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【つの版】ウマと人類史:近世編21・西伯征服

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 遼東にマンジュ国が形成され後金と称した頃、遠くモスクワ・ロシアではミハイル・ロマノフがツァーリに選ばれ、ロマノフ朝が成立しました。大飢饉やポーランドとの戦争でモスクワ周辺が混乱する中、コサックたちは川伝いに東方のシベリアへ進出し、やがて太平洋に到達することになります。

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◆シベリヤ◆

◆エレジー◆

開拓前史

 ウラル山脈以東への西からの進出は、古くから行われていました。ルーシ諸国のうち北端のノヴゴロド公国は、バルト海や黒海との交易によってキーウ(キエフ)と並び立つほどに栄え、12世紀には商人組合が出現しました。周辺の都市や地域も従えて大勢力となったノヴゴロドでは、12世紀前半に公《クニャージ》の権力が弱まって民会《ヴェーチェ》による統治が始まり、共和国となります。

 しかし、ノヴゴロドはスウェーデンとバルト海の覇権を巡って争います。このあたりの都市はスウェーデン系ヴァイキング(ヴァリャーグ、ルーシ)が建設したものが多く、交易や戦争も盛んでしたが、12世紀には北方十字軍と称してドイツ人も進出し、カトリックの布教を行ってノヴゴロドやプスコフの利権を脅かすようになります。ノヴゴロドは軍備を固め、ハンザ同盟に加わってこれらと戦う一方、北東へ販路を広げます。

 9世紀末頃から、ノルウェーの冒険家(ノース人)らは陸沿いにスカンジナビア半島北部を巡り、カレリアを過ぎて白海に到達、ビャルマランドという入植地を築いていました。12世紀頃、ここにノヴゴロド共和国からスラヴ系の入植者が訪れ、川沿いや海沿いにホルモゴルイなどの入植地を建設しました。彼らはポモール(海沿いの)と呼ばれ、14世紀初めまでにはバレンツ海を航行してオビ川河口部のオビ湾にまで到達していました。

 ノヴゴロド本国はジョチ・ウルスに貢納して後ろ盾としていましたが、1478年にモスクワ大公国によって滅ぼされます。しかしポモールたちは遠すぎて従わせにくく、モスクワに貢納しながら新天地を切り開いていきます。

財閥強襲

 イヴァン雷帝がリヴォニア戦争で苦戦している頃、東方では豪商ストロガノフ家がシベリア進出を行っていました。彼らはポモール出身で、製塩業で財を成したのち大荘園を授かり、モスクワ政府の後ろ盾を得てヴォルガ川の東の支流・カマ川流域の開拓と開発を進めた財閥です。

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 イヴァン雷帝はカザンとアストラハンを征服し、ヴォルガ川流域をほぼ手中におさめており、古来の交易ルートを接収してモスクワに富や物資を集めさせました。特に森林地帯からは毛皮や木材が盛んに採集・伐採され、西へ西へと流れて行きます。最終的には英国へ運ばれ、リヴォニア戦争の資金となりました。先住民の抵抗も少なく(かつロシア人が持ち込んだ疫病で大量死し)、この地域の開拓・開発はどんどん進みます。

 ストロガノフ家は各地に要塞(オストログ)を築き、コサックなど傭兵を雇って先住民を抑圧し、毛皮を貢納させました。また農地や鉱山を開発し、漁業や製塩業なども手広く行って、経済的にこの地域を支配下に置きます。彼らはやがてウラル山脈の東、シビル・ハン国にまで手を伸ばしました。

 シビル・ハン国はイルティシュ(エルティシ)川とオビ川の河川交通を掌握し、毛皮交易によって栄えた国でした。ウラル山脈西麓、カマ川沿いのペルミ(1472年からモスクワ領)から、支流のチュソヴァヤ川を東へ遡上すると、標高350mまで低くなった山脈を越えることができ、イルティシュ川の支流のトボル川の支流・トゥラ川の流域に到達します。

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 トゥラ川を下っていくと、シビル・ハン国の都市であったチュメニがあります。イェルマークらがここを陥落させ焼き払った後、別のコサックらが1586年にチュメニを再建し、拠点としました。さらにトゥラ川を下るとトボル川と合流し、1587年ここにトボリスクという要塞が建設されます。その南東にシビル・ハン国の都イスケル(カシリク、シビル)があり、1581年頃にイェルマークらによって陥落しています。

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 チュメニとトボリスクを拠点として、ロシア人は西シベリア(エニセイ川以西)の防衛と征服を続けます。トボル川とイルティシュ川、オビ川との合流地点も抑えられ、1593年にはオビ川下流域にベリョゾーヴォが建設されて北極海への道を掌握、1594年にはオビ川中流域にスルグトが建設されます。

 同1594年にはトボリスクの南東にタラが建設され、さらなる東方への道が開けます。1600年にはオビ川から北極海のオビ湾に出、マンガゼヤという港が作られ、白海との北方航路が繋がります。

 1596-1602年にはスルグトの南東、オビ川の支流ケチ川のほとりにケチ砦が、1604年にはトミ川のほとりにトムスクが建設され、1605年にはロシア人が東シベリアのエニセイ川まで到達します。

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 1607年にはエニセイ川のほとりにトゥルハンスクが建設され、コサックと商人の冬営地となります。1619年にはエニセイスクが、1628年にはクラスノヤルスクが築かれました。ここはモンゴル高原の北麓にあたり、バイカル湖まではもうすぐです。

東海到達

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 1631年にはエニセイスクからアンガラ川、イリム川、クタ川を経由してレナ川に到達しており、同年にウスチ・クート、1632年にヤクーツクが建設されます。レナ川流域の先住民ヤクート人(サハ)はテュルク系言語を話しますが、遺伝学的にはウラル系諸民族と同じで、バイカル湖方面のテュルクとの繋がりから言語交換が起きたもののようです。

 1638年、レナ川の東の支流・アルダン川に到達したコサックのコピロフは、「東のチルコル川で銀が採れる」という先住民からの情報をゲットし、部下のモスクヴィチンに49人のコサックを指揮させ、1639年春に東方への探検を命じました。一行はアルダン川を船で遡り、ウスチ=マヤで支流のマヤ川に入り、その上流の山(ジュグジュル山脈)を越えてウリヤ川を下り、9月半ばに大きな海に到達しました。すなわち現在のハバロフスク地方ウリヤでオホーツク海に達したのです。1581年にイェルマークがウラル山脈を越えてから、わずか58年後のことです。

 モスクヴィチン一行は越冬小屋を築き、先住民から「南方に大きな川がある」と聞くと、翌1640年春に船で海沿いに南下し、ついにアムール川の河口まで到達しました(しなかったとも)。銀が採れるチルコル川とはアムール川のことのようですが、銀が採れたかどうか定かでありません。あるいは清朝からの銀が交易でここまで届いていたことを言うのでしょうか。

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 1643年には、ポヤルコフがヤクーツクからアルダン川を遡って南への探検を開始しました。彼らはスタノヴォイ山脈を越えてアムール川の北の支流・ゼヤ川に到達し、モンゴル系の言語を話すダウール族と遭遇しました。彼らは契丹の子孫ともいわれ、この頃にはエヴェンキ族(ソロン)ともども清朝に征服されて服属していました。1639-40年にホンタイジはこの地域へ軍隊を派遣し、エヴェンキの長ボンボゴールを捕縛・処刑しています。

 ポヤルコフらはダウールの名からここを「ダウリヤ」と呼び、ゼヤ川を下ってウムレカン川との合流地点に越冬小屋を築きました。しかし周辺住民から食料を取り立てる際に乱暴を働いたため、食料をほとんど調達できず、飢餓と敵意に苛まれながら越冬せざるを得ませんでした。133人で出発した一行はスタノヴォイ山脈に49人を残したため80人ほどでしたが、このウムレカンでの越冬で半分の40人が死亡したといいます。翌年春にはゼヤ川をさらに下り、のちのブラゴヴェシチェンスクの地でようやくアムール川に到達しますが、侵略者の噂を聞いた先住民らの抵抗に遭います。一行はそのままアムール川を下り、秋には河口に到達し、1645-46年にモスクヴィチンらの通ったルートを遡ってヤクーツクに帰還しました。

 一連の探検により、ロシア人はついにオホーツク海/太平洋とアムール川に到達し、清朝と境を接することになったのです。モスクヴィチンやポヤルコフが持ち帰った情報はモスクワに報告され、東方へとさらなる探検隊が派遣されます。清朝はチャイナへの侵攻で忙しく、ロシア人の侵入にしばらく気づきませんでしたが、やがて両国はこの地域を巡って争うことになります。

◆異◆

◆国◆

【続く】

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