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目のつけどころが、さすがです。『文章読本さん江』斎藤美奈子


斎藤美奈子さんの個性は、あの独特の「語り口」だと言う人が9割9分だと思いますが、そもそもテーマがおもしろくないと、どう上手く語っても楽屋の陰口とか、週刊誌っぽい文章になってしまいます。

でも、選ぶテーマが他の誰にも真似できないものなので、斎藤さんの本のおもしろさを際立たせています。目のつけ所が違います。そして、本とか論文って、テーマを決めた時点で7割以上、内容がいいか悪いか決まるって聞いたことがあります。

さて、地味なタイトルと表紙の『文集読本さん江』は、いわゆる「文章読本」と言われている、文章の書き方指南の本を素材としたものです。主な本は以下の6冊。小説家として、また学者として有名だった3人と、ジャーナリストや文芸方面で有名な3人の文章術について、関連する部分や影響なんかを分析しつつ、それぞれの本が書かれた時代背景も説明してくれています。

御三家
1)谷崎潤一郎『文章読本』
2)三島由紀夫『文章読本』
3)清水幾太郎『論文の書き方』

新御三家
1)本田勝一『日本語の作文技術』
2)丸谷才一『文章読本』
3)井上ひさし『自家製 文章読本』

もちろん、この6冊以外のたくさんの類似『文章読本』もチェックして、例文をたくさん紹介してくれます。まず、この例文をあつめて、まとめて紹介してくれる過程がすごく楽しいです。

そそて、斎藤さんの結論はかなり渋いです。世の中にたくさんある『文章読本』が教える文章上達の心得は、あまり実用性がなく、新聞社や雑誌社でしか通用しないものだったりします。だって、作者が新聞や雑誌に原稿を書いてきた人たちだから。

でも、『文章読本』を書くような文章のたつ人は、新聞社の型通りに満足しないで独立した人だったり、最初から自分なりの方法論を編み出した人だったりするから、新聞や雑誌に書くような方法を勧める『読本』は、実は矛盾していると斎藤さんは指摘します。

しかも、こういう本を書く人たちの文章は権威主義的で、文学作品が頂点、次に新聞記事、底辺に素人作文(投稿)という上下関係に沿って並べられて添削されています。名文(いい文)とは、どんな文章か? 個別具体例はあげられていても、その特徴を説明している本はありません。そして、悪文といわれる文章は、ときにものすごくおもしろかったりします。

『文章読本』の執筆を依頼されるような人たちは文章のうまさに定評がある人で、いわば双六の上がりのようなもの。その人たちが読者として暗に想定していたのは、谷崎潤一郎の時代から女性でした。

社会の中で、女性の自己表現の場所が唯一書くこと(新聞投稿など)に限定されていたのは明治の昔から同じですが、戦後は退職した老人も含みます。ところが、執筆者たちの世界は男の帝国。名文で鳴らした樋口一葉でさえ、依頼が来たのは『通俗書簡文』(=つまり手紙の書き方指南の本)だったそうです。

そして、文壇の名士たちは、「文は人なり」という妄想をばらまきました。文章と人が一致しない例の方が多いのに、『読本』はいい文章を書くには人間性を磨け、ありのままに書くことが人間を成長させると煽りました。矛盾しています。なぜでしょう?

斎藤さんはその理由を、読者たちが学校でうけた作文教育への不信が『文章読本』執筆動機の根本にあって、内容にも影響しているとみています。明治の形式主義な漢作文の教育、大正時代の児童中心主義の教育、そして昭和の綴り方教室。時代ごとに流行は変わりますが、大人が子供に理想像を押し付けて、それに素直に答える子供を大人(先生)は評価してきました。

さらに戦後の作文教育は、都市の商業主義と結びついて、「課題図書」という制度を生み出し、児童書の売上に貢献しました。でも、どの時代も子供にとって「○○なふり」をする感想文は嫌なもの。そして、学校から一歩社会に出れば、「子供の作文じゃあるまいし!」と上司に罵倒されるもの。『文章読本』の執筆者と熱心な読者たちの学校教育への不信はここにあるのではないか、と斎藤さんはいいます。

『文章読本』の隆盛は、1930年代、1950年代、そして1970年代と大体3度あったそうで、どの時代にも文化の大衆化が進み、古いメディアに代わる、新しいメディアが誕生した共通点があります。こういう事情が、『文章読本』がさかんに出版される背景にあるとは、なるほどです。

最近、書店で見かける文章読本は、『バズる文章術』とか『Web文章術』『SNS活用術』みたいなヤツです。ケイタイ以前に出版されているのに、斉藤さんの分析はちゃんと現代でも当てはまるのですね。執筆者は、文壇の重鎮からインフルエンサーにかわったかな?






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