電車や新幹線を忘れてしまった息子が教えてくれた実践での学び
1歳すぎたぐらいだろうか、息子は線路が大好きになり、散歩で線路沿いを歩くと踏切の前で必ず止まり、何分も何時間もやってくる電車を眺めていた。
私の家の近くは名鉄しか通らなかったので、試しにのりものの雑誌を買ってみたところ、毎日毎日眺めては、「これは何?」と列車を指して私に聞いてくるので「こまち」「はやぶさ」「やまのてせん」など言っているうちに、文字が読めなくても写真で何かを理解して、実際に新幹線やJRの列車を見たらすぐに「○○」と答えるようになった。
それが私も嬉しくて楽しくて本物を見せてあげたいと思い、礼儀作法の会で東京や静岡に行くときに息子も連れていろんな電車を見るのが本当に楽しかったのだ。
その後youtubeやDVDなどで何度も同じ動画を見るようになって、そしていつの間にか姉たちがハマっているポケモンなど気づけば電車とは言わなくなってきたのだ。
そうして2年、息子が幼稚園から毎月頂くキンダーブックで新幹線の特集をしていた。
寝る前に「この本読んで」と息子が差し出したので一緒になって読むと、こまち、はやぶさ、つばめなど掲載しており、写真に指さして「コレは?」と聞くと、「はやぶさ」「こまち」はすらすら言えたけれど、「みずほ」「つばめ」「かもめ」は忘れていて、文字を読もうとしているのがわかったのがとてもショックだった。
同時に、文字が読めるようになるということは賢くなると思っていたけれど、実は違うのではないのかと私は思った。
もちろん、文字を読めることはとても大事なことだし、生きていくうえで必要だと思う。
しかし、文字が読めないからこそ自分の頭でインプットしてきたあの2,3歳の時がとても賢かったのではないかと思う。
純粋に好きで好きで覚えてきたということがどれほど大事なことか。
それでいうと、そういえばポケモンは文字が読めない時から姉の影響で見たり、ゲームをしているけどやっぱり名前を覚えているなぁと気づいた。
文字が読めない中での「興味」からの学びのすごさを改めて息子から教えてもらったと同時に言語の学びもまずは「耳」からのインプット、そして「口」で喋るアウトプットが大事だと実感したのであった。
ただ読んだだけ、動画見ただけだと「できる気になっている」だけに過ぎない。
そう、礼儀作法の先生もおっしゃっていたのを思い出した出来事でした。