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【つの版】ウマと人類史:近世編32・維納再囲

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 16世紀末から17世紀半ばにかけて、オスマン帝国では暗君や幼君が相次ぎ、母后とその取り巻きが宮廷の権力を握り、各地で反乱が勃発しました。欧州やロシア、ペルシアとの対外戦争でも苦戦し、皇帝が臣下によって殺される事件すら起きています。しかしオスマン帝国は大宰相キョプリュリュ家のもとで国政を立て直し、再び拡大を開始します。

◆Turkish◆

◆March◆

老練宰相

 1656年9月、オスマン皇帝メフメト4世と母后トゥルハン・スルタンは、80歳の老臣キョプリュリュ・メフメト・パシャを大宰相に任命します。彼はアルバニアの出身で、少年時代にデヴシルメ(強制徴用)によって皇帝ムラト3世に仕えました。やがてアナトリア北東部のキョプリュ(現サムスン県ヴェズィルキョプリュ)に駐在して妻を娶り、出世を重ねてアナトリア各地の州知事を歴任しましたが、この頃には老齢により隠居していました。

 キョプリュとは「橋」を意味するテュルク語で、彼の妻アイシェの祖父が任地に橋をかけたことからそう呼ばれ、これによりメフメトはキョプリュリュ(キョプリュの)という家名を持ちました。パシャとはオスマン帝国の高官や高級軍人の称号で、テュルク語バシュ(頭、頭領)に由来しています。

 彼が担ぎ出されたのは、ヴェネツィア艦隊が帝都付近のダーダネルス海峡を封鎖するという危機的な状況下において、信頼できる有能な人物として母后の側近たちから推挙されたゆえでした。彼はトゥルハンから政権を委任されると、皇帝メフメト4世を騒乱の続く帝都イスタンブールから旧都エディルネへ遷し、反乱を起こした常備騎兵(スィパーヒー)やコンスタンティノポリス総主教らを厳正に処罰・粛清しました。イェニチェリはキョプリュリュの政権を支持し、その手足となって彼の政敵を次々と殺害します。1657年7月にはヴェネツィア艦隊を撃ち破って海峡封鎖を解除させ、エーゲ海諸島を奪還し、クレタ島を包囲するなど反撃に出ました。

 1658年には、ワラキアやウクライナ・コサックと結んでポーランドまで勢力を広げていたトランシルヴァニア公ラーコーツィ・ジェルジ2世を討伐します。1659年2月にはシリアのアレッポでジェラーリーを率いて反乱を続けていたアバザ・ハサン・パシャを暗殺しました。1660年にはトランシルヴァニア戦争を再開してジェルジ戦死させ、親オスマン派の公を即位させました。ハプスブルク家はこれに対抗してケメーニ・ヤーノシュを擁立します。7月の帝都での火災に対しても陣頭指揮をとり、1661年6-9月にはケメーニを撃ち破ってアパフィ・ミハーイを傀儡の公としました。しかし同年に病気となり、息子キョプリュリュ・ファズル・アフメト・パシャを後継者に指名して、10月末に世を去ります。

賢明宰相

 アフメトは1635年生まれで、この時26歳の若さでした。父が60歳の時に生まれたわけで、祖父と孫ぐらいに年齢は離れています。大宰相に就任する前はダマスカスやエルズルムの州知事をつとめていましたが、大宰相の位が前任者により指名され、父から子へ世襲されたのは前代未聞です。アフメトは課税を減らし教育を促進したことからアラビア語に由来する「ファズル(賢明な)」の異名を持ち、父の路線を受け継いで対外戦争を継続します。

 まずアフメトはトランシルヴァニアへ出陣し、オーストリア/ハプスブルク家の支援を受けて舞い戻ったケメーニを討伐します。さらに1663年夏には10万の軍を率いてハプスブルク領ハンガリーに侵攻しました。欧州諸国は3万の軍勢を集めて派遣しますが、タタール人騎兵を加えたオスマン軍は現スロバキアのニトラを経てモラヴィアやシレジアに侵攻、多数の町を略奪しました。これにより数千人が死亡し、4万人が捕虜として連行されます。

 対する欧州側は、クロアチア副王ズリンスキ率いる1万7000人、ハンガリーにモンテクッコリ率いる3万弱、北部に1万足らずの兵がおり、一致団結せず個別にオスマン軍と戦っていました。ズリンスキは各地の橋を落として進軍を阻みましたが、1664年夏に本拠地ノヴィズリン城を包囲・陥落させられてしまいます。モンテクッコリ率いる主力はオーストリアとの国境沿いに展開し、8月にセント・ゴットハールトの戦いでオスマン軍に勝利しました。これを契機として両軍は講和条約を締結し、20年間の休戦を約束します。

 この条約には、ハプスブルク家はトランシルヴァニアへの介入をやめること、ハンガリーの一部を引き続き統治する代わりに年20万フロリンを貢納することなどが記され、依然としてオスマン帝国に有利でした。これはハプスブルク家の背後を狙うフランスの脅威があったためです。ズリンスキらクロアチアやハンガリーの貴族は不満を抱き、周辺諸国と秘密裏に交渉して、ハプスブルク家からの独立運動を起こす有様でした。

 しかしこの陰謀はオスマン帝国からハプスブルク家に通報され、陰謀を目論んだ者たちは粛清・迫害されます。反ハプスブルク派はゲリラとなって抵抗し、この地域はますます混乱していきました。オスマン帝国は条約を盾にして紛争には介入せず、ヴェネツィアとの戦争を再開し、1669年にヴェネツィア領クレタ島の首都カンディア(イラクリオン)を陥落させました。ここにヴェネツィアは地中海の要であるクレタ島を喪失したのです。

 続いてオスマン帝国はポーランドとの戦争に乗り出します。クリミア・タタールはウクライナのコサックたちと長年小競り合いを続けており、ロシアとポーランドの戦争、ワラキアやモルダヴィアの反乱もあって混乱していたため、宗主国たるオスマン帝国が介入してきたのです。この戦争も長引き、オスマン軍はいくつか手痛い打撃を受けたものの、最終的にウクライナ西部のポジーリャ地方をこの地のコサックごと獲得しました。

 ポーランドとの講和条約が1676年10月に締結された半月後、キョプリュリュ・ファズル・アフメト・パシャは41歳の若さで病死します。彼はムスリムでしたが大酒飲みで、それが寿命を縮めたのだともいいます。しかし15年もの間大宰相の位にあり、帝国を再び拡大させた功績は大きく、キョプリュリュ家の権勢は皇帝をも凌ぐほどでした。

 皇帝メフメト4世はエディルネの宮廷で狩猟三昧の日々を送る一方、狩猟で立ち寄った街の非ムスリムにイスラム教への(強制でない)改宗を促し、改宗した者には褒美を授けるなどの伝道活動もしていました。1666年には自称メシアのシャブタイ・ツヴィをユダヤ教から改宗させてもいます。

維納再囲

 アフメトの後継者はメルズィフォンル・カラ・ムスタファ・パシャで、アフメトの父メフメトの娘婿、すなわちアフメトの義弟にあたります。出身地はアナトリア北東部のメルズィフォン(現アマスィヤ県)で、騎兵(スィパーヒー)の身分でした。彼はメフメト・パシャに仕えて気に入られ、その娘を娶り、義父および義兄のもとで活躍しました。1672年にポジーリャ地方を征服したのも彼の功績です。年齢はアフメトとほぼ同じでした。

 この頃、ウクライナのドニエプル川右岸(西側)のコサックたちはオスマン帝国およびクリミアを頼りにしてロシア側(左岸)のコサックたちと戦っていましたが、オスマン帝国はイブラヒム・パシャを派遣して支援したものの大敗を喫しました。1678年、カラ・ムスタファは自ら大軍を率いてウクライナへ侵攻し、ロシア軍を押し返したのち、1681年に講和条約を締結しました。これによりオスマン帝国による右岸ウクライナの大部分の支配がロシアから承認され、ウクライナ方面はしばし安定します。

 1678年、ハンガリーではフランスの支援により対ハプスブルク家の反乱が勃発し、指導者テケリ・イムレはオスマン帝国やクロアチアと手を組みました。これを好機と見たカラ・ムスタファはクリミア、モルダヴィア、ワラキア、トランシルヴァニアなどの諸侯からも兵を集め、15万の大軍を率いてハンガリーに出兵します。テケリ・イムレはオスマン帝国から上ハンガリーの王と認められ、オスマン軍はそのままウィーンへと侵攻しました。

 神聖ローマ皇帝レオポルト1世は7月にウィーンから逃亡し、欧州諸国へ救援を呼びかけます。ポーランド王ヤン・ソビェスキはこれに応え、ドイツ諸侯もこれに応じてウィーンに向かいました。オスマン軍は7月13日にウィーンを包囲しますが、堅固な防備に攻めあぐね、9月にポーランド等の連合軍が駆けつけます。ポーランド側は斥候を放ってオスマン軍の状況を調査したのち、総攻撃を命じました。ポーランドの精鋭騎兵フサリア部隊3000は敵陣を中央突破してカラ・ムスタファの本営まで迫り、長期の包囲により疲弊していたオスマン軍は寸断され、散り散りになって潰走します。

 カラ・ムスタファは這々の体で逃走し、ベオグラードまで撤退して反撃の準備を整えようとしますが、彼の政敵らはここぞとばかり皇帝に讒言し、12月には処刑に追い込まれます。大勝利に湧いた欧州諸国は対イスラムの十字軍「神聖同盟」を結成し、珍しく一致団結してオスマン帝国に立ち向かうこととなりました。大トルコ戦争の始まりです。

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【続く】

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