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【つの版】ウマと人類史:近世編26・西欧歴訪

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 清朝がチャイナを統一し、モンゴルやチベットに勢力を広げていた頃、ロシアではピョートル大帝が在位していました。彼の時代を見てみましょう。

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幼年労苦

 ピョートルは西暦1672年、ロマノフ朝第二代ツァーリ・アレクセイと、彼の後妻ナタリヤ・ナルイシキナの間に生まれました。先妻マリヤ・ミロフスカヤは5人の男子と8人の女子を産みましたが、長男ドミトリー、次男アレクセイ、四男シメオンは夭折し、三男フョードルと五男イヴァンはいずれも病弱でした。1669年にマリヤが亡くなると、アレクセイは側近マトヴェーエフの養女であったナタリヤを娶り、ピョートルと2人の娘を儲けました。

 1676年にアレクセイが崩御すると、先妻の子フョードルが15歳で即位します。マトヴェーエフは4歳のピョートルを擁立しようとしますが失敗し、失脚して辺境の地へ流されます。しかしフョードルが在位6年で崩御すると、彼の同母弟イヴァンは病弱でツァーリにふさわしくないとナルイシキン家により喧伝され、モスクワ総主教の支持によりピョートルが10歳で即位しました。彼の母ナタリヤは摂政となり、養父マトヴェーエフを呼び戻して政治顧問につけようとします。

 これに対し、イヴァンの同母姉ソフィアはストレリツィ(銃兵隊)を煽って武装蜂起させ、マトヴェーエフらを殺して実権を掌握し、16歳のイヴァンをツァーリに擁立します。ピョートルは殺されなかったものの共同統治者に格下げされ、母ともどもモスクワから追放されました。ソフィアは摂政となって実権を握り、愛人ゴリツィンとともに国政を牛耳ります。

 彼らは西欧文化にも通じた開明的な統治者で、ポーランドとは休戦してオスマン帝国と戦いましたが、クリミアやダウリヤ(アムール川流域)への遠征に失敗したことで求心力を失い、軍部や聖職者の多くがピョートルを支持するようになります。1689年、ソフィアは16歳となったピョートルへ政権を譲り渡して修道院に入り、ゴリツィンも失脚してシベリアへ流されます。

 ピョートルの母ナタリヤは摂政に復位し、兄弟たちに国政を委ね、モスクワ総主教ら支持者によって守旧的な政治を行いました。1694年に母が亡くなると、22歳の青年皇帝ピョートルはようやく親政を開始します。1696年には異母兄イヴァンも亡くなり、単独の君主となりました。

亞速侵攻

 親政開始からまもなく、ピョートルは1695年春にオスマン帝国のアゾフ要塞を攻撃しました。これは1683年から始まっていた欧州諸国による「大トルコ戦争」の一環として行われたもので、1686-87年のクリミア遠征もそのひとつです。この頃ヨーロッパ連合軍はオスマン帝国からハンガリー、トランシルヴァニア、ベオグラードを奪還し、ドナウ川を国境としていました。

 アゾフはドン川(タナイス)の河口にある港町で、ギリシア人が街を築いてタナイスと名付け、テュルク諸語ではアザク(azak、低地)と呼ばれました。13世紀、ヴェネツィアやジェノヴァはここに植民都市を置いてターナと名付け、ジョチ・ウルスとの黒海交易を行っていますが、1471年にオスマン帝国によって征服され、要塞が建設されました。1637-42年にはドン・コサックによって占領されましたが、時の皇帝ミハイルはオスマン帝国との全面戦争を危惧し、要塞を破壊させた後にオスマン帝国へ引き渡しています。

 ドン・コサックはドン川の中下流域を縄張りとする武装集団で、ドニエプル川流域のコサックと同じく逃亡農民や遊牧民が16世紀後半頃に共同体を形成したものです。モスクワ・ロシアにより傭兵として用いられましたが反乱することも多く、1670-71年には頭領ステンカ・ラージンのもとヴォルガ川河口部のアストラハンを制圧して大規模な対ロシア反乱を起こしています。

 ピョートルは親政開始の景気づけとして、ドン・コサックらの兵3万余と大砲170門をもってアゾフ要塞を攻撃します。しかし7000人の兵が籠もる要塞は水路によって補給線を繋ぎ、ロシア軍は陥落させられずに10月に撤退します。ピョートルは補給線を遮るため、ドン河畔のヴォロネジに造船所を建設し、5か月でガレー船と閉塞船27隻、平底川船約1300隻からなる艦隊を造らせました。1696年春、ロシア軍はこの艦隊を進発させ、陸路と水路でアゾフを包囲します。ロシア艦隊は砲撃でオスマン艦隊を撃退し、盛んに砲撃をかけて7月に陥落させました。

 ついに不凍港を獲得したロシアですが、アゾフ海の出入口であるケルチ海峡はまだオスマン艦隊が抑えており、黒海への進出は阻まれます。それでもこの成功はピョートルに自信をつけさせ、艦隊の重要さを再認識させます。また1698年にはアゾフ近くのタガンログにも港を建設させ、アゾフ海を制圧せんとする構えを見せています。

西欧歴訪

 1697年3月、ピョートルは250名からなる使節団をヨーロッパ諸国へ派遣しました。対オスマン軍事同盟への参加を打診するとともに、西欧の先進的な軍事・科学技術を導入することが目的です。彼は子供の頃から西欧文化に親しみ、自由で進取の精神に溢れた人物で、自ら「ピョートル・ミハイロフ」なる偽名を用いて使節団の一員となっています。とはいえ身長2メートルの大男だったピョートルは、どこへ行っても目立ったことでしょう。

 まず向かったのは、バルト海に面したクールラント公国(現ラトビア)でした。この国は人口20万の小国ながら商業によって繁栄し、オランダや英国を真似て商船団を組織し、一時は遥かカリブ海のトバゴ島に植民地を持っていたほどでした。この頃には周辺諸国の抗争に巻き込まれて勢力を失っていたものの、後進国ロシアからすればきらめくような文明国だったでしょう。

 ついでピョートルらはプロイセン公国の首都ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)を訪れます。プロイセン公フリードリヒは神聖ローマ帝国のブランデンブルク選帝侯を代々兼ねており、その都ベルリンには芸術アカデミーが設立されるなど、西欧文明が花開いていました。ピョートルは彼と同盟を結ぶと、デンマークを経てオランダへ向かいます。

 1697年8月、オランダに到着したピョートルは、アムステルダムで東インド会社所有の造船所に赴き、正体を隠して船大工として働いたといいます。当時のオランダは世界屈指の文明国で、科学技術や知識もロシアとは桁違いに発展しており、学ぶべきことは山ほどありました。

 同年9月、ピョートルはユトレヒトでオランダ総督兼英国王のウィリアム3世と会見し、旅行の案内をされて各地を経巡っています。またオランダの三部会とも会談した後、1698年1月にウィリアムの招きで英国へ渡りました。彼は英国に100日あまり滞在し、数多くの重要人物と会見し、デプトフォード造船所、グリニッジ天文台、王立協会、オックスフォード大学、武器庫や議会などを訪れて見学しました。ちょうどアイザック・ニュートンがいた時代ですが、彼とピョートルが面会した記録はないようです。

 1698年4月、ピョートルは多数の土産物と雇い入れた技術者集団を伴って英国を離れ、オランダへ戻りました。帰路では内陸を進んでザクセン選帝侯領の都ドレスデンに赴き、ポーランド王を兼務した選帝侯アウグストと会見しましたし、ウィーンでは神聖ローマ皇帝レオポルト1世と会談を執り行っています。しかし欧州列強の君主らはこれ以上の対オスマン戦争に乗り気でなく、対フランスのスペイン継承戦争の方を重要視していたため、ピョートルは対オスマン軍事同盟を諦め、バルト海への進出を目論みます。

 1698年8月、ウィーンにいたピョートルのもとに軍隊が反乱を起こしたとの急報が届き、ピョートルは急いで帰国します。彼は反乱を鎮圧すると国政改革に乗り出すとともに、ポーランドやデンマークと外交交渉を行って、1699年9月に対スウェーデン軍事同盟を締結します。欧州列強もロシアもオスマン帝国とは休戦条約を結び、列強同士の戦争に突入するのです。

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【続く】

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