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【エッセイ】花はグロい


  花は、グロテスクだ。
 
 断じて詩的な意味ではない。花を美しい、きれいだなんて思うのは、我々人間の、一種の思考停止だ。まやかしだ。花そのものを、見ていない。
 
 試しに今度、花を改めて観察して花びらのひとつひとつや茎や根や、花弁のなかをじっくりと見てみてほしい。花が発する臭気を感じてみてほしい。

 生々しくて、仕方がない。花は、生きることの、生の、かたまりみたいな形をしている。臓器のように鮮やかな色をしている。花弁のなかには小さい花粉管のツブツブや点々やらがいっぱいあって、私には、気持ち悪くてたまらない。
 
 みんな、花のサイズ感と色に騙されている。ボルネオ島やスマトラ島に生息するラフレシアなどは良い例だ。あれだけでかくて、生をモロ出ししている生物を、「わあきれい」なんて言えないはずだ。

 花は虫を誘う。自らの生存のために、虫を利用する。狡猾だ。私たちも花の術中にはまっている。花という概念だけで、判断している。植物ということばや感情をもたない生物を下に見て、あなたは実は細部まで気にも掛けていないのだ。そのことにも私は腹が立つ。
 
 だから、好んで花畑や庭園なんてものに行くやつの気が知れない。花を寄せ集めて、ほらきれいでしょう色とりどりできちんと区画してこういうのが好きでしょう、と人間が人間の観賞用に整備するのだから、ますます生をばかにしている。吐き気がする。
 
 もっと、花の荒々しい生というもの、グロテスクさを認めるべきだ。生というものをここまで生々しく、自らが生きながら表現していること、なりふり構わず生を謳歌していることを褒めるべきだ。そして、畏敬の念を抱くべきだ。

 人間は格好つけて、そんなものを面に出そうとしない。利口ぶって、自主規制している。生に対して必死だと悟られたくない。ダサいと思っている。そんでもって社会という仕切られた花壇のなかで、スマートに生きているふりをする。

 花を、可憐な少女のように、儚くか弱い存在のように、エグい偏見で見るな。
 今こそ私たちは、グロくて力強い花の生きざまを学ぶ頃合いだ。


(了)

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