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【つの版】ウマと人類史:近世編20・羅曼王朝

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 イヴァン雷帝ののち、17世紀初めにロシアは大飢饉に見舞われ、ポーランドが軍事介入して来て動乱時代を迎えます。1610年にはポーランド軍が貴族の手引きでモスクワに入城し、ポーランド王子ヴワディスワフがツァーリに擁立されました。存亡の危機に瀕したロシア正教会は必死で抵抗します。

◆末◆

◆法◆

対波反撃

 1610年11月、ポーランド王ジグムントはスモレンスクで軍司令官ジュウキェフスキと会談し、王子ヴワディスワフがツァーリになったことを報告されました。しかしジグムントは王子が正教に改宗することを拒み、自分がツァーリか摂政になり、ロシアをカトリックに改宗させると言い出します。これにロシアの貴族層が反発し、ジュウキェフスキもこれはダメだとポーランドへ帰国、ヴワディスワフも一旦モスクワを離れます。ジグムントはスモレンスクで抵抗を続けるロシア軍の包囲を続けました。

 1610年末、モスクワ総主教エルモゲンは全土に反ポーランドへの決起を呼びかけ、モスクワ市民も駐屯ポーランド軍に対し武装蜂起します。リャザンではプロコピー・リアプノフらがこれに呼応して義勇軍を結成、挙兵しました。エルモゲンはポーランド軍に逮捕・投獄されますが屈服することなく、リアプノフの軍勢は1611年3月にはモスクワに到達します。モスクワでは駐屯ポーランド軍が武装市民を鎮圧にかかり、街は火に包まれました。

 同じ頃、イングリア地方のイヴァンゴロドではまたもイヴァン雷帝の皇子ドミトリーを名乗る人物が現れ(偽ドミトリー3世)、6月にはスモレンスクがポーランド軍により陥落、7月にはスウェーデンがこの隙にイングリアを制圧、ノヴゴロドでスウェーデン王子カール・フィリップをツァーリに擁立します。ロシアにはツァーリを称する者が三人も並立する事態となったのです。これに乗じてタタールが各地を襲撃し、無法者が跳梁跋扈しました。

 プロコピーは8月にコサックと争って殺されますが、これを引き継いだ貴族ポジャールスキーはニジニ・ノヴゴロドの義勇兵を率いたクジマ・ミーニンと手を結びます。彼らは各地を転々としながらモスクワを窺い、1612年10月(グレゴリオ暦11月)にようやくポーランド軍からモスクワを奪還しました。なおエルモゲンは同年2月に獄中で餓死しています。

 スウェーデンはイングリアを確保したものの、1611年夏からデンマーク・ノルウェー連合王国がスウェーデンに攻め込み(カルマル戦争)、10月には国王カール9世が崩御して17歳の王子カール・グスタフが即位するなど混乱しており、ロシアやポーランドへ深入りはできない状態となります。さらにポーランド本国では議会(セイム)が軍事費増大を嫌がって国王に反抗し、貴族や兵士は反乱を起こしたり掠奪したりで従わなくなりますし、ウクライナのコサックもロシアやオスマン帝国へ勝手に攻め込んだりします。

羅曼王朝

 こうした情勢により、ロシアは立ち直りの好機を得ました。1613年2月、全国会議において17歳のミハイル・ロマノフがツァーリに擁立され、ロマノフ朝が始まります。彼の父フョードルはイヴァン雷帝の妃でフョードル1世の母アナスタシアの甥で、雷帝の重臣ニキータ・ユーリエフ=ザハーリンの息子にあたる重要人物でした。ニキータはロマンの子なのでロマノヴィッチといい、その孫なのでロマノフです。

 ミハイルの父フョードルはこの時60歳です。有力者だったため48歳の時にボリス・ゴドゥノフによって出家させられ、辺境の修道士となってフィラレート(Filaret/Philaletos,徳[alete]を愛する者)の修道名を授かりました。彼の妻クセニヤも出家させられ、5歳の息子ミハイルは母とともにコストロマのイパーチー修道院で暮らすことになりました。

 ゴドゥノフが崩御し、その子フョードルが廃位されて偽ドミトリー1世が即位すると、フィラレートは復権してロストフの大主教に任じられました。シュイスキー政権でも重要視され、偽ドミトリー2世は彼を全ロシアの総主教と呼び、権威付けに利用しようとしました。しかし1610年10月にポーランドへ使節団として赴いた際、シュイスキーとともに捕虜となります。シュイスキーは翌年亡くなり、フィラレートはポーランドへ留め置かれました。

 こうした状況下でミハイル・ロマノフが擁立されたのは、彼がリューリク家のツァーリの外戚の子孫であること、後ろ盾の父親をポーランドに人質にとられており弱い立場であったこと、若く気弱で実績もないことが主な理由です。貴族会議は彼を傀儡として実権を握り、ポジャールスキーは「救国の英雄」として讃えられます。各地で反乱は続いていましたが、新たなツァーリのもとでモスクワ・ロシアは再び団結し、スウェーデンやポーランドら侵略者と戦うことになります。

 1617年2月、スウェーデン王グスタフ・アドルフはロシアと和平条約を締結し、カール・フィリップのツァーリ位を取り下げます。プスコフは包囲を解かれ、ノヴゴロドは返還されましたが、イングリアと西カレリア(ラドガ湖北岸一帯)はスウェーデンに割譲され、ロシアはバルト海への出口を失います。同年ヴワディスワフはモスクワ奪還のため東へ遠征し、ウクライナ・コサックの援軍を得て1618年9月にモスクワを包囲します。しかし傭兵たちが給料の未払いを理由に戦闘を拒み、やむなくヴワディスワフはモスクワの攻略を諦め、12月に和平条約を結んで休戦しました。

 この和約によりポーランドは東へ領土を広げ、チェルニーヒウ、スモレンスクなどを獲得しますが、13年に及んだ大戦の割には合わない戦果でした。1619年にはフィラレートが釈放されて帰国し、エルモゲン亡き後空位であったモスクワ総主教に任命され、事実上のツァーリとしてロシアを建て直していくことになります。スウェーデンとポーランドは1621年からリヴォニアを巡ってまたも争い始め、ロシアはしばし平和となりました。

 ハルハ・モンゴルがモスクワに使節を派遣し、カルムイク(オイラト)を挟み撃ちにしようと申し出たのはこの頃です。モスクワ・ロシアはそれなりに大国で、コサックが東方に進出して来てはいますが、この状況下では断るほうが賢明でしょう。

総主教政

 総主教フィラレートによる統治は13年に及び、精力的に政治・軍事制度が改革されていきました。彼は徴税システムを整備して財政を再建し、農民を土地に縛り付けて農奴制を強化しました。ロシアの農奴制は15世紀末頃から強化され続けており、ポーランドともども西欧への穀物供給地として世界経済に位置づけられます。農民は自由を失い甚だ搾取され、これを嫌って盗賊やコサック、シベリアへの逃亡移民も増えましたが、多くの農民はそのまま農奴となり、西欧との交易で国家財政は改善されます。またフィラレートは各地に神学校や図書館を設立し、ロシア正教会を国教会として組織化し、カトリックやプロテスタントの浸透に対抗しました。

 スウェーデンとポーランドの戦争は1629年まで続き、リガやプロイセンなどバルト海沿岸地域が戦場となり、ポーランドは勢力を弱めました。1632年4月、ポーランド王ジグムント3世が崩御し、息子ヴワディスワフが王位を継承すると、ロシアはスウェーデンと対ポーランド同盟を結び、スモレンスクへ侵攻します。しかしスモレンスクのポーランド軍は強固に持ちこたえ、国王も議会もスモレンスク防衛のために団結して出兵します。

 南のクリミア・ハン国やコサックもポーランド側につき、1633年10月にはフィラレートが80歳で世を去ります。結局ロシア軍は1634年に降伏して撤退し、国境線は1618年の和約時点まで戻されました。皇帝ミハイルは多額の賠償金を支払う代わりとして、ヴワディスワフにツァーリの称号を放棄させ、レガリア(王権の象徴)を返還させて、国際的に正統なモスクワ・ロシアのツァーリとして承認を受けます。その後は西と南の国境線を固めて防衛に徹しつつ、東への進出を続けました。1639年にはロシア人が初めてオホーツク海に到達しています。

 1645年、ミハイル・ロマノフは在位32年で崩御しました。清朝や徳川幕府とほぼ同じ頃に成立したロマノフ朝は、300年に渡ってロシアに君臨することになります。次回はロシアのシベリア征服について見ていきましょう。

◆君はシベリア◆

◆送りだろう◆

【続く】

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