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生命体としてのシンボル分節システム ー感覚、イメージ、シンボル、ことば

国立民族学博物館で開催された公開講演「イメージの脈動にふれる」をyoutubeで視聴しました(現在は非公開)

基調講演は中沢新一氏の「眼とイマージュ」である。

中沢氏といえば、私もこのところ『アースダイバー神社編』を読み込んでいたところである。イメージの脈動にふれる」も繰り返し再生して拝見しました。

講演の中で中沢氏は、人間の身体の内部から発生する”脈動”するイメージについて論じる。

イメージというのは、私たちが他人の話を聞いたり、かつて経験したことを喋ったり、目を閉じて何かを思い出したり、を見たり、目まいでクラクラしているときに、いつでも意識に渦巻いているあれである。

私たちは四六時中”イメージ”と共にある。

イメージについて井筒俊彦氏は『意識と本質』で次のように書かれている。

底の知れない沼のように、人間の意識は不気味なものだ。それは奇怪なものたちの棲息する世界。[…]人間のこの内的深淵に棲む怪物たちは、時として--大抵は思いもかけないときに--妖しい心象イマージュを放出する。そのイマージュの性質によって、人間の意識は一時的に天国にもなり、地獄にもなる。」

井筒俊彦 著『意識と本質』p.181

いきなり「」である。

それも、底の知れない。不気味な。奇怪な。

私たちが経験する妖しく不気味なイメージ=イマージュたちは、私たちの身体の”外”の光の中にオリジナルを持つものではない。身体の外に、感覚器官が感じる先の外界に不気味なものたちのオリジナルが確固としてあって、それを私たちの神経系が後から受動的に知覚感覚認識するのではない妖しいイメージたちは、私たちの身体の”外”と”内”の境界で、外からの光とうちからの「視覚」が混じり合うところで発生する

そして身体は「あたま」だけではない。身体は心臓の鼓動、体液の流れ、神経インパルスの明滅などなどの「脈動」に波打っている。上の講演で中沢氏は、イメージの発生を「生命のパルスに直結した活動である」と論じる。この脈動、「生命のパルス」こそが人間の個体をその環境から、内を外から区切り出そうとする=分節化しようとする働きである

環境 / 個体
外 / 内

内と外、人間とその外部とは、もともと別々に予めそれとして存在する二つの何かではない。内と外は、内を外から外を内から区切り出そうとする動き(分節しようとする動き)から、その動きのさなかで、仮に、仮設的に、一時的に、春の夜の夢のように、束の間、”内”として”外”として顕れる影である。

例えば、”わたし”と、”わたしが昨日食べたカレー”。

わたしは昨日わたしに食べられたカレーである。

あのカレーはどちらかといえば私ではなく、私はどちらかといえばあのカレーではない。

イメージ=イマージュも、まさにそういうドロドロとした不気味な沼のようなところで脈動する妖しい生命体が、内/外を分節化しようともがきつつあるところで生まれる。

妖しい生命は / である

ちなみに個人的におもしろいと思っていることは、「生命」という言葉が、一方で明るく輝くものの方に分節されることもあれば、他方では「ねばっこい」暗闇の方に分類されることもある、という点である。

生命 / 非-生命
||   ||
光 / 闇

生命について、上のように意味分節をするか、それとも下記のように意味分節をするか。

生命 / 非-生命
||   ||
闇 / 光

ちなみに私個人としては、生命というのは”光でもなく闇でもない”と思う。なぜかといえば、生命とは、”非-生命”とペアを構成する二項対立関係の一方の極ではなく、生命と非-生命を区切っている=分節している「/」だからである。

脈動する生命は「」である。

/は、闇と光を区別する「/」と同じ/である。

そういう意味でいえば、脈動する生命システムとしての”人間”に備わった
イメージ形成能力は、撮影装置としてのカメラとは違う。

カメラはレンズの先にある何かに反射する光によって受光素子を励起することでイメージを作り出す。そうであるから真っ暗闇の中では例えレンズの前にりんごが置いてあったとしても何も映らないし、真っ昼間に空っぽのお皿を撮影しても、皿の上にチャーハンが写ったりすることはない。カメラにある光は「外界」の光だけである(だからカメラ・オブスクラcamera obscuraなのである)

しかし、人間の視覚は違う。人間には内部からの光”も”ある。目を開いて視線の先に置かれた何かから反射してくる光を捉えていなくても、頭の中で(頭だけでなく、もっと広く広がった神経のネットワークの中で)、イメージを感覚することができる。

もちろん、カメラという機械が作り出すイメージもまた、人間の視覚にとらえられた瞬間、生命システムの脈動に喰われるわけであって、その辺りの話はちょうどロラン・バルト氏が『明るい部屋』で書いているStudiumとPunctum(ストゥディウムとプンクトゥム)のペアに関わる話だと思う。

◇ ◇

生命の脈動に肉薄するイメージ

ところで、イメージにもいろいろある。

夢に出てくる慣れ親しんだ人の姿とか建物の形とかモノとか、身体の外部にあるモノの姿の記憶に基づくイメージもあれば、目を強くぎゅっと瞑ったとき、黒い空間に無数に流れるようにみえる”光の粒”のようなイメージもある。

この後者のようなものは内部視覚と呼ばれる。

内部視覚についてデイヴィッド・ルイス=ウィリアムズ氏は『洞窟の中の心』という本で次のように書く。

「はじめの「もっとも明るい」段階では、点、網目、ジグザグ、入れ子状の懸垂曲線、蛇行する線などをふくむ幾何学的な視覚現象を経験する。この知覚は人間の神経システムに「配線」されているので、文化的な背景が何であれ、すべての人々が経験する可能性がある。それらの幾何学的なパターンは、明滅したり火花のようにきらめいたり、拡張したり縮小したり、相互に結びついたりもする。」

デイヴィッド・ルイス=ウィリアムズ著『洞窟の中の心』p.213

光を感覚するシステムが自ずから動き、眼球に外から入る光とは別に、”何か”を見ているような感じを私たち引き起こす。その”何か”は外界に対応するモノの形を持たない、視覚それ自体から、つまり人間という生命システムが内/外を区別しつつある脈動からダイレクトに発生するパターンである。

脈動する光が”シンボル”システムを発生させる

さて、ここまでは生命システムの脈動が「光」の経験をもたらす、という話である。

重要なのはここからである。

人類はこの内部視覚の光を、他の何かを意味する「シンボル」として扱うところが、とんでもないのである

中沢新一氏はアースダイバー神社編の冒頭で、この内部視覚の光が、他の何かを意味するシンボルになる話に触れている。

「(人間の)聖地は深い洞窟の奥にあった。いまから十万年ほど前の、旧石器時代がいまにも始まろうという頃、人類のに革命的な変化が起こった。その革命的変化を心に受けた人類は、入り口が樹木に覆われた深い洞窟を探し出し、その中にもぐってそれまでの人類の知らなかった祭儀を始めた。[…]こうして人類にとっての「聖地」なるものが、初めて出現したのである人類の心の中を縦横無尽に走ることのできる「流動的知性」があらわれたのである。」

中沢新一 著『アースダイバー神社編』pp.5-6

人間という生命システムが脈動させる新しいタイプの「心」=「流動的知性」が、動き、流れ、脈動するその”様”を全身でもって感じ取る。そのために深く湿った闇に満たされた洞窟は最適な空間だった。

真っ暗闇の洞窟の中、小さなランプのゆらめく光岩壁の凹凸に反射しては、光と影のパターンとして様々なの経験を視覚にもたらす。そこでは内部視覚と、岩壁に反射したランプの光による外部からの視覚とが、渾然一体に混じり合うことだろう。そこで経験される影と光の「形」を、単なる岩の表面の凹凸として受け取るのではなく、牛や馬や人などの形と”別々のものだが、よく似たもの”=シンボルとして受け取ったのが、旧石器時代の祖先たちであるという。

デイヴィッド・ルイス=ウィリアムズ氏が指摘するように、洞窟壁画はまっさらなキャンバスに描かれたものではなく、「自然にできた岩の層や裂け目や突起を利用して、動物の身体の輪郭を描」いたものである。人が、自然にできた岩の凹凸のパターンと、動物のイメージや、内部視覚の幾何学模様の形とが”似ている”ことに気づく

AはBのシンボルである。AとBは非同非異である

この異なったものを異なったまま似ているとすること=喩えることこそが、ある何かで他の何かを象徴するシンボルの力である。

異なったものを異なったまま”似ている”と思ってしまうことこそが、ホモ・サピエンスの心=流動的知性の最重要の性能である。

ホモ・サピエンスの心は、何かと何か、互いに区別・分節される二つの事柄の間を、異なるが同じ〜非同非異の関係をむすぶことができるという性能を持っている。これこそが人間ということを(何より私たち一人ひとりにとっての主観的な意味の世界を)理解するためにこの上なく重要なポイントである。

凹凸した洞窟の壁と、原野で草を食んでいる生きた牛とは、全く別物である。いうまでもなく岩壁は牛ではないし、牛は岩ではない。「牛の形に似てるわ」と思ったところで、岩を削り取ってサーロインステーキにして食うことは(原子レベルに分解してから組み直しでもしない限り)極めて困難である。

全く異なる岩壁の凹凸のパターンがたまたま描いている形と、草原に見える牛の形とが、”似ている”と気づくこと。

これこそがホモサピエンスの流動的知性の発露である。

自然の凹凸に反射する光の知覚と記憶されたイメージとが不一不二の関係になって、視覚の内部と外部がひとつに重なり合うところではっきりとしたイメージが見えてくる。そのイメージに近くなるように、自然の洞窟の壁の凹凸の方に手を加えて「イメージの欠損した部分を補う」のである(デイヴィッド・ルイス=ウィリアムズ著『洞窟の中の心』p.45)。

デイヴィッド・ルイス=ウィリアムズ著『洞窟の中の心』p.xvi

さらにさらに。

”似ている”のは二つの二項対立関係

おもしろいのは、この”似ている”は、単にある形α(1)とある形α(2)との二項の関係では済まないという話である

α(1) = α(2)  ・・・単にこれではない!

”似ている”は、二項の関係ではなく第一の二項関係と第二の二項関係の関係のあいだに見出されることである。

わかりやすくいえば(いや、かえってわかりにくいかも知れないが)、似ているのは、ある項aと項でa'はなく、ある項aと項bの関係と、他の項a'と項b'の関係である

第一の二項関係と第二の二項関係が、似ている。

二つの二項関係が似ている。

二つの二項関係が非同非異、不一不二だと思えて仕方なくなる。これが中沢氏が『レンマ学』で論じているレンマ的知性である。

二項関係と二項関係の組み合わせは、下記のような4項の関係である。

α(1)  /  β(1)
||
α(2) /  β(2)

上に引用した写真をご覧いただきたい。牛(バイソン?)のような形と人間のような形を見ていただけるかと思うが、重要なのはその二つの形が描かれた岩の質感の違いである。

動物が描かれている部分の岩はこの写真では茶色というか相対的に黒っぽく、一方人間が描かれている部分の岩は白っぽいパターンがある。

岩の表面の質感の違いから生じる黒と白の対立に、人間と動物の対立が、まさに重ね合わされている。

白  /  黒
||
人間 / 動物

* *

単に二項の関係で、前者の形が後者の形に”似ている”というのは、C.S.パースの記号の分類でいえば、イコンの話である。

しかし、洞窟に描かれた記号の古代の人々にとって「意味」を考えようという場合には、イコンではなく、「シンボル(象徴)」としての意味作用を考えないといけない

これがルイス=ウィリアムズ氏の議論の核心であるし、何と言ってもクロード・レヴィ=ストロース氏が『今日のトーテミズム』で論じたことのエッセンスである。

* *

イコン?シンボル??

ここでシンボルという言葉をつかうにあたり、C.S.パースの記号の三分類についてもふれておこう。

まず記号について。

ある何かAと、それとは異なるBとが、”似ている”と思ってしまうこと。

これこそがAをもってしてBを”意味する「記号」”とすることを可能にする。

記号はまず、AとB、二項の関係として始まる。

A = B 
意味するもの = 意味されるもの
シニフィアン = シニフィエ

何かが何かを意味するとは、区別される二つの項を、別々でありながら同じだと置くことである

C.S.パースは、意味するものと意味されるものとの二者の関係について、(1)インデックス、(2)イコン、(3)シンボルの三種類のパターンを分けて考えることを提唱した。

(1)インデックス

ある記号と、それによって意味される事柄との間に”実際の物理的なつながり”がある場合、そういう記号をインデックスであるという。例えば、”熊の糞”は”熊”のインデックスであり、”猫の足跡”は”猫”のインデックスである。熊の糞は”熊そのもの”ではないし、猫の足跡は”猫そのもの”ではない。猫の足跡はニャーとは鳴かないのである。このようにものとしては全く別々の二つの異なるものの間に前者が後者を”表す”とか、”意味する”とかいう関係があるとき、前者が後者を「意味する」=前者は後者の「記号である」ということができる。

おもしろいのはインデックスの場合、猫の糞が「これ実は熊の糞でした!」とか、猫の足跡が「実はこれ、熊の足跡でした!」という冗談=多義性はないということである。インデックスでは、記号となるものとそれによって意味される事柄との間の関係を、人間の都合や思いつきで切り離したり繋ぎかえたりすることはできない

(2)イコン

次にイコンとは何かといえば、肖像画をおもいうかべてもらうといい。平面に塗りつけられた絵の具の塊と、かつて生きていたナポレオンという人とは、いうまでもなく全く別々のものであるが、人間の感覚器官によって両者の形や色が似ていると感じられることで、前者が後者を”表し”、”意味する-記号"として機能する。

色や形が似ているということは、人間の感覚器官が二つの事柄を区別できるけれど区別しなくても良いと感じ同じではないけれども同じようだと感じることである。

(3)シンボル

シンボル(日本語では”象徴”と訳されることがおおい)とは、ダニエル.L.エヴェレット氏によれば「ほぼ恣意的な形象特定の意味へ結びつけるもの」である(ダニエル.L.エヴェレット『言語の起源』p.25)。シンボルの具体例はなんといっても「言語」である。

言語では、たとえば「いぬ」という””が、”あの動物”を”意味する”。

i-nuという音の知覚と、あの動物とは、全く別々の異なるものである。しかしこの全く異なる両者の間に、前者が後者を意味する記号であるという関係が成り立つ。i-nuという音の知覚と"あの動物"との間には、物質的なつながりはないし(インデックスではない)、色や形が似ているわけでもない(イコンでもない)。それにもかかわらず、この二つを一つに結びつけて「同じだ」とするのがシンボルである。

ところでここが一番重要なのだが、言語において”i-nu”が🐶を表す”シンボル”であるという場合、この関係は"i-nu"と🐶の二者だけで成り立っているのではないと考えられる。

i-nu
||
🐶

のペアの隣に、別のペアたちが隠れている。

i-nu / 非-i-nu …
||
🐶  / 非-🐶 …

まったく関係がない"i-nu"と🐶が「恣意的」に結びつき組み合わされるとき、この結び合わせは"inu"と🐶の二者を「えいや」とくっつけたことによって生まれたのではなく、"inu"と"非-inu"の区別の系列と🐶と非-🐶の区別の系列とが重ね合わされたことで成立したと考える。

そしてそして、"inu"と"非-inu"たちとの区別と、🐶と非-🐶たちとの区別は、空気の振動の違いだったり、感覚する神経の反応の仕方の違いだったり、動物そのものの姿形や動きや匂いの違いであったりと、物質的・物理的な差異によって区別されている。この物質的な差異は、人間の都合や思いつきで”恣意的”に動かすことはできない。

(インデックス、イコン、シンボルの違いについては下記の記事にも詳しく書いているので参考になさってください)

インデックスやイコンとしての記号であれば、人間に限らず、様々な動物によっても利用されている。例えば嗅覚によって直接目の前の時空には存在しない他の動物の情報を得ている動物は多い。しかし、シンボルとなると、これを本格的に利用しているのは人間とその言語くらいのものらしい。

二項関係と四項関係

インデックスやイコンは二項の関係である。
AがBを思い出させる。
AがBに似ている。
どちらもAとBの二者の関係である。

ところがシンボルは、最小構成で四項関係として観察される複数の項が区別される系列同士の重ね合わせである。

光のパターンが、何かのシンボルになる。即ち、光と闇の対立のパターンが、何かと何かの対立を表すシンボルになる。人類は”内部視覚”の光と闇のパターンをもまた、他の何かと何かの対立を意味する「シンボル」として扱う

内部視覚は神経の反応であるが、そこで「見える」幾何学的なパターンを、他の神経システム内外の見えるものや聞こえるもの触れることができるものたちと重ね合わせて、シンボル=他の何かを意味するものとして利用するのが人類である。

光 / 闇
||
人間/野生
||
|生 / 死
||
○ / ○
||
○ / ○
||
○ / ○
||
○ / ○
||
○ / ○

複数のイメージを並べ、対立させ、組み合わせ方のパターンを決める。そして複数のイメージを一方から他方へ自在に置き換えたり、ひとつに圧縮したりする。そうするとイメージは他の何かを意味する記号(シンボル)になる。シンボルの力をもつことで人類は、頭の中にあるシンボルとよく似ている形を、感覚可能な物質的現実の形態の中に発見するようにもなる。

シンボルのシステムで、世界の意味を分節する

シンボルたちの対立関係の系列が、他の様々な経験を意味づける=分節する。地理的区別、時期的な区別、天体運動のパターンの区別、人間の活動の区別、異なる活動に携わる人々の間の区別、身体に身につける様々なものの色や形や大きさなどの区別。時間と空間が分節システムによって区分けされ、配列され、そこにシンボルたちからなる分節体系が重ね合わされる

ルイス=ウィリアムズ氏は後期旧石器人が「居住地内での諸活動や人々の空間配分についてかなり明確な観念を抱いて」いたと推定する(p.143)。

合理的に予測を立てて野生動物の「渡り」を追う、人間のつながり。

毎年同じようなルートを移動すると推定し、いつどのあたりに行けば良いかを仲間で話し合い、合意し、共に旅することができる人々のつながり。

さらに、日常的に行動を共にしていない距離を隔てた者同士でも、再会を約束し、つながり続けることができること。

そうした関係、人々のネットワークの存在自体が、シンボルの関係によって象徴される

シンボルを物質に造形した象徴物を共に眺めたり、交換したり、共有したり、分有したりすることが、人々のあいだに同時性を超えた「つながり」を感じさせることがあるらしい。ルイス=ウィリアムズ氏は旧石器時代に描かれた洞窟壁画も「象徴を利用した持続的ネットワーク」の形成に寄与するものであったと論じる。ルイス=ウィリアムズ氏は、旧石器時代の人々が「社会関係」を確立したり、それを制限したりする手段として想像力を活用してきた可能性」を論じる(p.13)。「イメージの制作(芸術)、宗教、社会的差異」は「ひとまとめのパッケージ・セット」として出現するのである。

イメージ、宗教、社会的差異、社会の規範、文化的慣習。それらの多様ないくつもの体系の絡まり合いこそが人類にとっての意味分節システムである。

○ / ○
||   ||
○ / ○

ここでルイス=ウィリアムズ氏は面白い問いを発する。

「ある共同体のなかで共有されている人間の経験をめぐる思想は、個人の心的活動へといかにして侵入することになるのか。」

『洞窟の中の心』p.12

意味分節システムの伝承、超個的言語アラヤ識の個人への憑依とも呼びうる問題である。

普段は別々に移動生活を送る旧石器時代の人々が、何かのタイミングに集まって、洞窟の中で共に壁画を見たり描いたりしつつ、同じような「シンボル」を経験する。洞窟での共同シンボル体験をありありと記憶して持ち帰ることで、人々は離れて暮らしながらもつよく結びついていると感じることができるようになるという。

洞窟の壁画に関わる儀式は、分散して移動生活を送る人々のあいだで、シンボルを共有した結びつきを次世代へと伝承し固めるために行われたのではないかと推定するのである。

元型イマージュ

インデックスやイコンに対立する「シンボル(象徴)」を作り出すことができるようになった人類は、神話を語り、詩的言語をうたうことができるようになったと推定される。

もちろんシンボルとして他なるものを意味することができる記号は言語記号だけではない。心にうかぶイメージも、心的イメージこそがシンボルである。

心的イメージはリアルな実在、物質的な”現実”として感覚され識別されるあれこれのものの間の断絶を、自在に乗り越えて、くっつけたり重ね合わせたりすることができる。

例えば、樹の幹に顔があって人間の言葉を喋ったりだとか、四足歩行の動物が二本足で立って人間の言葉を喋ったりだとか、頭が動物で体は人間で人間の衣装を着ているものたちだとか、太陽や月が人間や動物の姿に変身して生活している姿のような、おとぎ話や神話に登場する世界である。物質的な現実の中では、野生動物の口から人間の声のようなものが発せられたりすることはまずないし、頭が動物で首から下が人間という生物は存在しない。

しかし、イメージの世界では、「人間」と「動物」の対立を対立として保ったまま、その両極を一つにくっつけて圧縮した者が易々と登場することもできる。

そうしたイメージたちがあそびまわる時空として、五感で感じることができる物質的な現実世界とは別の、他なる”リアリティ”ある世界を私たちは経験することができる。

そういう心的イメージは、神話を聞くこと、夢を見ること、『洞窟の中の心』のデイヴィッド・ルイス=ウィリアムズ氏が描き出す洞窟の中で共に「意識変容状態」に入ることなどで経験され、伝えられていく。

「感覚遮断は、東洋の数多くの瞑想技法と部分的に比較することもできるだろう。瞑想者は、できる限りまわりの環境への感覚を遮断して、ただ一つの焦点に意識を集中する。こうした焦点は繰り返される呪文であったり視覚的なシンボルであったりする。そして、延々と続くドラムのような音による心理的な駆り立てや断続的に明滅する閃光のような視覚的な刺激[…]持続的なリズムを刻むダンスもまた、似たような効果を神経システムにおよぼす。」

『洞窟の中の心』pp.209-211

洞窟壁画の前で”シンボル”を見る経験が、個的生命体としての一人一人の人を、部族というか民族というかなんというか、個々人の死を超えて受け継がれる意味分節体系を、個々人の身体に刻み込む。みごとなメディア・コミュニケーション・テクノロジーである。

ここから翻って、旧石器時代ならぬ現代の私たちは、いったいどのようなシンボル体系と、その伝承技術にぶら下がって、意識を、イメージの分節体系を書き込まれているのだろうかと考えてみたくなる。

そうなるとスマホもインターネットもYoutubeもテキストメッセージも、なにやら”不気味な沼”に落ちた笹舟のようなものに思えるような思えないような。そしてその沼のヌシは「人」である。それも祖先たち、死者たち、個としての輪郭はとうに失った、過去の声の残響としてのみ脈動し続ける超個的な「人」である。

つづく

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