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【つの版】度量衡比較・貨幣124

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸幕府を後ろ盾とする松前藩は、寛文9年(1669年)に発生した蝦夷/アイヌの大規模な武力蜂起を鎮圧し、蝦夷地における支配権を確立しました。この頃、蝦夷地の彼方にはロシアの探検隊が出没しています。久しぶりに極東を離れ、ユーラシア大陸の近世における貨幣を見て行きましょう。

◆行◆

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赤夷到来

 振り返ってみましょう。16世紀末にウラル山脈を越えてシビル・ハン国を征服したモスクワ大公国/ロシアは、シベリアの河川交通を利用して探検隊を東へ派遣し、各地に交易・軍事の拠点となる要塞を築かせ、先住民に毛皮や食糧を貢納させました。1605年にはエニセイ川、1631年にはレナ川に達し、1639年にはオホーツク海、1644年にはアムール川に到達しています。

 清朝とロシアはアムール川流域やモンゴル高原の支配権を巡って争ったのち、1689年にネルチンスク条約を締結して講和します。これにより両国の国境はアルグン川・ゴルビツァ川と定められますが、ロシアはバイカル湖の南(ザバイカル)に拠点を築いてモンゴル高原を脅かし、ジュンガル帝国を支援して清朝と争わせています。

 またロシアはオホーツク海やベーリング海峡にも探検隊を派遣し、17世紀末にはカムチャツカ半島に進出します。蝦夷/アイヌはすでに千島列島を経てカムチャツカ半島南端に進出しており、樺太にも樺太アイヌが古くから住み着いて交易を行っていました。松前藩は彼らを介して樺太(からと)や千島(くるみせ)についても聞き及んでおり、18世紀初めには幕府への報告書に記しています。とはいえ蝦夷地全土を松前藩が完全に掌握していたとは言い難く、ロシアの南下に対抗するため幕府が調査に乗り出すことになります。

露西幣制

 ロシアでは、主な貨幣として銀貨が流通していました。1534年の貨幣改革により1グリヴナ(204g)の銀塊から3ルーブリ(68g)=300コペイカ(0.68g)=600デンガ(0.34g)=1200ポルシュカ(0.17g)の銀貨が作られることと定められましたが、純銀1gを3000円とすればグリヴナは60万円、ルーブリは20万円、コペイカは2000円等となります。しかし16世紀後半に欧州の価格革命が波及して銀の価値が1/3となりました。とするとグリヴナは20万円ほど、ルーヴリは7万円弱、コペイカは700円弱となります。

 イヴァン4世(在位1547-84年)は中央集権体制を強化して対外戦争を続け国家財政を傾けました。続くフョードル1世(-1598年)および摂政ボリス・ゴドゥノフ(-1605年)の時代には戦争はおさまりますが、ボリスの晩年に起きた大飢饉をきっかけとしてロシアは動乱時代に突入し、帝位継承を巡って隣国ポーランドの軍事介入を招きました。

 これをなんとか撃退すると、ロマノフ家から新皇帝ミハイルが擁立され、農奴制の強化による農産物の生産・輸出強化とシベリアからの毛皮獲得によって財政再建が図られます。しかしコペイカ銀貨は動乱時代に軍事費捻出のため旧来の0.68gから0.48gに縮小していました。

 ミハイルの子アレクセイは、ウクライナを巡るポーランドとの戦争のため1654年に貨幣改革を行い、国庫に備蓄されていた西欧の貨幣ターレル銀貨(ロシア名イェフィモク)に騎乗皇帝像と銘を打刻してルーブリ銀貨としました。これは当時のコペイカ64枚に相当しましたが、本来のルーブリはコペイカ100枚相当ですから36枚ぶんも足りず、人々はこれを拒みました。そこでアレクセイは翌年これを「目印つきのイェフィモク」と改名し、ルーブリとは異なる64コペイカ相当の大型銀貨として流通させました。

 イェフィモクとはチェコの銀山ヤーヒモフ、ドイツ名ザンクト・ヨアヒムス・ターレル(聖ヨアキムの谷)に由来する名です。16世紀からこの地で発行された大型銀貨がそう呼ばれ、略してターレル、訛ってターラー、ダーラー、ドルとなったのです。この頃の神聖ローマ帝国ではターレル銀貨の純度は889.0、重さ29.2gですから純銀25.96g。純銀1g≒1000円とすると2.6万円相当です。その1/64なら当時の1コペイカは純銀0.4g≒400円ほど、ルーブリは100コペイカ=4万円となります。随分目減りしましたね。

 1655年末、アレクセイは軍事費調達のためにコペイカ銅貨を発行します。これはコペイカ銀貨と同価値とされ、兵士等への俸給に用いられましたが、国庫への納税は銀貨で要求しました。しかし民間では銅貨の偽造が横行し、貨幣価値が下落して物価が高騰したため、1662年7月にはモスクワで銅貨廃止などを求めた暴動が勃発します。やむなくアレクセイは翌年コペイカ銅貨を廃止しますが、軍事費調達のための重税は相変わらず続きました。このアレクセイの晩年の子が、名高いピョートル大帝です。

近東新幣

 ロシアの南のイスラム世界では、7世紀末以来ディナール金貨やディルハム銀貨が流通していました。オスマン帝国では1327年頃に1/3ディルハム(1gほど)のアクチェ銀貨が、1477年にはヴェネツィアのドゥカートを真似たスルタニ/アルトゥン金貨(3.45g)が発行されています。金貨は国際通貨として高純度を誇りましたが、アクチェは次第に純度が低下していきます。

 16世紀にはマムルーク朝を征服してイスラム教スンニ派の盟主となり、欧州に攻め込んで神聖ローマ帝国の首都ウィーンを脅かしたオスマン帝国でしたが、1683年の第二次ウィーン包囲に失敗してからは欧州諸国に反撃され、ハンガリーなど多くの領土を失います。そこでオスマン帝国は友好国フランスに働きかけ、東方遠征で手薄になっていた神聖ローマ帝国へ攻め込ませたのです。果たして欧州連合軍は浮足立ち、オスマン帝国は反撃に転じます。

 1687-88年頃、オスマン帝国は軍事費捻出のため財政改革を行い、新たな大型の銀貨クルシュを発行しました。名称は欧州の銀貨グロシュに由来しますが、重さは欧州のターレル銀貨に相当し、旧マムルーク朝領で流通していた銀貨パラ(2.5ディルハム=3アクチェ)の40倍、小銀貨アクチェの120倍に相当すると定められました。ターレル/クルシュが2.6万円相当とすれば、パラは650円、アクチェは217円です。

 沖縄県うるま市の勝連城かつれんぐすくでは、西暦1669-79年頃の発行年が(ヒジュラ暦で)刻まれたオスマン帝国の貨幣が出土しています。重さ1.2gほどの銅貨ですから劣化したアクチェかと思われますが、この時代には勝連城は廃墟となっているため、東南アジアとの貿易で持ち込まれたものが祭祀の供物とされたのではないかと推測されています。勝連城からは14世紀頃の地層から3-4世紀のローマ帝国の銅貨も見つかっており、同じく東南アジアを経て持ち込まれたものでしょう。

印度貨幣

 インドでは古代から銀貨(東部や南部では貝貨)が流通しており、イランや中央アジア、東南アジアとの交易に用いられました。イスラム勢力が北インドを征服すると、イスラム世界の貨幣も盛んに流通するようになります。

 現代インドの基軸通貨であるルピー(Rupee)は、ヒンディー語ルパヤー(rupaya)、サンスクリット語ルーピヤ(rupya)に遡ります。これは「銀貨」を表し、ルーパ(rupa)すなわち「かたち、イメージ、肖像」から派生した語で、銀などの貴金属を鋳鍛して一定の形にし、肖像を刻印することによります。紀元前のマウリヤ朝時代から用いられた語ではありますが、現代のルピーの直接の起源は16世紀のスルタン・シェール・シャーに遡ります。

 シェール・シャーはムガル帝国の創始者バーブルに仕えた将軍でしたが、1531年にバーブルが崩御すると東方のビハール地方で独立を宣言し、ベンガル地方からインダス川流域に到る北インドの大部分を征服した英雄です。彼は1545年に事故死し、10年後にバーブルの子フマーユーンによって彼の帝国(スール朝)は滅ぼされますが、彼が制定したルピー銀貨(11.53g)はムガル帝国に引き継がれ、基軸通貨となったのです。

 シェール・シャーはダム/Dam銅貨(1/40ルピーに相当)、モール/Mohur金貨(10.95g、15ルピー=600ダムに相当)も制定し、これらもムガル帝国に引き継がれました。この頃の銀1gが3000円相当とすれば、1ルピーは3.46万円、ダムは865円、モールは52万円に相当します。価格革命で1/3になったとしても、1ルピーは1万円余、ダムは250円、モールは15万円相当です。

 ルピー/ルピアは交易やヨーロッパ人によって広く南アジア・インド洋・東南アジア諸国にもたらされ、普及しました。パキスタン、スリランカ、ネパール、セーシェル、モーリシャス、モルディブ、インドネシアなどでは現在でもルピー/ルピア/ルフィヤーが通貨の名称ですし、18世紀中頃から1925年まではアフガニスタンでもルピーが流通していました(現在はアフガニ)。

◆印◆

◆度◆

【続く】

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