゲームが楽しめず逆に弟はゲーム会社に今は務めることになったのかもしれません。

あとで父親に聞いた話ですが当時はやっぱりお金がなくタイに屋台に30円にチャーハンが買えず一緒にいた仲間達とずっと眺めていたら屋台におばちゃんが近づいてきてあげるからお皿もってきなって言ってくれたそうです。
ですがお皿すらもっておらずお風呂で使うお湯を汲む桶をもっていって山盛りにつめてもらって泣きながら仲間と食べたと話していました。
その仲間の人は当時の話をするとキツすぎたらしく泣き出すそうです。

私のなかで形成されたこと
①訳のわからない自信と行動力が正義
②歪んだ父親像
③社長の家庭は経営状況とリンクしやすい
④語学は行けばなんとかなるかも

次回はタイの会社軌道にのるです。


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