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日本人が「自己主張をしない控えめな人々」というのは本当か?

一般論として、「アメリカ人にはわがままな人が多い」という認識がある。しかし、僕はアメリカ人が本来の性質としてわがままである、という認識はない。ただ単に、「アメリカ社会が、自己主張を要求する文化」が背景としてあるだけな気がしている。

実際、日本で暮らし、日本文化の中で生きているアメリカ人を見ると、じつに日本人らしく振る舞う。それは、彼らが「日本びいきだから、日本の文化をリスペクトしている」わけではなく、日本の文化の中で生きているうちに、自然にそういう振る舞いになってしまうのだろう。日本でわがままに振る舞うと、最終的に、自分の不利益になってしまうことがわかっているからだ。

同様に、アメリカでの暮らしが長い日本人は、どうしてもアメリカ人のように振る舞うようになる。「アメリカ帰り」の日本人がどうにも浮いているように見えるのはそのためである。もっとも、そういう日本人も、帰国してしばらくすると、また他の日本人と同じようになっていくものではあるのだが。

養老孟司が日本の文化について著書で書いていた。日本の文化は、来訪者に対して、「黙って茶を出す文化だ」と。一方で、アメリカは「紅茶にしますか? コーヒーにしますか?」と迫られる。

飛行機に乗ると、「チキンか魚か?」と言うのを聞かれるけれど、あれはアメリカ流の文化だというのだ。就職したとき、社外の会議があると、会議室の机にいつの間にかお茶のペットボトルが置かれているのが普通だと思っていたが、とある総合商社の会議室に行った時、メニュー表が手渡されたのは驚いた。豊富なメニューはあれど、みんな浮いてしまうことを避けて、当たり障りのないメニューを注文していた。あれは欧米の文化なので、ちょっと馴染みがないな、と思ったのだろう。

アメリカ人は、自己主張をしないと埋没してしまい、不利益をこうむる、と思っている。そういうふうに社会が仕向けているので、「自分はこう思う、だからこれを選択する」と、やや無理にでも自分の意見を主張しないといけないのだ。逆に言うと、日本人は自己主張をすると浮いてしまい、不利益をこうむると考えている。

しかし、当たり前だが、自己主張をしない人々が消極的で、そういう人の集団は永遠に発展していかない、ということはもちろんない。日本が一番経済成長を遂げていた高度経済成長期は、サラリーマンは個性を押し殺して働くことが求められ、「個性」「多様性」ということはあまり要求されていなかったのではないか、と思う。

つまり、日本人は「個人としては自己主張を控える」が、「組織として、他から抜きん出る」意欲には旺盛なのである。

最近、部署異動があったので、部内での歓迎を目的とする簡単な飲み会があった。

僕はこういう席では、個性的に振る舞うのではなく、むしろ個性を殺すのに苦労する。自分をそのまま出すとかなり変なヤツになってしまうので、なるべく当たり障りのないことを言うのだ。なので、最初は「つまらないやつだ」と思われるぐらいでいい、と思っている。

だんだん、接している時間が長くなるうちに、押し殺した個性の中から、本当の個性がにじみ出てくるものだと思っているからだ。

アメリカにいるときはアメリカ的に振る舞い、日本にいるときは日本的に振る舞う。結局は、それが正解なのでは、と思っている。ときにそれが息苦しく感じることもあるけれど、どの国でも似たようなものではないのだろうか。

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