見出し画像

【つの版】度量衡比較・貨幣08

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 古代ローマの貨幣について長々と見てきましたので、今回はペルシアや中央アジア、インドの古代貨幣についてざっくり見ていきましょう。

◆月◆

◆給◆

安息銀銭

 アケメネス朝ペルシア帝国がアレクサンドロス大王に滅ぼされた後、その領土の大部分はマケドニア人のセレウコス朝によって再統一されました。彼らは現地のペルシア人貴族の子女と通婚し、ギリシアとペルシアの文化が混交した文化が形成されていきます。セレウコス朝・プトレマイオス朝などヘレニズム諸国の基軸通貨は、ギリシアと同じくドラクマ銀貨で、地域や時代によって差異はありつつ重量・形状・装飾が広まります。

 紀元前250年頃、セレウコス朝が一時弱体化すると、パルティア地方やバクトリア地方の総督が自立します。これら地方政権でもドラクマは流通し、ギリシアの神々や王の顔、ギリシア文字が刻まれています。前2世紀中頃、パルティアを支配していたアルサケス朝はセレウコス朝からイランとイラクを奪い取り、その君主は諸王の王(帝王/皇帝)と名乗りました。

 彼らはセレウコスが即位した紀元前312年を紀元とするセレウコス紀元を使用し、その年数を王名とともに貨幣(ドラクマやテトラドラクマ)に刻んだため、いつからいつまで何という名の君主が在位したのかを貨幣によって知ることができます。文字資料に乏しく外国や後世の史書を頼るしかないパルティアの歴史について、これらの貨幣は貴重な資料を遺しているのです。

 安息在大月氏西可數千里。其俗土著耕田、田稻麦、蒲陶酒。城邑如大宛。其屬小大數百城、地方數千里、最為大國。臨媯水、有市、民商賈用車及船、行旁國或數千里。以銀為錢、錢如其王面、王死輒更錢、效王面焉。畫革旁行以為書記。(史記・大宛列伝

 前130年頃、漢の使者・張騫が中央アジアの大月氏国(ソグディアナ)に到達し、周辺諸国についての見聞を集めています。安息(アルサケス朝)はその中でも最大で、「をもって銭とし、その銭は王の顔のようで、王が死ねば銭を改め、新たな王の顔に変える」と記されています。アルサケス朝は西のヘレニズム諸国やローマ、東のインドや中央アジア、チャイナとの間の交易路を掌握し、300年以上に渡ってイラクとイランを支配しました。

波斯貨幣

 西暦224年、ペルシア地方に興ったサーサーン家はアルサケス朝を打倒して諸王の王を号し、サーサーン朝ペルシア帝国を建国します。中央集権は進んだものの、ありようとしてはアルサケス朝と大差ありません。西のローマも東のチャイナも分裂・衰退しつつありましたが、ペルシア帝国は多くの危機はあったといえ400年以上も栄えました。

 ペルシアの基軸通貨は、やはりドラクマ(ドラフム/drahm)銀貨です。重さは4gほどで、4倍したテトラドラクマや1/2したヘミドラクマ、1/6ドラクマの価値を持つオボロス/ダナケ銅貨、半オボロスなども発行されています。同時代のローマと同じく悪貨も流通し、テトラドラクマは銀が少しで銅が大部分になったりしており、3世紀末には発行が停止されます。金貨はローマのデナリウスを語源とするデーナール(denar)と呼ばれましたが、重さは7-7.4gほどでアウレウス金貨に相当し、限られた数が宣伝のために発行されました。これらの貨幣は王室が鋳造を独占し、純度の高さから国際的に広く流通・通用しています。

 サーサーン朝後期の名君ホスロー1世(在位:531-579年)は税制改革を行い、東ローマと同じく人頭税と地租にまとめました。人頭税は20歳から50歳までの成人男子に課せられ、年に3回1人が4ドラフム(D)ずつ、年間12Dを納税します。資産に応じて増額され、1回8D(年24D)、16D(年48D)の者もいました。地租はジャリーブ(1/6ha)や樹木の数を単位として課せられ、麦畑1ジャリーブ=ナツメヤシ4-6本=オリーブの木6本ごとに1D、牧草地1ジャリーブごとに7D、葡萄畑1ジャリーブごとに8Dとされています。また金貨1デーナールは12Dとされ、大きさも小さくされたようです。

 庶民の日給が1Dといいますから現代日本の1万円とすれば、人頭税が月1万から4万円。羊一頭が12-24Dで月収相当。後はだいたい想像がつきますね。こうした税制改革により国庫にはカネが満ち溢れ、ホスロー1世の孫ホスロー2世(在位:590-628年)の時代には6億D(6兆円)もの歳入があり、皇帝は11億D(11兆円)もの財産を所有していたといいます。このうち肥沃なイラク南部(サワード州)の税収だけで半分近くを占めました。皇帝の小姓は毎日4デーナール(48D)ものカネを与えられたといい、月に20日働くとしても月収960万円、年収1億円を超えます。

 アケメネス朝より国土面積は縮みましたが、1000年間に開発されていますからそれぐらいはあるでしょう。試みにアケメネス朝の税額と比較すると、ヘロドトスの記述によればバビロニアとアッシリアで銀1000BT(1000億円)、南カフカースと西イランで1850BT(1850億円)、東イランと中央アジアで2080BT(2080億円)です。これらの地域をあわせても4930億円にしかなりませんが、交易と開発により10倍以上に増えたわけです。

 7世紀にはアラブ・イスラム帝国が拡大し、東ローマ帝国からエジプト・シリア・北アフリカを奪い、ペルシア帝国を滅ぼして併呑します。彼らは征服地の貨幣制度を残し、ノミスマ/ソリドゥスやドラフムをそのまま流通させていましたが、7世紀末にウマイヤ朝が貨幣改革を行い、ディナール金貨ディルハム銀貨を打刻させます。重さはディナールが4g、ディルハムが3gほどで、価値は1ディナール=20ディルハムと定められました。当初はカリフの肖像が刻まれていましたが「偶像崇拝だ」と非難され、文字だけが刻まれた様式に変えられました。東ローマのフォリス青銅貨はファリス(Falis)として、ペルシアのダナケ銅貨はダーニクとして使われましたが、重さや品質は時代や地域によりまちまちです。イスラム世界の貨幣経済については、また別にやることとします。

印度貨幣

 ペルシアの隣、インドではどうでしょう。インダス文明やヴェーダの時代から秤量貨幣(東部や南部では貝貨)が使われていたようですが、ペルシアやギリシアの影響で金銀の貨幣が流通するようになりました。インド北西部のガンダーラ王国では、銀の棒を一定の重さ(11g、サタマナ/シェケル)に切断して刻印し、西方との交易に用いていたようです。ブッダの頃にも刻印入り秤量貨幣が使われています。

 アレクサンドロス大王がインドに侵入して撤退した後、チャンドラグプタが北西インドで挙兵し、ガンジス川流域を支配していた東方のマガダ王国を征服して、マウリヤ朝マガダ王国を建てました。彼を支えた宰相チャーナキヤ/カウティリヤは西方の制度を取り入れて国家の基盤を固め、『実利論(アルタ・シャーストラ)』という政治書の著者に擬されてもいます。

 実際に成立したのはもっと後のようですが、古代インドの文化・経済・度量衡などを知るのにも欠かせません。考古学的調査で発掘された当時の貨幣からも、相応に度量衡や貨幣の重量が統一されたことがわかります。マウリヤ朝の基軸貨幣は「パナ(カルシャパナ)」という銀貨で、3.5g前後の重さを持ち、西方のドラクマに相当します。形や大きさは不揃いですが刻印を持ち、王や神々の図像ではなく車輪や動物が刻まれました。税金や罰金、官吏への給与はこれによって支払われています。

『実利論』によると、奴隷や下級労働者の月給は1と1/4パナ、および日々の食事でした。1年に15パナです。従者や一般労働者は年60パナ、職工は120パナ、役者や下級スパイは250パナ、書記官や訓練された兵士、暗殺者は500パナ、学者は500-1000パナで、働きによって給与は増えました。ドラクマやデナリウス相当とすれば、1パナはだいたい現代日本の1万円ほどでしょうか。これらは下層階級から中産階級程度で、王に仕える官吏や将軍・宰相たちは4000-4.8万パナ(4000万-4.8億円)もの年収があります。

夷狄襲来

 マウリヤ朝は前3世紀のアショーカ王の時に最盛期を迎え、インド亜大陸をほとんど統一しますが、その後は衰えて分裂・滅亡します。北西インドにはバクトリアからギリシア人(ヨーナ)が侵入し、ギリシア文字や王・神の図像を刻んだギリシア風の貨幣を持ち込みました。しかし北方から遊牧民のサカ人が襲来して押し出され、サカはパルティアやクシャーナに押し出されます。彼らも同様にギリシア風の貨幣を発行し、主な建国者の即位年を紀元として、それ以後の年数を刻印しています。

 クシャーナ朝やその南のサータヴァーハナ朝、パーンディヤ朝などインド諸国は、インド洋交易によってローマ帝国と取引していました。ローマ側は支払いのためにアウレウス金貨を使ったため、クシャーナ朝ではアウレウスとほぼ同じ重さ7.9gの金貨を発行し、ローマのデナリウス銀貨の名にちなんで「ディーナーラ」と呼んでいます。サーサーン朝ペルシアのデーナーラと同じですが、こちらの方が古いようです。王や神々、ブッダの像もこれらの貨幣に刻まれました。

 ペルシアは3世紀にクシャーナ朝を滅ぼしますが、4世紀後半から6世紀にかけては中央アジアの遊牧民(フン、キオン、エフタル)がクシャーナ朝の故地を支配するようになり、彼らの姿が貨幣に刻まれます。ヒンドゥークシュ山脈やパミール高原からは多くの銀が産出し、インドからは黄金がもたらされたため、この地域は交易によって富み栄えたのです。イスラム帝国はこの地に進出して鉱山を獲得し、銀貨を発行して流通させました。インドのその他の地域でも、同じように銀貨や金貨、あるいは貝貨が流通しています。

◆半◆

◆額◆

 大西洋から中央アジアまでは銀が数千年に渡り基軸通貨でしたが、東方のチャイナでは違い、銅銭が長らく基軸通貨となりました。次回はチャイナや周辺諸国の貨幣について見ていきましょう。

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。