見出し画像

【つの版】ウマと人類史:近代編15・元文黒船

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 アヘン戦争での清朝の敗戦と開国・開港は、これまで比較的平穏を保ってきた東アジア世界を震撼させます。朝鮮も日本も、英国を始めとする欧州列強の海からの侵略に晒される危険が強まったのです。ではこの頃、北方の帝国ロシアはどうしていたのでしょうか。

◆黄金◆

◆神威◆

勘察加地

 西暦1689年/康煕28年、ロシアは清朝とネルチンスク条約を締結し、両国の国境はアルグン川、ゴルビツァ川、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)と定められます。バイカル湖の東(ザバイカル)はロシアが確保したものの、モンゴル高原の大部分とマンチュリアは清朝の版図となったわけですから、ロシアはこれらと交易を行いつつ、外興安嶺以北の探索を続けていきます。

 ユーラシア大陸東端のチュクチ半島には、17世紀中頃にロシア人のデジニョフが北から海路で到達し、アラスカとの海峡を通ってその南のアナディリまで探検していました。アナディリには砦が築かれ、ここを拠点として南への探索が進められます。1657-59年、イヴァン・カムチャティが南に大きな川があると報告し、その川は彼にちなんでカムチャツカ川と名付けられました。のちこの川が流れている地域が巨大な半島だと判明すると、それはカムチャツカ半島と名付けられることになります。

 カムチャツカの語源については他にも諸説あります。カムチャティというのは「カミーチャ(ダマスク織の絹のシャツ)を着ている者」というあだ名であったともいいますが、ビーバーやアザラシ、オットセイなどの皮のことだともされますし、現地のコリャーク語から来ているともいいます。少なくともアイヌ語や日本語ではなさそうです。

 広大で漁場にも富んだこの半島には、チュクチ・カムチャツカ語族に属する言語を話す先住民イテリメンが住んでいましたが、ロシア人は彼らをカムチャダールと呼びました。その北にはトナカイ(kor)を放牧する人々が住んでおり、のちコリャークと呼ばれました。また南にはアイヌ(千島アイヌ)も住み着いて交易を行っており、アイヌ系の地名が残っています。ロシア人はクロテンやラッコなどの毛皮を求めて、この半島の探索を行います。

 1696年、アナディリから派遣されたモロツコらは半島南端を通って西側に到達しました。続いて1697年、アトラソフはトナカイによる陸路でアナディリから南西へ向かい、半島北西端のペンジナ湾に到達します。そこから海沿いに半島西側を南下し、南端を経て半島東側を北上し、1699年7月にアナディリに帰還しました。彼は先住民たちと戦って殺したりしていますが、途中で「伝兵衛」という名の日本人と出会い、連れ帰っています。

 記録によると、彼は大坂の谷町(現大阪市中央区谷町)出身の商人で、1696年頃に海路で江戸に向かう途中嵐に遭い、遥か彼方のカムチャツカ半島にまで漂流していた人物でした。彼は先住民に出会って1年間を過ごしましたが、そこへアトラソフらロシア人がやってきたのです。アトラソフは珍しがって彼をアナディリへ連れ帰り、日本の情報を聞き出すことにします。

 伝兵衛がロシア語を話せたとも思えませんが、江戸もとい蝦夷(えぞ)で商売をしていたとしたら、アイヌ語を片言程度は話せたでしょう。とすればアイヌ語→イテリメン語→コリャーク語→ロシア語の通訳を介してなんとか意志が通じたはずです。伝兵衛は必死でロシア語を習い、やがてロシアの都へ送られピョートル大帝に謁見し(1702年頃)、日本の情報を伝えました。

 ピョートルは好奇心が旺盛で先進国オランダに留学していたぐらいですから、オランダと交流のある日本のことを伝え聞いてはおり、興味津々で伝兵衛と対話し、質問攻めにします。伝兵衛によれば、日本の君主はクボウサマ(公方様、将軍)といい、欧州諸国のうちではオランダとだけ、長崎の出島でのみ僅かに交易が認められており、キリスト教は禁止されているとのことでした。ピョートルは喜んで彼を日本語学校の教師に任命し、カムチャツカ半島の南に存在する謎めいた国・日本を調査させることにしました。

 伝兵衛は正教に改宗してガウリイル(ガブリエル)の洗礼名を授かり、残りの人生を帝都サンクトペテルブルクで過ごすことになりました。彼については1714-19年にサンクトペテルブルクを訪れたスコットランド人ジョン・ベルが報告しており、その頃までは生きていたようです。

蝦夷千島

 津軽海峡の北の蝦夷地は、古来アイヌ民族の主に住まう土地(アイヌモシリ)でしたが、やがて和人が渡来して南部(渡島)に住み着き始め、交易や抗争を行いました。アイヌは樺太や千島にも広がり、周辺民族と広く交易や抗争を行っています。津軽の安藤氏(のち安東氏)は鎌倉幕府より蝦夷管領の職を授かり、渡島との交易を牛耳りました。14世紀から16世紀にかけては和人とアイヌが混ざりあったとみられる「渡党」が勢力を広げ、その中の蠣崎氏(松前氏)は豊臣秀吉より安東氏からの独立を正式に認められます。

 松前氏は徳川幕府からも蝦夷地の支配と交易を正式に認められ、各地に交易場を置いてアイヌと交易を行いました。その販路は拡大し、1669年に蝦夷地で起きたアイヌの反乱(シャクシャインの乱)も鎮圧して、樺太や千島にまで及んでいます。松前氏が作成した蝦夷地図には国後・択捉・得撫などの島々も描かれました。ただ松前氏が居住する「和人地」はともかく、アイヌが住まう蝦夷地は日本国なのか異国なのか定かでなく、当初は曖昧でした。

 カムチャツカ半島ではロシア人コサックによる征服戦争が行われ、先住民には毛皮の貢納(ヤサク)が課されます。アトラソフはコサックたちの横暴を鎮圧せよと命じられてカムチャツカに赴きますが、1707年に部下たちに捕縛され、1711年には殺されてしまいました。カムチャツカのコサックたち500人ほどの指導者となったアンツィフエーロフらは、同年にカムチャツカ半島の南に連なる千島列島(クリル諸島)への探検に出発します。

 千島列島には15世紀までにアイヌが住み着き、チュプカ(日の昇る)と総称されており、島々にはみなアイヌ語で名前がついていました。ロシア人はこれらアイヌと戦いながら島伝いに南下し、日本を目指します。

 元禄13年(1700年)に作成され、享保2年(1717年)に加筆された『松前島郷帳』には「くるみせ島」「からと島」について記され、「くるみせ」はクリル(Kuril)すなわち千島列島、「からと」は樺太(唐太、サハリン)を指します。どちらもアイヌ語で、「人」を意味する自称クリ(骨嵬/苦夷/蝦夷)および「河口(プト)に作られた(カラ)」に由来します。

 サハリンというのは清朝が満洲語で「黒竜江(サハリヤン・ウラ)の対岸(アンガ)の島(ハダ)」と呼んだもので、古くは同じ島の南側をカラフト、北側をサハリン(サガレン)と呼びました。

 松前氏および徳川幕府は、これらの島々をアイヌを介してロシア人より先に認知しており、「くるみせ」の最北端にある「しいもし(占守[しむしゅ]島)」も『松前島郷帳』に記載されています。また千島アイヌはカムチャツカ半島の南端ぐらいまでは住み着いていたのですから、これも含まれていたでしょう。松前氏はアイヌからロシア人の侵入のことを伝え聞いてか、1715年には幕府に「十州島(北海道)、唐太、千島、勘察加(カムチャツカ)」は我が領地であると報告したといいます。とすればカムチャツカの語が日本にも伝わっていたことになりますが、兵や民を派遣して実効支配を及ぼしていたわけでもなさそうです。またロシア人は漂着してきた日本人を回収し、日本の言語や国情を調査しましたが、毛皮税ヤサクを課された先住民の反乱が激しく、北海道に到達することもできませんでした。

元文黒船

 この頃、デンマーク生まれでロシア帝国に仕えた探検家ベーリングがこのあたりを訪れ、探検を行っています。彼は1727年1月にシベリアを横断してオホーツクに到着し、越冬したのちカムチャツカ半島に渡りました。翌年夏には半島東岸から陸沿いに北上し、ユーラシア大陸とアメリカ大陸の間の海峡(ベーリング海峡)を通過します。

 長さ96km、最も狭い場所で86km、深さ30-50mで、7-10月以外は氷結して渡ることが可能です。かつては海水面低下で干上がって何度も繋がり(ベーリング地峡)、両大陸の動植物や人類が往来しました。

 ベーリングは来た道を引き返して1730年夏にサンクトペテルブルクへ帰還し、報告を行います。その後、1732年に探検家のイヴァン・フョードロフが対岸に陸地があることを視認し、翌1733年にベーリングらが再び派遣されることとなります。彼は1734年からヤクーツクにとどまって準備を整え、北京から日本へ向かうルートを探るとともに、同じデンマーク出身のシュパンベルクらをオホーツクへ先に派遣しました。

 1738年6月、シュパンベルクらはオホーツクから3隻150人の船団で出港しますが、食糧不足により8月にカムチャツカ西岸へ引き返します。1739年5月には4隻の船団で改めて出発し、南へ向かいました。一行はクリル諸島を通過したものの、濃霧により離れ離れになります。

 日本の元文4年5月19日(ロシアのユリウス暦1739年6月18日)、仙台の東方沖に異国船が出現しました。4日後には仙台湾の網地島に2隻が現れ、25日には遥か南の安房国天津村(現千葉県南部の鴨川市)に、28日には伊豆国の下田に異国船が現れます。船員は各地で上陸し、銀貨や紙札を渡して野菜や魚、タバコなどと交換しましたが、これがシュパンベルクらでした。幕府は様子を伺って強硬手段は取らせず、彼らが立ち去った後で銀貨や紙札を回収し、長崎の出島に送ってオランダ人の商館長に確認させました。彼によれば紙札は賭け事に用いるカルタであり、銀貨はロシア帝国(モスコヴィア)の通貨「ルーブル」とのことでした。これが日本とロシアの最初の遭遇です。幸いロシアの船団は掠奪や破壊行為はせず、8月までに去っていきました。

 ベーリングらはオホーツクに先遣隊が帰還した後、1740年秋にようやくオホーツクから2隻(聖ピョートル号と聖パヴェル号)の船で出航し、カムチャツカ半島東岸で越冬します。1741年6月、ベーリングらはカムチャツカを出発してアメリカ大陸を目指し、はぐれながらも7月にアラスカ南部に到達しました。「アラスカ」とは現地のアレウト語で「半島」「本土」を意味しており、本来はアラスカ南西部のアラスカ半島を指しています。

 彼らはアラスカ南部から西へ向かい、半島の先に連なるアリューシャン列島に到達します。しかし嵐に遭って漂流し、1741年11月に無人島に漂着し、12月にベーリングは病死してしまいます。生き残った人々はここをベーリング島と名付け、大破した船の残骸で小型の船を作って脱出し、1742年8月にカムチャツカ半島東岸にたどり着きました。

 この探検隊にはドイツ出身の医師ゲオルク・シュテラーが参加しており、生存者のひとりとなって報告書を残しましたが、サンクトペテルブルクへ辿り着く前に1745年病死しています。彼はその地の海鳥や海獣について報告しており、モールスカヤ・カローヴァ(海の牛)という大型の海獣を食べて命を繋いだことを記しています。これがステラーカイギュウですが、食糧として乱獲されたため20年あまりで絶滅しています。

 こうして、ロシアは18世紀にはカムチャツカ半島やアラスカに到達し、日本の近海にもロシアの船が出没し始めました。徳川幕府はオランダを介して海外の事情をある程度は知り得ており、北方から「おろしや(ロシア)」という大国が迫って来ていることを認識したのです。

◆黄金

◆神威

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。