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【つの版】度量衡比較・貨幣114

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1672年3月末、英国王チャールズ2世は議会の反対を押し切ってオランダに宣戦布告します(第三次英蘭戦争)。4月にはフランスがオランダに宣戦布告し、仏蘭戦争が始まりました。オランダは国家存亡の危機に陥ります。

◆Wilhelmus◆

◆van Nassouwe◆


対仏包囲

 1672年7月、フランス軍が南部諸州を制圧する中、オランダの市民は弱腰の共和国政府に反旗を翻し、22歳のオラニエ公ウィレム3世をオランダ総督に担ぎ上げました。彼は先代総督ウィレム2世の子で、母メアリー・ヘンリエッタは英国王チャールズ1世の娘であり、母方からはフランス王家の血筋も受け継いだ名門貴族です。しかし父が1650年に24歳の若さで没すると、オランダの議会派は生まれたばかりのウィレム3世に総督位を継承させず、豪商ビッカー家出身のヨハン・デ・ウィットが政権を掌握しました。

 幼いウィレムは議会派政府のもとで大人しくしていましたが、次第に反政府勢力と手を組み、仏蘭戦争を契機としてクーデターを起こしたのです。デ・ウィットは失脚したのち8月に逮捕・虐殺され、挙国一致でフランスによる侵略戦争に抵抗することとなります。

 大国フランスと英国が手を組んだのですから、オランダはこれに対抗するためハプスブルク家(神聖ローマ帝国/ドイツおよびスペイン)と手を結びました。長年戦った相手ではありますが、1648年に独立を承認されてからは比較的友好関係にありました。フランスはスペインやフランシュ=コンテなどの支配を狙っているゆえ、共通の敵を持つ者同士で同盟可能です。

 またドイツ北部の同君連合国ブランデンブルク=プロイセンはクレーフェ公領も所有していたためオランダと国境を接しており、フランスとは中立条約を結んでいましたが、君主フリードリヒ・ヴィルヘルムの妃ルイーゼ・ヘンリエッテ(1667年に逝去)はウィレム3世の叔母にあたります。ウィレムはこの義理の叔父に働きかけ、条約を結んでフランスとの同盟から離反させることに成功しました。ブランデンブルク=プロイセンは強力な常備軍を有しており、この外交的成功はフランスを大いに動揺させます。

和蘭反撃

 この頃、フランスの名将テュレンヌ元帥はドイツへ侵攻します。彼はオランダ総督マウリッツの甥にあたり、若い頃に彼に仕えて兵法を学び、三十年戦争から長年フランス軍にあって戦場を駆けた人物でした。恐れをなしたブランデンブルクは1673年1月にフランスと和平しますが、ウィレムは8月に神聖ローマ皇帝およびスペイン王との同盟を成立させると、ライン川を遡って帝国軍と合流し、11月にフランス軍のドイツにおける補給基地であった都市ボンを陥落させます。ライン川沿いの帝国諸侯の多くはオランダ側につき、フランス軍はやむなくドイツから撤退しました。

 1674年2月には英国との和平が成立し、フランス軍はオランダからも撤退します。ウィレムは救国の英雄として讃えられ、ロレーヌ地方やフランシュ=コンテに居座るフランス軍を叩くため、ドイツ諸侯とともに戦うこととなりました。フランスは激しく反撃し、オランダとの貿易に高い関税をかけ、スウェーデンを同盟に引き入れてドイツへ侵攻させたりしますが、1675年にテュレンヌが戦死してからは劣勢に陥ります。

 1677年、英国王チャールズ2世はフランスを見限り、弟のヨーク公ジェームズの娘メアリーをウィレム3世に嫁がせて同盟関係を強化します。フランス国内では長引く戦争による重税がのしかかり暴動が発生する有様で、コルベールの金策でもまかないきれず、ついに講和に踏み切ることとなります。

 1678年8月から翌年10月にかけて、フランスと同盟国スウェーデンはオランダのナイメーヘン等で交戦国と複数の講和条約を締結します。この和約により、フランスはオランダ併合を断念する代わりに、フランドルのいくつかの都市およびハプスブルク家領であったフランシュ=コンテ、ロレーヌの一部を獲得しました。アルザスは1648年のヴェストファーレン条約でフランス領となっていますから、フランスは東へ拡大したのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Europe,_1700%E2%80%941714.png

太陽絶頂

 事実上の敗戦とはいえ、フランスは欧州の大国としての立場を保ち、その後も難癖をつけてストラスブールを軍事占領するなど覇権主義的行動を続けました。1683年にはオスマン帝国をそそのかして第二次ウィーン包囲を行わせ、ルクセンブルクやジェノヴァ等に侵攻しています(再統合戦争)。

 1682年5月、フランス国王ルイ14世は宮廷をパリから22km南西のヴェルサイユに遷しました。宮殿の建設には1661年から20年の歳月と8200万リーヴル(1リーヴルを現代日本の5000円相当として4100億円)もの巨費が投じられており、20で割って年平均なら410万リーヴル(205億円)ですが、1683年の歳入が9300万リーヴル(4650億円)ですから凄まじい出費です。

 1661年の歳入が3280万リーヴル(1640億円)でしたから20年で3倍近くに増えたものの、1683年の歳出は軍事費などで1億900万リーヴル(5450億円)にものぼり、差し引き1600万リーヴル(800億円)もの赤字という有様でした。国家財政をあずかるコルベールはヴェルサイユ宮殿の建設に苦言を呈していますが、彼は1683年に64歳で病没し、国王の浪費と戦争による財政赤字には歯止めがかからなくなっていきました。

 ルイ14世は、中央集権を進め対外戦争を正当化するためにローマ・カトリック教会を擁護し、プロテスタント(ユグノー)を弾圧しました。国内に残っていたユグノーは改宗を強制され、反乱は叩き潰され、20万人ものユグノーが国外へ亡命しました。ルイ14世は「彼らは国禁を犯した反逆者である」として亡命先へ軍を派遣し、虐殺事件も起きています。財産を没収するためもあったのでしょうが、フランスはプロテスタント勢力を敵に回しました。

名誉革命

 1685年2月、英国王チャールズ2世が心臓発作で崩御すると、弟のヨーク公ジェームズが即位してジェームズ2世となります。彼は即位以前にフランスの影響でカトリックに改宗しており、反カトリックの傾向が強い英国では嫌われていました。しかも議会はチャールズ2世の晩年から開かれなくなり、またも議会派と国王派の対立が始まっていたのです。このままジェームズが王位にとどまれば、英国がフランスに従属することは明白でした。

 1688年6月、プロテスタント貴族の議員らはオランダ総督ウィレム3世に書簡を送り、ジェームズ2世に代わって英国王に即位して欲しいと要請しました。欧州ではルイ14世がライン川沿いの要衝・プファルツ選帝侯領の相続問題に介入して戦争を始めようとしており、オランダもフランスの侵略を警戒している状況でした。9月25日にフランス軍がプファルツへ侵攻すると、ウィレムはホラント州議会および連邦議会に英国遠征計画を発表し、賛成を得ます。そして11月に2万の軍を率いて英国へ出発しました。

 ウィレムは英国で大いに歓迎され、英国軍は戦わずして降伏し、オランダ軍と合流して12月にはロンドンに迫ります。孤立無援となったジェームズは逃亡を図りますが捕らえられ、ウィレムの許しによりフランスへ亡命しました。翌年1月、ロンドンに入城したウィレムは2月に議会を開催し、議会の承認を得て妻メアリーとともに英国(イングランド・スコットランド・アイルランド王冠連合)の王位につき、ウィリアム3世となりました。ほぼ流血なく革命が成立したため、これを「名誉革命」といいます。

 議会は当初ウィレムを王配としたメアリーの即位だけを求めましたが、ウィレムはオランダ軍によって脅しをかけ、共同統治者としてともに王位につきます。ただし王家の血筋を継ぐとはいえ議会によって国外の他家から招聘されたため、ウィレムの英国での立場は弱いものでした。同年12月には議会から提出された「権利の章典」を承認し、王位継承者からカトリックを排除するとともに、王権に対する議会(立法府)の優位を認めました。絶対王政を否定し清教徒革命や名誉革命の再現を防ぐ措置です。現在まで続く英国の議会主権立憲(制限)君主制は、この時に確立されたのです。

 ここにオランダと英国は事実上の同君連合となり、ハプスブルク家やドイツ諸侯、プロテスタント勢力とともに対フランス大同盟に加わることとなりました。これより1815年のナポレオン戦争終結に至るまで、英国とフランスは世界の覇権をかけた1世紀あまりに及ぶ「第二次百年戦争」に突入するのです。ここらでいったん欧州から離れ、17世紀の世界を見てみましょう。

◆God Save◆

◆the King◆

【続く】

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