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目まいに効用があるとすれば -武田泰淳『目まいのする散歩』を読む

わが家の上の子どもが4月から小学生になった(おめでとう)。

このことを人に話すと「ご自分の小学生の頃のことを思い出すでしょう」などと言われたりする。

あいにく、私自身の小学生の頃の記憶を言葉にするなら、ただただ「体調が悪かった」の一言に尽きるので、楽しいとか楽しくないとか、好きとか嫌いとか、行きたいとか行きたくないとか以前の問題だったように思う。そういうことを感じたり思ったり考えたりする以前に、微妙な脈と、頭痛と目まいでくらくらしているうちに時間が過ぎていったように思う。

いきなり暗く重い話を持ち出してきたな、と思われたかもしれないが、安心してください。今日も明るく軽い話である。

「目まい」といえば、かの武田泰淳氏の『目まいのする散歩』である。

冒頭、別荘地を散歩しているときに目まいにおそわれ「地べたに仰向けに寝」ながら、鳥の羽音を聞く話などはなんだか楽しくて仕方がなくなる。

「発病以来、たしかに自分が別個の自分になったような気がする。めまいなど続けている間に、自分が意識しないうちに変身してしまったにちがいない。だから他人がどう断定しようと、それに反抗しようとしても、反抗それ自体が一種の半恍惚状態のあらわれであるから、変身そのものがとらえどころのないものであるにちがいない。」

武田泰淳著『目まいのする散歩』中公文庫p.24

自分なのに、他人のような、別の自分。

意識しない、意図的でも計画的でも作為的でもない変身。

自分を主張する反抗じたいが半恍惚状態のなかにある。

とらえどころのない変身。

「変身」といえば、何かAが、他の何かBに”なる”ということをイメージするが、その変身が「とらえどころのない」代物であると言う。何が何になったのか、とらえどころがない。何であるとか何でないとか、はっきりとした輪郭を捉えようにも捉えどころがない

自分 / 他人

この二つの事柄のあいだを、「半恍惚」、「変身」が、ひとつにつないでいく。ただしその「ひとつ」は、ひとつなのか、ふたつなのか、いくつなのか、はっきりしない。

ひとつのような、ふたつのような。

はっきりと分けられ隔てられていないという意味で消極的につながっているつながり。

武田泰淳氏が描き出す意味分節の”あわい”


泰淳氏の書くものはこれに限らず、対立する二項、aと非aのあいだの移行、移動、変身、変容のようなことを極めてなまなましく浮かび上がらせるようにおもう

例えば『風媒花』に出てくる次の一節などもそうだ。

河面も川岸も川沿いの建物の壁も、おしなべてねばっこい黒色に変わった。打ち捨てられた蛮人の槍のように、黒い水面はゆったりと、うねりの背を光らせた。夜の河は、古生代からの奸智を蓄えた爬虫類の腹に似ていた。闇から光へ、光から闇へと、街上の人々は流れ動いた。人々の動きは、せからしかった。生命をすりへらすために、先を争っているようにさえ見えた[…]」

武田泰淳『風媒花』講談社文芸文庫p.36

この一節、なかなかすごいと思う。

河面というのはである。液体、流体である。
川岸というのは岸というのだからであり、土の塊とか何か草のようなものが生えているような固体というか非-流体、水と比べたらあまり動かないものであろう。

そしてが、仮にここで泰淳氏が描いている東京の街の中の川ともなれば人工的に構築された堀のようなものとして始まったものだとしても、そこに諸々の有機物の分解の過程を抱え込んだ自然寄りのものだとすれば、「建物」というのはもっと無機質な人工物である。

水/土
動くもの/止まったもの
流体/非-流体
自然/人工
自然的人工/人工的人工
有機的/無機的

これらの対立する二項が、「おしなべて」「ねばっこい黒色に変わった」と書くのである。

ねばっこい”というのがいい。完全に固まってもおらず、サラサラと流れてもおらず。止まってはおらず動いているという感じでもなく。対立する二項の中間というか、どちらでもあってどちらでもない様子をイメージさせる。

さらにこの「ねばっこい」は「打ち捨てられた蛮人の槍」とか、「古生代からの奸智を蓄えた爬虫類の腹」に言い換えられる。

槍というのは人工物である。元々は自然の石だとか木だとかいうものを、人間が打ったり磨いたりして作ったものが「槍」である。この槍が「打ち捨てられる」、つまり人間の手を離れて野良の自然の中に転がされている。「打ち捨てられた蛮人の槍」は、自然と人工、自然と非-自然という二項の対立の、どちらでもあってどちらでもない中間的で両義的なものである。

そして「古生代からの奸智を蓄えた爬虫類の腹」。

これも過去と現在、現に生きている生命と過去に死んだ非-生命といった二項の対立関係を、ひとつに重ねてまとめたような「腹」である。

「腹」は飲み込み、分解する。腹は、「自分」と「他者」を、「食べるもの」と「食べられるもの」をどちらがどちらかわからないような、二のままの一にする容器である。

○ / ○

そういう川のすぐ上を、人間たちが「闇から光へ、光から闇へ」と動く。
闇と光の対立関係も、ここでは二にして一、一にして二の関係に入る。

くろびかり。光のような闇のような。光でもなく闇でもなく。

そしてその有様が「生命をすりへらすために、先を争っている」様子に見える。

生命をすり減らす。

死に向かって生きる、死ぬために生きる、生きることは死に向かうことである、などなどと言い換えたのではおそらく不十分だろう。ここで問われているのは生と死がはっきりと分離し二極に分かれてピン留めされた後に、それではと両極の間を一方から他方へと移動するという話ではないからである。

問題は生と死が二でありながら一、真逆ものとして区別されながらも区別できないという話である。

しかしそうはいっても、人間は生きている。どうしても生と死を分けた上で、この区別がすでに切り分けられていることを前提として、その上で「生」の側に立ってあれこれを眺め、コトバを発する。生死未分などというのもこれまた生きた口から出たコトバであったりする。そこでは対立する二項のあいだのどちらでもあってどちらでもないあり方は「すり減らす」というコトバで形容されるようなものになる。

そうなると、「ねばっこい」ものは「すり減る」のだろうか?

すり減るということは、何かと何か、第一のものと第二のものを密着させて擦り合わせたところで生じる事態であって、二つに分かれていることを前提とした話である。

一方、粘っているものは、ぐにゃぐにゃと形を変える。仮になにか別のものにくっつけたところで、ねばねばと絡みつき、その「腹」の中に飲み込んでしまうのではないか。

そうなると、「粘っこい」と「すり減る」は、これまた対立、一が二になりつつ対立するというふうに読めるかもしれない。

『風媒花』、未読の方も既読の方も、ぜひ手に取っていただきたい一冊である。

水と建物、液体と固体、流動的なものと固定的なもの。
川と壁
水平と垂直
黒と光
闇と光
そして、生命と死

素朴な五感にとってははっきりと区別され対立するように現象する二つの事柄が、二つのまま相互に入れ替わり立ち替わり、そのうち区別できないくらいに一つになりつつ、しかしあくまでもまだ二である。

こういう二者の関係を「相互包摂」ともいう。

同じだけれども違う、違うけれども同じ。同じでもなく異なるでもなく、といったことを、言葉という分節のシステム(=分けた上でつなぐアルゴリズムから発生する構造体)の中に、上に、浮かび上がらせる。

どちらでもあってどちらでもない。

(( )) / ((   ))

理屈や論理で考えてもなかなか「うーん」と唸ってしまう話かもしれないが、例えば「目まい」のような体験を日常的にしていると、このどちらともいえないをリアルに体験できるのである。

日常的に頭痛や目まいに苛まれていると非常に不便であることは言うまでもないが、しかしそれでも、目まいにも、少なくとも私個人にとっては、効用がある。

上に引用した泰淳氏のことばにもあるように、目まいには、二極の間にあいまいな中間状態を作り出す効用がある

身体と精神
肉体と思考
外界についての感覚知覚と内的な感覚知覚
意識と無意識

こういう二項対立関係について考えたり、さらにこれらの対立する二項のどちらでもあってどちらでもないことを考えたりする営みを、ロジカルな言語記号の世界の中だけで遂行しようと思うととても大変なのではないかと思う

しかし、目まいの只中にいると、まさに身体と精神が、思考と肉体が、互いに侵食し合い、包摂しあい、ひとつにはならないものの二つにわかれてもいないという状態を言語以前のところで体感できる(せざるをえない)ことになる。

これを「効用だ」などというと実際に目まいに苛まれている人から怒られるかもしれないが、これこそ「私の個人の感想」であるからそっとしておいていただきたい。なにより私自身、駅のホームで倒れて線路に転がり落ちそうになったこともあるし、目まいと頭痛のせいで激務的な組織で労働に勤しむことができないなど、労働や生活に支障を来していることを理解した上で、それでもなお「効用」だと言いたい。

レヴィ=ストロース氏の難解な文献にぞろぞろと出てくるような「曖昧」とか「中間的」とか「両義的」という言葉にふれて、直感的になんとも言えない親しみを覚えることができたのは、そういうどちらでもあってどちらでもない朦朧としたイメージと感覚の中に、一切の言葉を持たずに閉じ込められているような感じにずっと馴染んでいたからであろう。

半恍惚、頭がくらくらしているから読める。

「難しい本を読むと、頭がくらくらする」とおっしゃる方がいる。

私の場合、最初から頭がくらくらしているので、難しい本を読んでも、普段となにも変わらない。



幸か不幸か、よいことかわるいことか。

幸 / 不幸
||    ||
良い / 悪い
||    ||
目まい = 目まい

どちらにしても、対立させられた二項のうちの「どちらか」を選んで、そこで止まっていなさいナドという類の「問い」(=意味分節して固着せよとの命令)とは無関係に、ただ子どもの私は頭が痛いし、くらくらしていた。

それを「幸」と意味づけることもできただろうし、「不幸」と意味づけることもできただろうが、その意味づけ作業自体がそれこそ泰淳氏の書く「半恍惚状態のあらわれ」なのであるからして、二者のうちどちらを選んで固着すべきかで汲々としてすり減るよりは、どちらでもあってどちらでもないなあ、とやっているのが健康に良さそうである。なにせ、ただでさえすり減っているのだから、なんとか生き延びないといけない。


幸か不幸か、目まいや頭痛は他人が外から見ても分かりにくい

「頭痛なんてだれでもなる」
「緊張すればドキドキするのは当たり前」
「夢を見たんじゃないか」

などという具合に、私は「異常」に対する「正常」の側、「普通でないこと」に対する「普通」の側に充填される。

稀に”分かりやすく”公共空間で倒れたりすると大騒ぎになるのだが、朦朧としながらでもとりあえず歩いて学校まで行き、じっと座っていることができてしまっている限り、特に目立たず時は過ぎていく。

自分自身が最高レベルで体感できるものとしては、不整脈の発作と頭痛と、(あとこれは長じてから他の人にはあまり見えていないらしいと知って驚愕したのだが)いわゆる幻覚ということになるのだろうが、無数の光の粒が明滅しつつ流れる様子をいわゆるリアルな視覚と二重写しに見ることができたりする。

目まいというのは、明晰に自覚できる意識がすーっと遠のいていく瞬間を、日常生活のそこここで体験できる性能ということになる。これは世界の特別限定バージョンを見ているようでなんとも言えない感じがする。

現実と夢、意識と無意識、覚醒と不覚醒。

そういう区別の間の移行をかろうじて保たれている意識の方から眺めることができるというのが目まいの醍醐味である。

もちろん、駅のホームで倒れて線路に落ちそうになったこともあるので呑気に醍醐味だなどと書いている場合ではない。しかしそれでもあえて醍醐味だと言っておく。なんといっても醍醐味か醍醐味でないかの意味分節もまた「半恍惚状態のあらわれ」の中でしか考えられないことなのであるから、どちらでもヨイしどちらでもダメである。

目まいで損をしているが、得もしている。

目まいで損をしているわけでもないが、得をしているわけでもない。

こういうのをテトラレンマというのだと後になって知ることになるわけであります。


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