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課題の分離から感謝へ

ストア派の時代から、この世の中には人間の力でどうにかなること、あるいは自分一人の力でどうにかなることとそうではないこととが区別されてきた。例えば、自分の身体を動かし姿勢を変えたり居場所を変えることはできることである。例えば、武力集団の指導者であれば、自分たちより弱い勢力を従えることも可能であったかもしれない。しかし、王のような権力を持っていたとしても不可能なことはいくらでもあった。例えば天候や農作物の生育状況を意のままにコントロールすることはできないし、言葉の通じぬ外国勢力が攻め込んでくることを止めさせることはできない。病気には誰にも治せないものがあるし、誰もがいずれは老化して死ななければならないのが定めである。また偶然の事故によって我々の財産や人命が損なわれることもしょっちゅうであろう。

ストア派においては、人間にコントロール可能なこととコントロール不可能なことがあることを総論としてまず認めた上で、生活実践として各論でコントロール可能だから努力と決意を注ぐことと、コントロール不可能だから諦観によって対処し無用にがんばったり、情緒をかきみだされないこと識別できることを理想とした。自分がコントロールできることとできないこととを精確に分別できる理想人のことを彼らは「賢人」と呼んだそうである。

一方、ストア派に部分的に似ているのが心理学者フロイトの弟子のひとりであるアドラーである。彼はストア派とは違って、まず人間の悩みとはおよそ人間関係の悩みに帰着させることが可能であるという前提をおいた上で、「課題の分離」という概念を提唱して自分の課題がどこからどこまでなのかを自覚することを促した。なぜならば、他人の課題までをも自分の課題として引き受けてしまうと人間は潰れてしまいかねないし、反対に自分の課題を他人に押し付けていつまでも課題解決してくれないとすねていてはやはりイライラや無用な怒りが募るばかりだからである。

例えば、相手が自分に注意を向け、好意を向けてくれるかどうかは相手の課題であり、それを相手がどのように対処するかはまったく相手の自由なのだから、それはあなたの課題ではない。一方で、あなたは相手の気を引くために着飾ったり、笑顔をみせたり、声をかけることはできる。それらは相手にはできないことであり、あなたの課題である。しかし、あなたがあなたの課題をこなしたからといって相手が相手の課題をどのようにこなすかはまったく別の話である。なぜならば、もしそこで「自分がこれだけ自分自身の課題について努力したのだから、相手もそれにふさわしい何かをお返ししてくれるだろう」とか「相手の課題は自分にも都合のいいように解決されるだろう」とか期待するのは、事実上、自分にはどうにもならないこと(ここでは他人の挙動)をどうにかしようとしたり諦観を知らずに物事が自分の願望のままに思い通りに運んでほしいと夢見るようなものだからである。それが偶然うまくいくこともあるかもしれないが、たいていは落胆と逆恨みをもたらすばかりで、相手もあなた自身もその過剰な期待のために傷口を深くするだけであろう。

このような事態を回避するために、どこまでが自分自身として引き受けるべき課題で、どこから先が相手自身が引き受けるべき課題なのかを識別し、そして相手の課題とみなしたものにはむやみに口出しせずに自分自身の課題に集中して取り組もう Mind Your Own Business という態度が現れてくる。これが「課題の分離」である。

では、複数の人間が同じ場所と時間を共有しているとしても、お互いに助け合うことはできないのかというと、もちろんそんなことはない。我々はお互いに相手に提案 suggestion することができる。どのようなかたちで協力するのか、あるいは敢えてしない No Deal のかを考えて企画し、それを相手に提示して同意を取り付けることができるのである。とはいえ、そこでもこちらが呈示した提案を相手が受け入れるかどうかは相手の課題であるし、相手が呈示した提案をこちらが受け入れるかどうかもこちらの課題である。だから、却下 reject されたり、修正案を使った条件交渉 negotiation が生じるかもしれない。このような交渉でも、もし対等な関係なら一方的に理にかなっていないことを相手に押し付けるのは理不尽なわけであって、相手が提案を受け入れられるだけの根拠を示したり、相手が当初の提案を拒否した理由を覆したり、それを無効にするようなさらに強い理由や利害を提供しなければ相手が承諾することはないだろう。

しかし、現実の会話というのは必ずしもすべてが言語化されるわけではない。例えばあなたの保護者はあなたの課題に対して、人生の先輩としてさまざまな「口出し」「お説教」を述べてくるかもしれない。言い換えればあなたを「指導」してくるかもしれない。なぜならば、その保護者にとってはあなたの課題と自分自身の課題とを分離するという発想が無かったり、あなたの課題と自分の課題とを連動させているかもしれないからだ。それに対して、あなたはそれを自分自身の課題解決能力を軽んじられたと解釈して怒ってもおかしくはないだろう(なお、私は実際に怒りを感じるタイプである)。あなたがそれで怒るようなら、ますますあなたは保護者の言う通りにはしたくないということであり、あなた自身の課題解決であるにもかかわらず、あなたがそこから自分で学び取ったり意欲的・主体的・自発的に活動する余地が狭められるということである。一方、世間慣れした人なら、課題の分離などという余計なことは考えずに、先輩に言われた通りにやって次の課題に進むかもしれない。あるいは、多少の不快があってもいわゆる事なかれ主義を優先して相手の指導にしたがって事柄に対処し、やはり次の作業に進むかもしれない。

あなたがそういうタイプではなく、仮に相手の軽率なアドバイスに怒りを感じるタイプだったとしても、相手のアドバイスには明示されてはいないが、理にかなった側面がないかどうかを検討してみてもよいだろう。なお、この「検討」自体も私からあなたへの提案なので、あなたは実際にそのような機会に検討してもよいし、検討しなくてもよい。それは私の課題ではなくあなたの課題であり、私にあなたがあなた自身の課題にどう対処するかを左右する力はないのであって、ただ提案をしてみて、あなたの検討材料あるいは叩き台のひとつにしてもらえることを祈るばかりである。

相手のアドバイスに明示されていないが理にかなった側面がある場合は実際あり得るだろう。例えば、あなたが気づかないうちに相手から多くのものを受け取り、借りがあるのかもしれない(あるいは相手が勝手に貸し付けたと恩着せがましいのかもしれない)。あるいは例えば、あなたと親睦(しんぼく)を築きたい一環として、ちいさな提案をやり取りすることによって一種のあいさつ、「握手」を交わしたいのかもしれない。もちろん、相手があなたの所属集団によって認められた権威であり、あなたの生活基盤を支えるような指導者であるからそのようなアドバイスを期待と共にあなたに押し付けるのかもしれない。

いずれにしても、これらはアドバイスする側にとってはあまりにも当然か、もしくはそれを察知できないほどお前は鈍感ではないはずだという前提で省略されている可能性がある。そして、もしそのような可能性が考えられているとしたら、あなたは相手のアドバイスを受け入れるかどうか、少しこれまでの相手との関係に想像を膨らませてみてもいいかもしれないし、その上でやはり断ることにしたり、修正案を提出してみてもいいかもしれない。

また、そのような相手からの恩義に思いを巡らした上で、相手からの提案行為についてそれを受け入れるかどうかとは別に自発的に感謝することもできるだろう。それは悪いことではない。なぜならば、感謝できる点に気がついてそれを示すことは礼儀正しいだけでなく、あなたのヘルスケアや人生の充実にも貢献するからである。

(3,308字、2024.04.23)

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