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【つの版】度量衡比較・貨幣125

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 日本、蝦夷地、ロシア、オスマン帝国、インドの17世紀における貨幣事情を概観してきました。では欧州と西半球/南北米に戻り、第二次英仏百年戦争の様相について見ていきましょう。

◆勇気◆

◆爆発◆


対仏同盟

 おさらいしましょう。フランス国王ルイ14世は絶対王政を確立し、プロテスタントを迫害し、欧州最大の常備軍を有し、領土拡大の野望に燃えていました。これに対しオランダと英国は名誉革命によって事実上の同君連合となり、ハプスブルク家やドイツ諸侯、プロテスタント勢力とともに対フランス大同盟に加わります。世界の覇権を巡る大戦争の始まりです。

西暦1700年の欧州

 とはいえ100年以上ずっと戦争が続いたわけではありません。欧州では1688-97年の「プファルツ継承戦争/大同盟戦争」、1701-14年の「スペイン継承戦争」、1740-48年の「オーストリア継承戦争」、1756-63年の「七年戦争」、そして1792-1815年の「フランス革命・ナポレオン戦争」の5段階に大きくわけられます。余波は英仏両国の植民地があるアメリカやインドにも及び、1775-83年にはフランスの支援でアメリカ独立戦争が起きています。現代まで続く欧州諸国とアメリカの原型は、この時代に形成されたのです。

 さらに同時期には、第二次ウィーン包囲の失敗に乗じて結成されたオーストリア・ポーランド・ヴェネツィア(のちロシアも参加)の神聖同盟によるオスマン帝国への十字軍「大トルコ戦争」も起きています(1683-99年)。フランスはオスマン帝国とは対ハプスブルク家で友好関係にあり、この遠征で手薄になった神聖ローマ帝国西部への進出を強めました。プロテスタントを迫害しておきながらイスラム教の国と手を結び、同じカトリックの国へ侵攻するとは欺瞞も甚だしいですが、勝てば官軍です。

 1688年9月、フランスはライン川沿いの要衝・プファルツ選帝侯領の相続問題に介入し、軍事侵攻を行います。同年末に英国では名誉革命が勃発し、親フランス派の国王ジェームズ2世がフランスに亡命、オランダ総督ウィレム3世が翌1689年英国王に推戴されました(ウィリアム3世)。フランスはジェームズを支援してカトリック勢力の強いアイルランドに送り込み、ジェームズ派/ジャコバイトを焚き付けて英蘭連合を牽制しつつ、ハプスブルク家領の南ネーデルラント(ベルギー)やラインラントへの侵略を続行します。アメリカやインドでも英仏両国の植民地同士で戦争が勃発しました。

 しかし1690年、フランスの南東に位置するサヴォイア公国の君主ヴィットーリオ・アメデーオ2世が同盟国フランスを見限り、ハプスブルク家側につきます。サヴォイアは北イタリアのトリノを首都とし、現フランスとイタリアにまたがるアルプス地域を支配した国で、かつては神聖ローマ帝国に所属していましたが、この時代には独立国でした。スペイン・ハプスブルク家の国王カルロス2世も同年にプファルツ選帝侯の公女を後妻に迎え、対フランス大同盟に加わります。スウェーデンやポルトガルは中立を保ちました。

 四方を敵に囲まれながらも、精強なフランス軍は各地で優勢に戦闘を進めました。1693年にはサヴォイアに攻め込んで散々に打ち破り、1696年に大同盟からの離脱に追い込みます。翌1697年にはフランス軍がバルセロナを陥落させますが、フランス国内は飢饉・疫病・重税によりボロボロで、和平の機運が高まります。同年9月、関係各国は講和条約を締結して終戦します。

 この条約により、フランスはライン川西岸の要衝シュトラースブルク/ストラスブールを、カリブ海ではイスパニョーラ島西部のサン=ドマング(現ハイチ)を獲得し、英国に占領されていた南インドのポンディシェリー、北米のノヴァスコシア植民地もフランスに返還されました。しかしフランスが占領したカタルーニャやルクセンブルクはスペインに、ロレーヌ公国は神聖ローマ帝国に返還され、プファルツ選帝侯領に対する継承権も撤回されます。

 英国が得たものはありませんでしたが、フランスによるジェームズ2世への支援は打ち切られ、ウィリアム3世が英国王として承認されます。しかしアイルランドやスコットランドではジャコバイトの残党が復讐の機会を狙っており、1694年にはウィリアムの妻アン女王が天然痘で崩御したため、英国内でも反ウィリアム派・反戦派が勢力を伸ばしていました。

英国銀行

 こうした状況の中、英国では軍事費を調達するため、1695年に政府の経営するイングランド銀行が設立されています。資本金は120万ポンド(1ポンド≒10万円として1200億円)、年利8%で政府に120万ポンドを貸し付け、また120万ポンドを上限に紙幣(銀行券)を発行できると定められます。ただし当時はまだ他の銀行に対する統制力はなく、国内の各銀行は独自に銀行券の発行が認可されていました。では、そもそも銀行とはなんでしょうか。

「銀行」とはチャイナで19世紀後半に英語バンク(bank)の訳語として用いられたもので、東アジアでは銀が基軸通貨であったことから「銀の店」を意味します。bankとはイタリア語banca(長机や長椅子/ベンチ)に由来し(ロンバルド語、ゲルマン祖語、印欧祖語まで遡れます)、イタリアの都市国家で両替商や金融業者が布に覆われた長机の上で取引したことによります。

 両替商や金融業者は紀元前から存在し、手数料収入を得ていましたが、遠隔地との商業が盛んになった中世イタリアでは特に高度に発達しました。キリスト教は高利貸しを禁じていたためユダヤ人が携わることも多かったのですが、キリスト教徒の金融業者(銀行家)も多くおり、メディチ家やフッガー家などは国家を凌ぐほどの大金持ちとなります。しかし国による債務不履行が横行し、有力銀行は国家財政との一体化を進めていきます。

 1148年、ジェノヴァ共和国はサン・ジョルジョ銀行を設立し、共和国政府と深く結びつけて国家財政を管轄させました。ヴェネツィア共和国では長らく民間の銀行が活動していましたが、1587年にリアルト銀行が設立され、共和国政府の管轄下に置かれました。1609年にはオランダにこれを真似たアムステルダム銀行が設立され、1619年にはハンブルク銀行、1656年にはスウェーデンにストックホルム銀行が設立されています。

 英国においては、金細工職人ゴールドスミス組合ギルドが金融業者として発達しました。彼らは黄金ゴールドを預かって仕事をする都合上、堅牢なセキュリティに守られた金庫を所有しており、黄金や金貨を彼らに預ける(預金)ことで盗難などの危険を回避できました。貸金庫の使用手数料は取られますが、彼らが顧客に発行した預かり手形(金匠手形/預金証書)そのものが信用のおける財産・貨幣(紙幣)とみなされ、決済の手段として取引されるようになります。

 商業が盛んになるにつれ、預金証書の発行額は実際に金庫にある黄金の量(準備高)や価格を上回ることになりますが、これは事実上貨幣の発行額が増えた(信用創造)ことになり、経済を活性化させます。1650年代にはドイツやオランダから同業者が英国へ流入し、紙幣発行額は増加しました。

 しかし1663年にはスウェーデンで貨幣改鋳が失敗してストックホルム銀行券の兌換が停止し、1671年には英国でも政府による債務不履行・銀行券の兌換停止が発生します。スウェーデンは完全国営の中央銀行を新設しますが、政府による債務不履行が横行し、国家財政は混乱し続けました。革命騒ぎが続いた英国では、財政の混乱はさらに甚だしかったことでしょう。

 1685年、フランスではユグノー(プロテスタント・カルヴァン派)の追放勅令が発布され、数十万人のユグノーが国外へ逃れました。同じカルヴァン派の住むスイスやドイツ、オランダにも彼らが流入しますが、時の英国王ジェームズ2世は親フランス派のカトリックで、ユグノーは弾圧されました。名誉革命でジェームズが追放されると、ユグノーは英国にも渡って商工業に従事し、国債を購入してウィリアム3世を助けます。そしてイングランド銀行は彼らユグノーが主軸となって、英国の対フランス戦争のために設立されたのです。初代総裁のジョン・ウーブロンも、出資者の1割も、英国債の1割を所有していたのもユグノーでした。

 しかしこの頃、英国では銀の流出と銀貨の劣化が進み、大量の贋金が横行していました。英国政府はこれに歯止めをかけるため、1695年から貨幣の大規模な改鋳を開始します。これを主導したのが、人類史に名を刻む大科学者アイザック・ニュートンでした。

◆Creeping◆

◆Coin?◆

【続く】

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