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新しい世界は闇から始まる。『闇の中国語入門』楊駿驍

「歌は世につれ、世は歌につれ」。それは歌だけでなく、言葉も同じ。新しい言葉ができたり、海外から入ってきたり。そして、それがその国独特の言葉に変化していきます。もともとネガティブな言葉が普通になって、さらにポジティブな意味も加わったり。言葉をめぐるおもしろさは、単純なコミュニケーションの道具というだけじゃなく、世の中の変化を定点観察できる部分にもあります。

楊先生の文章は、noteの記事をもとに書かれたそうですが、1冊の本として読むと、その構成力や深みのある洞察、なにより、1つの言葉が中国で生まれ、流行した社会背景、そこで使われた言葉の文脈をネイティブならではの詳しい説明、さらには日本語との違いなど、かゆいところに手が届きすぎて本当に魅力的。

現代中国の世相エッセイにもなっているので、中国語がわからなくても、例えば、中国の現代ドラマが好きだったり、斎藤淳子『シン・中国人』をおもしろく読める人たちにもおすすめです。中国ならではの古い価値観と、新しい社会に生きる若者たちの間の葛藤。かつて、日本の若者が抱えていたものと、似ているようで、また少し違う若者事情。

その昔、英語でも、フランス語でも、中国語でも、ロシア語でも、海外のことをもっと知りたい、勉強したいポジティブな動機でテキストを手に取る人が一般的だったと思います。嫌いな国の言葉を積極的に勉強しようとは思わない。日本にない、海外にある知識や文化を知りたいっていう単純な欲求から、勉強するのが多いパターン。なので、だいたい語学の教科書もポジティブな内容ばかり。そこに疑問を抱いたのが楊先生。

そして、最近はインターネットのおかげで、中国ドラマやアニメが手軽に見れるようになりました。おもしろい小説もたくさん翻訳されています。中国語ならではの、現代的な表現を知りたい。あのセリフの意味をもっと深く理解したい。そういう欲求に応えてくれる良書です。

『闇の中国語』がとりあげる中国語は、個人の悲しみや疎外感(さびしさ)、世の中にもがいたり、人生に絶望する言葉から、中国社会の政治的なリスク、失敗をめぐる言葉、社会的弱者を肯定しない伝統文化への諦め、そして抵抗するでもなく、流されるままに後ろ向きになる言葉などです。実際にネットに投稿された文章を例にしているので、リアリティもあり、最初に使われた言葉が、徐々に別の意味を持っていく様子もわかりやすいです。

そして、ネガティブなことが「悪」とされ、前向きに、明るく、ひたすら努力し、親孝行することだけが求められる社会はあまりに息苦しい。せめて、自分だけでも少し自分をいたわって、休んでもいい、逃げてもいいと言ってくれるやさしい楊先生。そして、今が真っ暗闇の中だとしても、明日もそうだとは限らないと言ってくれる、やさしい文章。魅力的ですね。

「はじめに」と「あとがき」を読むと、なぜ楊先生がそんなにやさしいのか、その個人的原点のお話も読むことができます。「夜明け前が一番暗い」という有名な言葉もあるように、本書1冊読むと「眼の前のことをくよくよしても仕方ないよね」と前向きに考えられる気がします。というわけで、多方面におすすめできる良書です。

それにしても、毛丹青先生といい楊先生といい、文章が本当に魅力的ですね。うらやましい。母語でない言葉を使って、ここまで表現できるようになるには、どれほど努力をされたのか。尊敬しかありません。


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