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「効率を重視」するほど「感情への配慮」が欠ける。




あなたが欲しいのは、
心のこもった手書きの手紙ですか?
それとも、効率的な電子メールですか?
合理的かつ効率的なものは感動が少ない。
無駄で非効率であればあるほど感動的なものが生まれる。
「どちらが正しいか?」ではなく、
「それはどういう場面なのか?」



このフレーズは最近自分が好きな言葉だ。
本かな?ウェブサイトかな?忘れたけど、すぐにメモしたのは自分でも覚えている。それぐらい自分に刺さったフレーズだったから。



自分は大学入学から今まで「効率化」をメインで考えてきた。


「どうすればもっと集中できるのか?」
「どうすればもっと生産性が上がるのか?」
「どうすればもっと最短で仮のゴールまでの道のりを見ることができるのか?」
「どうすればもっと見やすい資料になるのか?」
「どうすればもっと荷物を軽くさせられるのか?」
「どうすればもっと探す時間を短縮できるのか?」
「どうすれば問題は解決できるのか?」


 こんなことばかり考えていた。つまり、問題解決の考え方だった。
やから「自分の感情」なんてものは押し殺してきた。その時は感情に左右されると行動が遅くなるし、優柔不断になってかっこ悪いと自分で思い込んでいたからだ。実際にゼミなどの「チーム」では相手の気持ちを考えずに「数字」が示していることが正解だと自分では思い込んでいた。



だが、最近は少し変わってきた。



「効率」も大切だが「感情」はもっっっと大切だと思うようになった。
理由は「効率化」の先のゴールには「感動」は無いと考えるようになったから。「感謝」はあると思う。ただし、その「感謝」を大きく超えた「感動」は与えることが難しいのではと思う。



事実として昔に比べて今は効率化された社会になった。とても便利になった。そして「モノ余り」の社会になり「モノが少ない方が幸せを感じる人」もいるぐらいだ。もちろん人それぞれの「幸せ」は違う。


人間は「感情の生き物」



ふと自分は「究極に効率化された社会」になったら「幸せ」を感じるのだろうか?と考えた。



自分の子供ができた時プレゼントで「手書きの手紙」ではなく「電子メール」をもらったら嬉しいのか?
結婚して記念日に渡すモノが「データ」で相手は嬉しいのか?



自分なりに色々と考えた。



これからの時代は変化がこれまで以上に早くなる。今の子供の世代が大人になったら電子メールも無くなってもっと効率化している世界になるかもしれない。それが当たり前の人からしたら別に良いと思う。



でも自分は「究極に効率化された世界」になると「幸せ」を感じることが薄くなるだろうと思った。
これは直感だ。自分がそうやって育ってきたからかもしれない。



こう考えている最中に「そもそも幸せって何やっけ?」と考えている自分に気づいた。



そもそも人間はどんな時にお金を払うのか?
それは「自分の心の隙間が埋まった瞬間」だ。



今まで自分の感情を押し殺してきた自分だからわかる。
「自分の感情に素直に従って行動すること」が一番の幸せだと言うこと。



それは最初のうちは自分勝手なことでも良いと思う。色々と経験するにつれて「目の前の人を幸せにしたい」「もっと価値を生み出したい」と思えるようになると思うから。



もっと「世界をカラフルに」していこう。

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