見出し画像

病んでるブッダ

近年、業界内の知人・友人が、警察のご厄介になる報せが相次いでいる。
まず、被害者のいらっしゃるケースについては、被害にあわれた方にお見舞いを申し上げたい。心身の一刻も早い回復をお祈り申し上げます。
同時に、「自分がいつ加害者側になってもおかしくない」という畏まった思いがまたよぎる。
一歩間違えれば、ほんの僅かなボタンの掛け違いで、自分が彼だったかもしれない。そんな綱渡りの観念はいつの頃からか存在している。

新自由主義の台頭や自己責任論を倦厭しての反応かもしれない。「たまたま今日が地獄じゃなかっただけ。明日には地獄かもしれない」という、薄氷の上に暮らすような感覚。胸がスカッと澄み渡る日なんて、こと日常生活においてここ数年で果たして何日あったろうか。
だからこそ思うのだ。罪を犯した人間は社会的に抹殺されるような、一度の失敗すら許されずに人生詰んでしまうような粛清ムードに、加担していいのだろうかと。自分の首を絞めてやいないか。一寸先は闇、明日は我が身なのに。

このリレーコラムを読み返すと、6/21付の記事『2000年前から、不倫で叩く人達』では、罪のある者を石で打ち殺せ、と律法にあるが、どうするか?という問いにイエスは「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネによる福音書8章2−11)と答えたという。

イエス在世当時の聴衆はこれによって撲殺を控えたのだろうが、現代社会にあっては「それはそれ、これはこれ」と自らは棚に上げて、そこから罪人をメッタ打ちにして殺すようにも思える。

8/3付の記事『自由と平等のジレンマ』では、ISに外国人戦闘員として参加する為シリアに向かった人々が帰国したら、その人を隣人として迎えることができるか?と問題提起している。

現代日本ではたとえ家に戻ることが出来たとしても、近隣住民からの陰湿な嫌がらせが続き、その住所を追い出されるところまで容易に想像がつく。共同体がその人間を許せない。

こと宗教界、日本仏教界なぞ未だに封建的な狭い社会だ。
罪を犯した宗教者はもう再起不能なのか。途端に掌を返したように全人格否定をし、末代までスティグマを背負わされるのか。

どうか助けて欲しい。そして再起の機会を与えてはくれまいか。もしも宗教教団が救いを説くなら、その教団内部にも救いはあっていいはずだろう。


Text by 中島 光信(僧侶・ファシリテーター)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?