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サッカーW杯の熱狂の意味、戦争から平和へ

サッカーW杯が、いまカタールで開催されている。
ABEMAで全試合無料放送されていることにすごく感謝。

12/5(月)の28時(12/6の朝4時)、
眠けまなこをこすりつつ、テレビの前に陣取った。
日本VSクロアチアを観るためだ。
妊娠中の奥さんも、起き出してきて、一緒に観る。

結果は知っての通り、延長戦込みの120分で決着が着かずにPK戦へ。
日本は、PKで相手ゴールキーパーに3本止められて敗北。

「新しい景色」と言われていた初のベスト8進出を逃した。

本当に悔しすぎて、悔しすぎて、しばらく放心状態になった。
代表選手の比じゃないだろうが、自分事のように悔しかった。
なぜ、ここまで悔しいのかと自分でも不思議だ。

自分の場合で言うと、サッカーは元々好きではあった。
小学生時代に、地元のスポーツ少年団に所属し、
右ウィング(フォワードの右位置)で、サイドから駆け上がり、
中央のフォワードに、センタリングを上げるという
役割を担っていた。足だけはや速かったからだ。
以来、サッカーは30年弱プレイから遠ざかっている。

普段、サッカーを熱心に観ない自分であるが、
W杯での日本代表の応援には、自分でもよく分からないほど熱が入る。
周囲やネットを観ていても、それは感じる。

普段はサッカーを観ていない多くの人が、日本代表を応援する。
代表選手は、活躍すれば時のスターのように称賛され、
失敗すれば、中傷の対象となる。
こんなに国が熱狂するスポーツの祭典はあるだろうか。
国対抗のサッカーには、
不思議なパワーががあるんじゃないだろうかと思う。

サッカーのW杯が、なぜこんなに特別なのか?を考えてみた。

国を代表する選手が、相手陣地に攻め入り、攻撃をする。
また、相手の国を代表する選手が、味方陣地に攻め入り、攻撃をする。
相手のゴールにボールが入れば得点となる。
一進一退の攻防により、ハラハラドキドキが常に起きる。
サポーターとして、現地で声援を送る、お茶の間で声援を送る。
その声が届いたかのように、選手達のプレイに影響したような錯覚。
自分が観ていないと安心できない、みたいな妙な一体感を覚えてしまう。
勝利した時には、自分が勝利したかのような喜び。

これは、人が本能的にもっている、普段抑圧されたネガティブな欲求を
スポーツを通して、疑似的に満たしてくれるからではないか?と思う。
本質的に人間に備わっているかは分からないが、下記のような欲求だ。

・同族協調と社会的な他族優位欲求
 →仲間グループと協調する一体感の高揚と、
  仲間グループが、他グループより優位に立つことの優越感

・攻撃闘争の果ての制圧欲求
 →仲間グループが他グループを攻撃し、
  勝利を勝ち取り、他グループを制圧し優位に立つことの喜び

どちらも、仲間グループと他グループという関係性において、
「仲間グループとは一体感を増し、他グループを制圧し、優位に立つ」
という部分が強調される。

人類の歴史を振り返ると、それは悲しいことに戦争と侵略の歴史であり、
平和な時代の方が珍しかった。

これまで数多の国が興り、侵略され、消えていった。

ただ、争い、血を流すことは、本質的に不幸なことだ。
だから、人間はスポーツという疑似的な争い、戦争を生みだした。

それが、特に強調されるのが、4年に一度のサッカーW杯だ。
人間の集団は、自国が他国より強いことを誇り、
誰もが、自分が国の集団の一部であることに熱狂し、
他国に勝利することに歓喜する。
しかも、スポーツマンシップとして、
基本的には試合後はお互いを称えあう。
敗者も称賛できる。
素晴らしいことだ。

サッカーW杯というものがあって良かったと思う。
これがなければ、世界での戦争や侵略は今よりも増えたいたかもしれない。

ロシアによるウクライナ侵攻が起きている現代だからこそ
人間の集団が持つ本能的なネガティブな欲求を理解して
スポーツの力で、世界平和に繋げていくことが重要と思う。

サッカーW杯で戦った選手たちと関係者の皆様、
本当におつかれさまでした。
感動をありがとうございました。

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