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【つの版】ウマと人類史:近世編19・動乱時代

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 ヌルハチがマンジュ国を建ててから約半世紀後、清朝は山海関を越え、李自成や張献忠、南明政権を駆逐してチャイナを征服します。ハルハ・モンゴルやオイラトは西に割拠して清朝と対峙しますが、西からはロシアの勢力がシベリアへ伸びてきます。イヴァン雷帝の死後、ロシアはどうなっていたのでしょうか。

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傀儡皇帝

 1584年にイヴァン4世が崩御すると、息子フョードルがモスクワ・ロシアの帝位につきます。年齢は27歳と不足はありませんが、小柄で痩せた臆病な人物で、生まれつき病弱でした。イヴァンは彼の資質を危ぶみ、五人の大貴族を摂政につけるよう遺言しましたが、彼らは実権を握ろうと争います。

 権力争いに勝利したのは、フョードルに妹イリナを嫁がせていたボリス・ゴドゥノフでした。彼はモスクワの北東、ヴォルガ川沿いの都市コストロマ出身の下級貴族で、先祖はタタールの王子チェットだといいます。伝説によれば、チェットはモスクワ公イヴァン1世の時にコストロマへ移住し、キリスト教の洗礼を受けてザハリーと名乗り、イパーチー修道院を建立したといいます。イヴァン雷帝の父ヴァシーリーの最初の妃ソロモニヤはチェットの子孫サブーロフ家の出身で、ゴドゥノフ家もその一派だといいます。

 タタール系の家系はルーシでは珍しくなく、イヴァン雷帝の母エレナのグリンスキー家もタタール貴族ママイの子孫と称していました。モスクワ公はタタールのハンの家臣だったのですから、そう名乗ればむしろ名家だとして箔付けになったのです。

 1586年にフョードルの母方の伯父ニキータ・ザハーリンが逝去したのち、ゴドゥノフはリューリク系シュイスキー家と対立し、摂政の一人イヴァン・シュイスキーを失脚させ、1588年に殺害します。一族のヴァシーリー・シュイスキーはゴドゥノフに媚びへつらって赦され、ゴドゥノフが単独でフョードルの摂政となりました。彼はフョードルを傀儡としてツァーリのように振る舞いますが、妹とフョードルの間には男児が生まれず、後継者候補としてはイヴァン雷帝の末子ドミトリーがいました。

 ドミトリーは1582年生まれで、父の崩御時は2歳でした。ゴドゥノフは彼をウグリチ公としていましたが、1591年にドミトリーは8歳で謎の死を遂げます。彼の首は刃物で切り裂かれていましたが、ゴドゥノフは自分が殺したのではないと主張してシュイスキーに死因を調査させ、「ナイフでダーツ投げ遊びをしている時にてんかんの発作が起き、不運にも自分の首を傷つけてしまった」と結論づけました。ゴドゥノフに疑いの目は向けられたものの、実権を握る彼には逆らえず、この件はそういうこととなります。

 ただ、正式な結婚を三回までしか認めない正教会の教会法に照らせば、イヴァンの五人目だか七人目だかの妻との子ドミトリーは非嫡出子(庶子)ということになり、当時のルールでは帝位を継ぐ資格を持たないとされます。またフョードルに男児が生まれる可能性もある時に、幼いドミトリーを始末して批判を浴びるのもよろしくありません。ゆえにこれはゴドゥノフの陰謀ではなく、本当に事故死だったかも知れません。真相は謎のままです。

 これに先立つ1589年には、ゴドゥノフはモスクワ府主教座を総主教座に昇格させています。総主教(Patriarch)とは特定の独立正教会の首座主教で、7世紀末頃からコンスタンティノポリス、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレム、ローマの大主教(大司教、教皇)をそう呼び始めました。東西教会分裂後はローマは外され、927年にはブルガリア、1008年にはジョージア、1375年にはセルビアに総主教座が置かれます。

 いずれも王国の世俗的パワーを背景に、権威を高め政治的に独立するために置かれましたが、オスマン帝国はこれらの国々を制圧すると総主教座を廃止し、コンスタンティノポリス総主教座に服属させます。またポーランド・リトアニアの支配地ではカトリックやプロテスタントが広められ、正教会との軋轢も生じました。そこで独立した正教国としては最大のモスクワ・ロシアに総主教座を置くよう働きかけたわけです。コンスタンティノポリス等の総主教はこれに賛同し、ロシア正教会は正式に独立教会となりました。

 1590年、ゴドゥノフはスウェーデン領エストニアとイングリア(ラドガ湖とフィンランド湾の間の地域)に侵攻します。1595年にはスウェーデンと条約を締結し、イングリアはロシア、ナルヴァを含むエストニアはスウェーデンのものとされます。イングリアはその後もスウェーデンとの争奪の舞台となり、やがてサンクトペテルブルクが建設されることになります。

動乱時代

 1598年1月、フョードルが跡継ぎのないまま41歳で崩御し、モスクワのリューリク朝は断絶します。分家はたくさんいましたが、摂政として10年余り君臨したゴドゥノフ以上の権力者はおらず、全国会議(ゼムスキー・ソボール)によってゴドゥノフがツァーリに選出されました。反対派はいたものの有能なゴドゥノフには敵わず、数年間はロシアは安定しました。

 ところが1601-03年、ロシアを大飢饉が襲います。これは1600年にチリで起きた火山噴火のためで、世界中で異常な寒冷化が記録されています。ロシアでは作物が寒さにやられて穀物価格が暴騰し、種籾すらなくなった飢民は食糧を求めてモスクワに押し寄せました。疫病も発生し、社会不安から暴動が頻発します。これをきっかけとして、ロシアは動乱時代(スムータ)と呼ばれる乱世に突入します。

 1604年、リトアニアの貴族ヴィシニョヴィエツキ家は、イヴァン4世の子ドミトリーであるという青年を担ぎ出します。彼は1591年にゴドゥノフの刺客によって殺されかけましたが、命をとりとめて逃亡し、ポーランドに逃げ込んで成長したというのです。

 時のポーランド王は、1587年に即位したジグムント3世です。彼はスウェーデン王ヨハン3世とポーランド王女の子で、前王ステファン・バートリが崩御した後、選挙によって国王に推戴されました。1592年には父の崩御によりスウェーデン王位も継承しますが、叔父のカールが摂政としてスウェーデンを統治し、カトリック化を進めようとするジグムントと対立します。ゴドゥノフが有利な条件でイングリアを獲得できたのはこのためでした。

 1598年、ジグムントはカールを攻めるためスウェーデンに上陸しますが、カールに撃退されます。カールはルター派を国教に定め、カトリックを弾圧・粛清し、1604年3月には自ら王位についていました。このような時に、ジグムントはドミトリーと称する青年と引き合わされたのです。彼は興味を惹かれたものの、ロシアよりはスウェーデン奪還を優先し、あまり支援を与えませんでした。それでもドミトリーはいくつかの貴族によって支援され、イエズス会のもとでカトリックに改宗し、1604年6月に「簒奪者ボリス・ゴドゥノフを討つ」と称してロシア領内へ侵攻しました。

 ドミトリーの軍勢は小規模でしたが、コサックなどの援軍を得て次第に膨れ上がり、クルスクなど4つの都市を陥落させます。ゴドゥノフは「彼は逃亡した修道士に過ぎない」との噂を流し、軍隊を派遣して討伐させますが、1605年4月に病気によって崩御します。

手首回転

 息子フョードルが跡を継ぎますが、シュイスキーは手のひらを返し「あのドミトリーは本物だ!」と喧伝し、フョードルとその家族を投獄・処刑してドミトリーをモスクワに迎え入れます。ドミトリーは貴族と民に歓迎され、1605年6月にツァーリに即位します。しかしモスクワに入ったポーランド軍は市民と対立し、シュイスキーはまたも手のひらを返し「やっぱり偽物だった」「あいつは男色家でカトリックだ」などと言い出します。1606年5月、シュイスキーの煽動に乗った民衆は暴動を起こしてクレムリンに押し寄せ、ドミトリーを捕まえて嬲り殺します。死体は晒し者にされた末に焼却され、大砲でポーランドめがけて発射されたといいます。

 首尾よく邪魔者を排除したシュイスキーは、直後に支持者によってツァーリに推戴されます。遠縁とはいえリューリク家の男系子孫(アレクサンドル・ネフスキーの弟の子孫)ですから血統上問題はありません。ただドミトリーが生きているとまた喧伝されては大変なので、ウグリチに人をやり、彼の遺体を掘り出させてモスクワへ運ばせます。さらに彼の遺体が腐敗していなかったと喧伝し、ロシア正教会によって聖人の認定を受けさせました。

 しかしまもなく「我は皇帝フョードルの隠し子ピョートルである」と称する者が現れ、コサックと結んでシュイスキーに反旗を翻します。これは鎮圧されましたが、ロシア各地で反政府暴動が起き続けました。さらに1607年7月には「我こそはモスクワから脱出したドミトリーなり」と名乗る人物がロシア国境付近のスタロドゥーブに現れます。

 驚いたシュイスキーは軍隊を派遣して防がせますが、このドミトリーはたちまち多数の支援者を集め、1608年夏にはモスクワ近郊のトゥシノに陣営を構えて帝都をうかがいました。やむなくシュイスキーはスウェーデンへ救援を要請しますが、これが引き金となってポーランド王ジグムントもドミトリー支援に回り宣戦布告、ロシアとポーランドの戦争が始まります。

莫斯開城

 1609年4月、スウェーデン・ロシア連合軍はノヴゴロドからモスクワへ向かい、ドミトリー率いる敵軍を撃破します。1610年3月にはモスクワを包囲していた敵軍を打ち破って入城し、ドミトリーは一旦撤退します。ドミトリーが率いていた軍勢の多くはポーランド軍に合流しました。

 7月、ポーランド軍は名将ジュウキェフスキに率いられてスウェーデン・ロシア連合軍とスモレンスク近郊のクルシノで戦い、これを撃破します。またジグムントはスモレンスクを包囲・占領し、拠点としました。ジュウキェフスキがモスクワへ進軍すると、シュイスキーは反対派の貴族たちに捕縛され、退位させられます。しかしドミトリーも軍勢を率いてポーランド軍とは別にモスクワに迫り、モスクワは大混乱に陥りました。

 ドミトリーはポーランドに同盟と支援を求めますが、モスクワの貴族らの一部はジュウキェフスキと密約を結びます。彼らはポーランドの15歳の王子ヴワディスワフをツァーリに擁立する代わりに、貴族たちに大幅な特権を認めるよう求めていました。ツァーリによる専横をポーランド風の議会主義で抑え込めればよいとしたわけです。またヴワディスワフが正教会に改宗すること、占領されたロシア側の土地を返還することも求めます。ジュウキェフスキはこれを承諾し、10月にモスクワに入城します。ドミトリーは勢力争いに負けてトゥシノを去り、カルーガへ入りますが12月に殺されました。

 内乱に乗じてとはいえ、モスクワ占領をポーランドはやってのけたのです。しかしジグムントはガチガチのカトリックで、王子の改宗に断固反対し、自分がツァーリか摂政になってロシアをカトリックに改宗させると言い出します。これに反発する勢力は必死にポーランドを押し返し、新たなツァーリを擁立することになるのです。

◆I can't pretend anymore◆

◆I surrender◆

【続く】

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