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【つの版】ウマと人類史:近世編33・領土割譲

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1683年、第二次ウィーン包囲に失敗したオスマン帝国は、勢いに乗った欧州連合軍によって反撃を受け、多くの領土を失います。スレイマン大帝の遠征から160年余り、ついに東西両者の力関係が逆転する時が来たのです。

◆I See◆

◆Fire◆

神聖同盟

 1684年、ローマ教皇の提唱により神聖同盟(Sacra Ligua)が結成されます。これは神聖ローマ帝国/オーストリア・ハプスブルク家、ポーランド・リトアニア共和国、およびヴェネツィア共和国の三国による同盟で、前年に結ばれたオーストリアとポーランドの同盟であるワルシャワ条約を強化したものです。目的は対オスマン帝国で、利害は一致していました。オスマン帝国の友好国であるフランスは反発しますが、バイエルン選帝侯やブランデンブルク選帝侯もこれに賛同し、兵力と資金を提供しました。オスマン帝国の敵国ペルシア(サファヴィー朝)にも呼びかけられたものの断られ、正教徒ながらキリスト教国ではあるロシアへも参加が呼びかけられます。

 結局、フランスを除くほとんどの欧州諸国がこれに与することとなり、第14次十字軍とも呼ばれる大規模な遠征が開始されます。総大将は皇帝レオポルト1世の義弟のロレーヌ公シャルル5世で、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世らドイツ諸侯、英国王の庶子ジェームズらも加わり、まずハンガリーへ侵攻します。1684年にはペスト、1685年にノイホイゼル、1686年にブダを奪還、1687年にはドナウ川を南下してモハーチでオスマン軍を撃破し、トランシルヴァニアをも服属させました。またヴェネツィアはアドリア海のダルマチア、ボスニアを襲撃、1687年にはギリシアに進出してモレア/ペロポネソス半島を占領します。1686年にはロシアも神聖同盟に加わり、クリミアへの遠征を開始しました。

 オスマン皇帝メフメト4世は慌てふためき、和平を打診したものの却下され、敗れたオスマン軍も反乱を起こします。モハーチの敗軍の将であった大宰相サル・ムスタファ・パシャは処刑され、アバザ・シヤブシュ・パシャが1687年9月に新たな大宰相に任命されたものの混乱を収拾できず、キョプリュリュ・アフメト・パシャの弟ファズル・ムスタファ・パシャが「帝都における大宰相の摂政」に任命されました。11月、彼は皇帝メフメト4世を退位させ、40年近く「黄金の鳥籠」の中にいた弟スレイマン2世を擁立します。メフメトは入れ替わりに幽閉され、1693年に亡くなりました。

宰相戦没

 新たな皇帝にも事態を収拾する能力はなく、1688年にはドナウ川の要衝ベオグラードが陥落、帝国は危機に瀕します。しかし欧州では、1688年9月にフランスがドイツ・ベルギー・イタリアへ侵攻、大同盟戦争が勃発します。「大同盟」とは1686年に神聖ローマ帝国、スペイン、スウェーデン、オランダ等が対フランスのために締結したアウクスブルク同盟のことです。フランス王ルイ14世は英国王ジェームズ2世を自陣営に引き込もうとしますが、英国議会は国王に反発して追放し、オランダ総督ウィリアムが英国王に招かれて即位しました(名誉革命)。ジェームズはフランスの支援を得てアイルランドに舞い戻り、ウィリアム派と戦闘を繰り広げます。

 本国を脅かされたドイツ人や英国人は浮足立ち、ロレーヌ公・バイエルン選帝侯らは急ぎ帰国して本土防衛に当たり、バーデン=バーデン辺境伯のルートヴィヒ・ヴィルヘルムがハンガリー駐留軍の司令官となってオスマン帝国と対峙することとなります。オスマン帝国はこれを好機として反撃に出、1688年にブルガリアでの反乱を鎮圧、1689年にムスタファ・パシャを大宰相に昇格させ、1690年にはベオグラードを奪還します。1691年6月にオスマン皇帝スレイマン2世は病気で崩御し、弟アフメト2世が即位しました。

 1691年8月、ベオグラード北西のスランカメンで両軍は決戦を行います。ルートヴィヒ・ヴィルヘルムはゼムンの街から誘い出したオスマン軍5万を撃ち破るつもりでしたが、騎兵・大砲・艦隊によって打撃を受け、補給線も切られて孤立します。しかし必死の反撃でトルコ騎兵(スィパーヒー)の側面を撃破し、浮足立ったところへ騎兵突撃をかけ、オスマン軍の本陣に突入して指揮官たちを皆殺しにしました。その中には、大宰相ムスタファ・パシャもいたのです。オスマン軍は総崩れとなったものの、ベオグラードとドナウ川防衛線は死守することに成功し、ルートヴィヒ・ヴィルヘルムもライン川戦線に回されたため、こちらの戦争はしばし膠着状態となりました。

領土割譲

 オスマン帝国では新たな銀貨クルシュを導入し、キリスト教徒にも人頭税をかけ、徴税請負人を終身にするなどして税収を増やし、財政再建に取り組みます。1695年2月に皇帝アフメト2世が崩御すると、メフメト4世の子でアフメト2世の甥にあたるムスタファ2世が即位し、聖戦を宣言して反撃を再開しました。彼は6月にエディルネから出陣し勝利を重ねますが、1697年9月にゼンタで大敗を喫し、大宰相を討ち取られます。またロシアのピョートル1世はクリミアを攻撃し、アゾフ要塞を占領しました。

 ゼンタの戦いから9日後、欧州諸国はレイスウェイク条約を締結し、大同盟戦争は終結しました。フランスは国際的に孤立しつつもなお大国として存在し、オスマン帝国も和平交渉を進めます。キョプリュリュ・ファズル・ムスタファ・パシャの従兄弟ヒュセイン・パシャが大宰相として交渉を行い、1699年にカルロヴィッツ条約が締結されます。

 これによりオスマン帝国は、オーストリアにハンガリーの大部分・スラヴォニア(クロアチア東部)・トランシルヴァニアを、ヴェネツィアにダルマチアとモレア(ペロポネソス半島)を、ポーランドにポジーリャを割譲しました。また1700年にはロシアとも条約を締結し、アゾフ要塞の領有を認めました。建国以来続いたオスマン帝国の拡大が停止し、縮小に転じたのです。しかしワラキア、モルダヴィア、クリミア、ボスニア、セルビア、アルバニアなどは、なおオスマン帝国の側にとどまりました。

改革反発

 戦後、大宰相ヒュセイン・パシャは国政改革を行います。まず戦時中に課された多額の物品税を廃止し、税金未納者への罰金もとりやめ、銀貨の純度を上げて悪貨を駆逐し、農耕や手工業を奨励しました。またイェニチェリを7万人から3.4万人に削減し、砲兵隊も6000人から1250人に減らし、代わりに皇帝直属の騎兵の枠を増やしました。海軍や官僚機構も再編されます。欧州ではフランスがスペイン継承戦争を、ロシアが大北方戦争を起こしており、オスマン帝国にかかずらわっている場合ではありませんでした。

 しかし、ヒュセイン・パシャの改革は保守派からの反発を受けます。特に皇帝ムスタファ2世の側近フェイズッラー・エフェンディは「シェイヒュルイスラーム(イスラムの長老)」の称号を持ち、皇帝の家庭教師としても強い権威を振るっていました。彼はイスラム教のウラマー(学者)たちの支持を得て、1702年9月にヒュセイン・パシャを失脚させます(年末に逝去)。

 1703年、皇帝はエディルネの宮廷においてジョージアへの遠征を宣言します。しかしイェニチェリやウラマー、商工業者らはヒュセイン・パシャの失脚に不満を高め、6万人もの大集団となってエディルネに押し寄せ、フェイズッラーの罷免を求めました。エディルネの守備兵までも同調し、やむなく皇帝は民衆の要求に答えてフェイズッラーを罷免します。フェイズッラーはまもなく殺害され、ムスタファ2世は8月に退位して弟アフメト3世に帝位を譲り、12月に亡くなるまで幽閉されました。

 これをオスマン史では「エディルネ事件」と言います。皇帝の首こそ飛びませんでしたが、皇帝の権力や権威は絶対ではなく、大宰相やイェニチェリなど複数の政治ファクターの重要なひとつでしかなかったことを現します。同時代の英国やフランス、ロシアなどでも状況は同じでした。

欧土修好

 アフメト3世は、フェイズッラーの没収した財産からイェニチェリへ給与を支払い、帝都をエディルネからイスタンブールに戻して事態をなんとか収拾させます。1710年には亡命したスウェーデン国王カール12世とフランスに焚きつけられて露土戦争を起こし、ロシアからアゾフを奪還、モルダヴィアとワラキアの反乱を鎮圧しました。1714年からはモレア/ペロポネソス半島を巡ってヴェネツィアと開戦、1716年にオーストリアが参戦して、セルビアを舞台とする墺土戦争が勃発します。

 オスマン帝国はモレアを奪還したものの、オーストリアとの戦争では名将プリンツ・オイゲンの活躍で負けが込み、ベオグラードを奪われました。同盟国フランスも1715年にルイ15世が崩御して勢いがなく、1718年にオスマン帝国とオーストリアおよびヴェネツィアの間でパッサロヴィッツ条約が結ばれます。これによりオスマン帝国はモレアを獲得し、代わりにハンガリーの全土、セルビアとボスニアの北部、ワラキアの西部を割譲しました。

 1718年5月に大宰相となったネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャは欧州諸国との修好を行い、ウィーン、パリ、モスクワへ使節を派遣して友好関係を結ぶとともに、西洋文化・文明を先進的なものとみなして積極的に導入しました。帝都には西洋風の華美な離宮や図書館が建設され、翻訳・印刷事業が盛んとなり、西洋から逆輸入したチューリップを植えて栽培・鑑賞することが流行しました。そこでこの時代を「チューリップ時代(ラーレ・デヴリ)」と呼びます。

 また西洋諸国でもオスマン帝国の影響で「テュルクリ(トルコ趣味)」が盛んになり、コーヒーがもたらされたりトルコ風の衣服や音楽、文化が流行するなどしています。イスラム教まではもたらされませんでしたが、トルコ趣味は貴族層・富裕層に広まり、東洋の富を象徴するものとなります。

 しかしオスマン帝国の平和と繁栄は長続きしませんでした。イブラヒム・パシャは東方のサファヴィー朝が反乱で崩壊しかかっていたのに介入し、ロシアと結託して1723年に対ペルシア戦争を起こします。これが契機となってペルシアには英雄ナーディル・シャーが現れ、一代にして広大な帝国を建設することになります。

◆Song of◆

◆Durin◆

【続く】

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