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慶應SFC自主ゼミ・1960年代の現代美術・ファルス性・ジェンダー論への基礎付け・20220527

このnoteは慶應義塾大学SFCにて自主的に開講されているゼミの記録およびアーカイブです。内容についてはその真偽を保障するものではなく、また、所属する組織の見解を示すものではありません。

はじめに(前回同様)

(前略)自主ゼミは、慶應義塾大学SFCの学生・キュレーターであるwaxogawa(Twitterも@waxogawa)により設立/運営されています(現在は複数の主要メンバーにより運営)。参加条件などは特に設けませんが、現在、以下のような要件を含んでいます。

  • 毎週金曜、13:00〜14:30まで参加できること(オンライン参加も受け付ける)。

  • 広く人文系の視座に興味があること、もしくは人文系の知見に対し、意見を持てること。

  • SFCの学生であること(あくまで対面実施の場合、学校構内に入構できるのはSFCの学生や教員に限られているため、このような要件になっています。UCLAの学生や、休学した学生も受け入れています。他大学から参加希望の場合は、小川にDMをください)。

加えて、noteでの公開は現時点では無償公開ですが、予告なく有償に切り替える場合も想定されています。また、記述方法も模索中のため、後から変更となる場合があります。

前回のサブゼミ

ART SINCE 1900 (60年から69年まで)

今週は3名が都合により休み。また、新規2名受け入れ。

小川:少し遅れてくる人がいるようなので、まあ最初はゆっくりやりましょう。先週の予告通り、ART SINCE(以降、AS)をやります。この本はものすごく量の多い本なのですが…800ページほどありますよね。ざっくり言うと、この本は1900年代からの前衛芸術を取り扱っていて、それぞれの年代ごとに作品やその背景が述べられているという感じになっています。その中でも、今日は1960年代から70年までの章を扱って、その年代の大まかな潮流を把握しよう、という試みをやります。なおかつ、その大まかな理解に加えて、ドゥルーズ・ガタリのファルス概念、もう少し延長してジェンダー論やクィア理論へ踏み込む際の補助線を引いておく。アートという領域で現在の実践を理解する上で、ある程度の力学を基礎付けておくことが重要かなと。とはいえ、一方ではこの基礎力学に囚われすぎてはいけないですよね。そこは踏まえた上で聞いていただけるとありがたいです。

さて、60年代の芸術を扱う上で、ある程度の教科書的理解をしておきましょう。大まかにいって、1950年代の戦後芸術から立脚して、次のような運動や分野が発生してきます。

・SEA(社会参加型アート)
・もの派(ソフトスカルプチュア)
・コンセプチュアルアート
・ミニマリズム
・ハプニング
・フェミニズム

そして、これらの流れに対して、ドゥルーズのファルス概念を挿入していく。というよりはむしろ、そこにファルス概念を透かしみて、統一的に読む、ということでもあるかもしれません。

先週はドゥルーズとベケットの演劇をやりました。補助線としては「消尽したもの」を引いて、というよりそれが主題ではありますが…、そこに「あれであれ、これであれ」の概念を理解していく。その導入として先週の内容をやりました。その延長線上で…とはいえ単純な線形性ではないのですが、このことは後で話します。そして、ドゥルーズのいう「あれであれ、これであれ」は彼の言葉によれば離接的綜合の包括的用法、と言われたりもします。かつ、それはアンリ・ベルクソンの生気論的ホーリズムを汲んでいる、というようなところもありますよね。

かつ、90年代には接続性や関係性、相関性の結節点としての建築が発生してくる。そこで荒川周作の建築があったり。それは内在であり、馴染み、流動する。その内部で、その流動性が作動するような、結節点として場が、公共が機能する。

一方で、ファルス的なものを考えると…そもそもファルスというのはドゥルーズの用いる用語で、男根やその象徴を指します。そのファルス的なるものを建築に見るとなると、「モノらしいモノ」ということになる。環境から浮くことや、例外的なもの…このことは千葉雅也がどこかで言っていたと思います。もう少し踏み込んでいくと、ファルスというのは、特権的に出っ張っているものであり、屹立したものとなる。精神分析的に見ると、ファルスはエロスの集中する特権的な象徴となりますね。空気を読まないこともまた、ファリックなものになる。モノらしいモノ、自らの存在をそのまま屹立させることが、ある意味でファリックな建築ということになるでしょうか。ジョルジュ・アガンベンの「ホモ・サケル」などを参照することも可能と思います。そもそも、ドゥルーズ・ガタリの議論がフロイト=ラカンの脈の中で出てくるということもあり、精神分析の文脈から逃れることはできないですよね。ファルス分析はある意味で、肛門期やそれに準ずるようなものを対象とはする。アプリオリな価値判断、純粋理性判断、そういったものを標榜しながら、ファルスという権力性を考えていく。

さて、現代思想の潮流を…これはあくまで個人的な意見なのですが、現代的にファルスを見ると、「非ファルス的に切断的に一個である」ことを考える。欲望しながら、しかし欲望しない。まさにあれであれ、これであれ、ですよね。一個であることのファルス性、男性器の一個性を無化し、権力性の特権性、集中性、局所性を無化し、一個でありながら同時に多であり、非ファルス的になること。これは先週のベケットの演劇からも読み取れるところがあるかもしれません。消尽すること、ないし、疲弊すること。何かを尽くしながら、それでもまだ何かが残っている。カオス理論的に発散したあとの残滓。非ファルス的に切断的に一個であることは、非ファルス的膨らみ、と言われたりもします。英語だと non-phallic mound となりますね。

で、ここでジャン=リュック・ナンシーを軽く引っ張っていますが、ナンシーが考えようとしている権力性や自由の問題。これもある意味、ファリックな文脈で読めるかもしれない、と思って入れています。これは仮定に過ぎないのと、ファリックな文脈だけにとどまってしまうのも良くないのであまり踏み込みません。

そして、注意しなければならないと考えているのは…ドゥルーズ・ガタリの分裂症の扱い方ですね。精神分析でもある。その文脈で、「あれであれ、これであれ」を読むことと、ファリックに読むこと。あるいはオイディプス的な議論を展開すること。これは、いずれ、いつかは同列に繋がりうると思いますが、まずは軽く分けて考えた方がよい気が…しています。はっきりとはわからないのですが。

加えて、ドゥルーズ・ガタリの扱うラカンの話をざっくりさらうと、後期ラカンでは「例外vs通常」の図式から離れて、男性の式から離れ、女性の式へ向かうことが言われたりしますが…。まあこれは私もよく理解していない、というより正しさを検討していないのであまり踏み込むことはしません。

フェミニズム(フロイトから)

ここで、一応現代のフェミニズム論争を軽くさらっておきましょう。すごく好きなドラマがありまして…ざっくり現代のフェミニズム論争はフロイト=ラカンの流れから議論されることが多い…はず、と思っています。

デスパレートな妻たち、というドラマがありまして。ここでフロイトの批判が出てきます。ブリーという完璧な妻がいまして、料理も掃除も全部手作業でやる。古き良き妻というか。で、こういうセリフがあります。

映像上映。


 I’m sure Freud would not approve of this who cares.

What he thinks I took psychology in college we learned all about Freud a miserable human being

It makes you say that

Think about it. he grew up in the late 1800s there were no appliances back then his mother had to do everything by hand just back-breaking work from sunup to sundown not to mention the countless other sacrifices she probably had to make take care of her family and what does he do he cruised up and becomes famous pedaling a theory that the problem of most adults can be traced back to something awful their mother has done. she must have felt so betrayed he saw how hard she worked he saw what she did for him he even ever think to say thank you?


小川:どういう場面かというと、ブリーが夫と離婚しそうになるタイミングで、カウンセラー、精神分析医に相談する。そこでブリーがカウンセラーの持ち出すフロイトの理論に反駁する、というところですね。フロイトの理論、つまりエディプスコンプレックスの話ですよね。ブリーも主張していますが、most adults can be traced back to something awful their mother has done というところ。成人男性の抱える問題はおおよそ母親の影響によるものだと。今では確かにフロイトの無意識論やこの精神分析のあり方は時代遅れと批判されますが。男子の心的発達はそこに依拠していて、まさに男根一元論的な話だと言われるわけですよね。そこにアンチを呈する形で、アンチ・オイディプスがあったりする。

母親の名もなき労働の上に成り立ったもの、恩恵を甘受しながら、しかし母親を否定する。ブリーはこのことに she must have felt so betrayed he saw how hard she worked he saw what she did for him he even ever think to say thank you? と痛切なセリフを吐きます。

質問:その名もなき労働とフロイト批判のところがうまく噛み合いませんでした。

小川:単純に倫理的な部分もあると思います。掃除や洗濯や…生活を成立させる労働を、なかったことにして、というよりかはその労働を、当たり前のものとしてフロイトは認識している。そういった背景の上で、しかしフロイトは母を批判してしまうというところですね。

質問: 母親の能力の欠如としてフロイトは見てしまう、ってことでしょうか。

小川:食事や寝ること、こうした生命活動維持の基盤が与えられた上で、私たちは発話や表現や思考が可能なわけですよね。そういった基盤を可能にするような母親の労働を見なかったことにしてしまっている、と批判されている。マザコンだ、と批判されたりすることもありますよね。

小川:さて、エディプスコンプレックスの話なのですが、これはシェイクスピアのハムレットにも出てくるモチーフだったりします。Wikipediaの説明ではこうなっていますね。

エディプスコンプレックスとは、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。 フロイトは、この心理状況の中にみられる母親に対する近親相姦的欲望をギリシア悲劇の一つ『オイディプース』(エディプス王)になぞらえ、エディプスコンプレックスと呼んだ(『オイディプス』は知らなかったとはいえ、父王を殺し自分の母親と結婚(親子婚)したという物語である)。

ウィキペディア:エディプスコンプレックス

ある意味、アンビバレントな状況と言えるでしょうか。ハムレットに出てくるこのソネットが好きなんですが…まあここは特に重要ではないですね。興味のある人はぜひ後で見てみてください。

“Who would fardels bear, To grunt and sweat under a weary life, But that the dread of something after death, The undiscovered country, from whose bourn No traveler returns, puzzles the will, And makes us rather bear those ills we have, Than fly to others that we know not of?” (原書の注釈によると、fardels=burdens, bourn=region)

「それでも、この辛い人生の坂道を、不平たらたら、汗水たらしてのぼって行くのも、なんのことはない、ただ死後に一抹の不安が残ればこそ。旅だちしものの、一人としてもどってきたためしのない未知の世界、心の鈍るのも当然、見たこともない他国で知らぬ苦労をするよりは、慣れたこの世の煩いに、こづかれていたほうがまだましという気にもなろう」

シェイクスピア:ハムレット

アンビバレントな状況というのはやはり「あれ」と「これ」の相対から生まれるものですよね。もちろん「あれであれ、これであれ」であるがゆえに、矛盾や葛藤も生まれますが…あれとこれという状況は、やはりジェンダー的です。男性と女性という避けることのできない区別ですね。私たちの声や感情や、それらの源としての生命は、父と母から生まれてくる。男性と女性という生殖機能上の区別、その二項対立の上で、我々が存在する。これを批判すると半出生主義や加速主義に近づいていく、という側面はあるかもしれません。

コメント:あれとこれのジェンダー性、つまり、生殖機能でのあれとこれ、という話があったのですが、バトラーはジェンダートラブルの中で、生殖機能によって区分する方法は古来からの区別方法であるということを唱えていたことを思い出しました。それがいわゆる「あれとこれ」が「ジェンダー的」であることかな、と。人間の差異に対してどこに意味付けを行うのか。そこが重要なポイントなのかなと。

質問:加速主義に近づくというところが飲み込めませんでした。

小川:半出生主義ではないが、近い考えのベクトルというか、態度としては近いものがあるかなと思っています。もちろん言われる内容は違うのですが。性差や思弁的な疑問、形而上学的な疑問をさておき、加速していこう。資本主義を進めてもっと先にいこう。ジェンダーがどうとかの前提を無視して、偏見を考えず、どんどん加速しよう。ということですね。それが歪曲されていくと、どんどん子供作って産んでというものになってしまう。もちろんそれが正しい加速主義の文脈ではないですが。

小川:さて、「あれであれ、これであれ」をジェンダー的に考えるという文脈上で、何があるかということを考えると、高橋龍太郎のネオテニーという用語が浮かんでくるように思います。彼によれば、日本のアートは「ネオテニー」であると。少女っぽい、少年っぽい作品ですね。奈良美智さんの作風なんかはその文脈で読むと「確かに」と思えるところがある気がします。あとは村上隆のcowboyとかですよね。美少女フィギュアのあたりとか。さわひらき、なんかもそうかもしれない。日本のアートシーンを考える上で、確かにこの視点は外せません。フェチズムと言われるようなもの、性癖、これらを考える上でもやはり、ファルスという概念が指向する論調は重要になってくる。

そして、私の感覚として、「あれであれ、これであれ」の展開として、LGBTはありえるが、そのまま読むのは安直ではないかと感じています。もうちょっと非ファルス的に読んで欲しい。そういった論調で批評されることが少ないなあ、と感じています。なかなか由々しき事態ではないか、と。

質問:「あれであれ、これであれ」はどちらかというと、クィアな方向ではないかと思ったのですが。

小川:そうですね。あくまで安直に結びつけている事例として、「あれであれ、これであれ」をLGBTと結び付けている事例を出しています。

小川:そして、これも私の見解なのですが、もしかすると西洋の方が「母−子」の関係性は強いのではないか。文化的にですね。フロイト的な感覚が根強いのではないか。聖書の影響もあるのかもしれません。マタイ福音書だったり…一方で、とはいえ、西洋美術史的に見ると、ファルス概念はかなり重要な位置を占めていて、かつ、ネオテニー的傾向も強かったように思えます。例えば、ダヴィデ像とかですね。いわゆる「クーロス的」な立像に、体毛が見当たらないといったことなど。男性性をそのまま表現するのではなく、ある程度美化された、少年っぽくされた状態で表現される。イコンとしてのヌードですね。綺麗な体、純粋な物質に純粋な魂が宿る、といったような考えがあったのではないかと。いわゆるウィトルウィウス的人体図を想定してもらえるといいかもしれません。女性の裸を描くことも、あくまで神聖性に担保された表現でした。神という存在を描く上で、純粋な物質としての純粋な身体、それが裸であり、ふくよかな肉体であったと。一般女性のヌード表現が出回ってくるのはロココ主義あたりからではないかなと考えているのですが…有名なのはフラゴナールとかですよね。オダリスクもそうなのかな…と思いますが、あれはあれでまた違った読みの方が適切かもしれません。

終戦後芸術から

さて、一気に話を飛ばして、アヴァンギャルド芸術へ入っていきましょう。1960年代の芸術に入る頃ですね。ざっくり言ってしまうと、「物から行為へ」というふうに言える。

1950年以降の芸術、つまり終戦以降の前衛芸術には、「物から行為へ」という主題が少なからず含まれている。それは、やはり戦争というファルス的象徴が影響しているのではないか。戦争という破壊行為、男性の行為、式ですね。ファルスの特権性から生まれてくる破壊行為。こうしたファルス性から逃れ、非ファルス的なものを指向していく。それがモノから行為、ということですね。50年代の芸術ということで…ジャクソンポロック知っている人いますか? かなり有名なのですが。アクションペインティング、ダンシングペイントの代表的な作家です。音楽をかけて、踊りながら絵の具を撒き散らすという行為性で、作品を作っていく。日本のメディアでもよく取り上げられるのですが、安直な解説しかないですよね。本当に悲しくなるのですが…ポロックの絵は平気で5億とか。最高額で200億近い値段で取引されています。

ポロック、『第13番A』、1948

そして、1960年代の芸術へ入っていきましょう。ざっくり分けて、先ほど羅列したようなカテゴリのものがあります。SEAなどが出てきますが、SEA自体は70年代の方が活発な印象があります。アーティストコレクティブのような運動も出つつ、1970年にはミラノ大聖堂の前でヌーヴォーレアリストの団体が男根状彫刻「勝利」を出す。まあ今回はファルスとジェンダー、行為性(パフォーマティヴィティ)に絞って読むので偏りのある読みになりますが…そこはご理解ください。60年代初期にあったものとして、ネオ・アヴァンギャルドのなかに【キネティック彫刻・レディメイド・コラージュ】といった手法を含むことになっていきます。キネティックというのは「動的」ということですね。キネーシスというのが運動を指すギリシア語になります。

そして、クレメント・グリーンバーグが「オールオーバー」という用語でポロックの絵を批評したり、行為の反復性というところに光を当てたりする。ハロルド・ローゼンバーグはこのことを

アヴァンギャルドの専心事項とはもはや芸術を作ることではなく、むしろ自己を開示するような類いの身振り、または「出来事」を遂行することであって、その副産物(絵画)は、芸術家にとっても、観者にとっても、実の所どうでもいい

ハロルド・ローゼンバーグ「アメリカのアクションペインターたち」

と述べたりしています。もちろんこれにもいくつかの反論があったりしますが…グリーンバーグにとっては「芸術とは連綿と続く絵画上の一つの伝統を更新していくことでしかありえない」ということだったりします。

さて、絵画の平坦性というところから、ポップアートという表現が見えてきます。リキテンスタインやウォーホルですね。広告や商業主義、商業的なデザインを標榜しながらアート性を展開していく。ローゼンクイストやジグマー・ポルケなどもこの流れに見ることができます。視覚性というメディウム、広告というメディア、眼の代替。立体感はないですよね。いずれの作風にしても。逆にむしろ、「モノ性」のなかに、どうやってアート性を付与していくかという挑戦でもあります。ファルス的な象徴性、揺るぎがたい視覚への権力性に、どう抗うか。こういった系譜でポップアートを捉えてみると面白いところがあります。一方でやはり、ウォーホルを単なるポップアートとして捉えてはいけないとも思います。ウォーホルの中で有名なのはマリリン・モンローのあの作品だと思いますが、単にメディアと視覚性と、コピー、アウラの欠如、複製、アプロプリエイションとして見るのは乏しい。ウォーホルは交通事故の写真を撮り続けるということをしていますが、そこにある生への眼差しもやはり、抜きにして語ることはできないはずです。戦争というものが奪っていった、ファルス的に良しとされた殺略をポップに、アイロニカルに見つめていく。陳腐な表現で、平坦性をみるとき、その陳腐さや平坦性を単に批判するだけでは捉えきれない豊かさがあるはずです。

そして、60年代前半にハプニングアートが出てきます。路上で突然パフォーマンスをやるとか。そういった感じですね。今日のストリートアートでも参照される文脈かもしれません。このハプニングアートについて、コロンビア大学のアラン・カプロウはこう言っています。

今日の若きアーティストたちには、「私は画家だ」とか「詩人だ」とか「ダンサーだ」とかいう必要はもはやない。単に「アーティスト」なのだ。生の全てが彼らに対して開かれてあるだろう。彼らは普通のモノたちから、普通であることの意味を発見してみせるだろう。

アラン・カプロウ、試論による

公共の空間でのパフォーマティヴィティ。そこにあるのは偶然性とかイベント性ですね。演劇性もはらむところがある。それは「時間の感覚も過去も持たず、クライマックスも終結も欠いていて、反復的で、常に現在に置かれている夢の持つ非論理」とソンタグは指摘しています。

cf:ここで指摘される演劇性や、ハプニングに用いられる小道具は、K・ウォルトンのフィクション理論を参考にしながら言える部分があるかもしれない。人間自体が小道具に成り代わる仮構状況。

オルデンバーグはモンドリアンの文句をユーモラスな仕方で横領して、〈光線銃〉に「普遍的角度」なる称号を冠した。「例:脚、数字の7、ピストル、腕、男根——〈単純光線銃〉。〈二重光線銃〉:十字架、飛行機。〈不条理光線銃〉:ソーダアイス。〈複雑光線銃〉:イス、ベッド」。

オルデンバーグ:『ザ・ストア』

小川:そして、1962年ですね。ジョージ・マチューナスがフルクサスを結成します。この時代の中で一番注目するに値するのではないかと思っているのですが…このフルクサスは、ラテン語のfluereに由来します。絶えず運動する。流動。流れの中で経験する。そういった含意ですね。マチューナス自身はリトアニア出身で、ある意味、リトアニアからの逃走、国家というイデオロギーの破壊や流動という側面も孕んでいる…と考えています。そんなことはどこにも書いていないんですけどね。アンリベルクソンは流動性について「我々は世界を瞬間ごとにではなく、単一の流れの中で、連続的に、音楽を聴くように経験する」といいます。これはなかなか検討の余地がありますね。

cf:音楽に例えるこの論理は、フッサールの「内的時間意識の現象学」にも見られる。それは確かに単一の流れ「縦の志向性」を持つものの、フッサールは「横の志向性」についても触れている点を検討する必要があるだろう。

小川:ここでやはり重要になってくるのは、運動性、パフォーマティヴィティ、流動性ですね。この流れで、ナム・ジュン・パイクや久保田成子、そして草間彌生が見えてきます。移民性というのもここでその影を見ることができるかもしれません。オノヨーコや草間さんなんかは逆輸入型のアーティストですよね。自らの意思でナショナリティを突破し、移動し、流動し、何かを開発していく。トランス=カルチャーの片鱗があると言えるでしょうか。

久保田成子の「ヴァギナ・ペインティング」は非常にクリティカルというか、ショッキングな作品ですよね。ポロックが作り上げたモノから行為へのパフォーマンスに神話をジェンダー性と合わせながら完全に脱構築する。ある意味、ファルスを破壊したポロックのパフォーマンス性、再びそこにファルス性を見出し、それを再び破壊していく。常に権力性は流動しますもんね。それがある意味、芸術の自律性ではある。ダントーのいうようなアートの循環とは少し分けて考える必要があると思いますが。

これはあまり扱われることがほとんどない運動だと思うのですが、ラテンアメリカを中心に、GRAVというグループ、運動が展開されたりします。La condition d’instabilité de la vision、これでGRAVですね。視覚芸術探求グループ、といえばいいでしょうか。この中でもジョエル・スタインなんかは有名かもしれません。GRAVの宣言文を少し見てみましょう。「アートをやめろ、動くな」というショッキングな文章があったりします。アーティストの解体でもあるでしょうか。アーティストと鑑賞者を区別しない、という姿勢がここで成立します。

GRAV, 1965

ある意味で、ジェンダー的な流れを汲むパフォーマンスとは、この「解体」性と近しいところがあるかもしれません。ファルス性・男性の特権性・戦争・ナショナルなもの・強権性。これらを同一地平に見たとき、フルクサスや「あれであれ、これであれ」の姿勢が指向するのは、この権力性を解体し直すことですね。今日のジェンダー論争やクィアな目線が目指すものもこれに近いでしょう。境界線を一旦除去していくということですね。アートという場が、この境界線の「揺らぎ」を体現しているとも言える。主体性と行為、読み手と書き手の境界線が消えていく。それは、参加自体を民主化するということでもあります。参加という行為はすごく強権的ですよね。「する、される」の対立がある。それはパフォーマンスということと、アクティヴィズムの接続でもあります。動くこととのアクション性と、イデオロギーの再構築。

そして、こういった「行為」なるものに主題が移ってくると、精神分析という観点もやはり、逃げることはできません。あるハプニング、出来事、イベントに直面した時どう処理するか、という意味で、精神分析から逃れることはできないわけです。その線上でバタイユやアルトーも読めると。トラウマをどう処理するか、ということですね。

そこで見えてくるもの、「狂気」とでも呼べるでしょうか。狂ったものやグロテスクさ。人間の内面、動物的な部分。それもある意味ファルス的ですよね。一方で、それを過剰に描き出すことで、むしろ浮かび上がってくる人間らしさ。ここでアクティヴィズムと、ミニマリズムが浮かんできます。グロテスクとの対極として、ミニマルな「もの」性が見えてくる。

終戦後、モノから行為へと移ってきながら、やはりモノへと戻ってくる。ファルス的なモノから、ファルス性を脱力させていく。このとき、ミニマリズムは「アートは実用主義的ではない」と主張します。「モノ」であるということそれ自体がプラグマティクスです。銃というオブジェクト、モノは、人を殺すということに役立つ。ミニマリズムにおける銃は、それらを解体し、最低限のモノらしさしか残さない。そこで、ソル・ルウィットは「観念はアートをつくる機械となる」といいます。

そして、ドイツ抽象主義が現れてきます。現れてくる、というよりすでに存在していたような気がしますが。ここでゲオルク・バゼリッツの「台無しになった大いなる夜」を参照しましょう。これ結構重要な絵だと思うのですが、あまり日本語で調べても出てこないんですよね。英語で調べると色々出てきます。男性器を誇張した画面が印象的です。グロテスクな人間性を肥大化させて、人間の形象をむしろ毀損していく。そして、シチュアシオニストやシオニズムの影響か、あるいはベルリンの壁が1961年にできて、それから数年経った状況…ドイツの状況が悪くなってくるわけですね。政治とアートという側面が見えてくる。同性愛なども徐々にアートの俎上に上がってくる。ドイツと政治とHIV、エイズ、何か関連があった記憶があります。

ゲオルク・バゼリッツ『台無しになった大いなる夜』、1962

そして、ヨーゼフ・ボイスが「マルセルデュシャンの沈黙は過大評価されている」という作品を出します。スキャンダラスですよね(笑)。ちなみに、2007年のフィンランド銃乱射事件では「人間性は過大評価されている」という犯行声明があります。別に関係ないか(笑)

2007年11月、フィンランドの18歳の少年、ペッカ=エリック・オーヴェンは、ヘルシンキ近郊の高校でクラスメイトに向けて発砲し、8人を殺害、その後自害した。殺戮に先立ち、彼はyoutubeに動画を投稿していた。その動画に映った彼のTシャツには次のように書かれていた。「ヒューマニティは過大評価されている。」これについて報じたBBCニュースおよびガーディアンの文献をそのまま引用する。

小川, 2020, p. 3

He wrote that he was acting alone and nobody is to blame for his actions. "This is my war: one man's war against humanity, governments and weak-minded masses of the world." 

Wednesday, 7 November 2007 BBC news

Finland's school shooting highlights a link between environmentalism and the rise of a new form of anti-humanist nihilism. (…) Pekka-Eric Auvinen, the 18-year-old Finn who shot seven of his fellow pupils, his headmistress and then himself in a school in southern Finland last week. Maybe that's because Auvinen was not acting out some bizarre Die Hard-style fantasy, but rather seems to have fancied himself as the armed wing of contemporary environmentalism

BBC News

小川:そして、ウォーホルは「僕は機械になりたい」といいます。これ有名ですよね。交通事故の写真を撮ったり、犯罪者の写真を撮ったり。単なるポップアートの文脈だけではないところ、生死が過剰に引き伸ばされる空間で、自分の存在をどう置くかということを考えている。本当にすごいことですよね。今日でこそ、報道番組やSNS上で生死は引き伸ばされているけれど、この時代でそのことを予見するという。

次にソフトスカルプチュアです。柔らかい彫刻。ルイーズ・ブルジョワの作品では、ラテックスを使った男性器的彫刻があります。ファルス的な表現。従来のモノ的彫刻では、まさに大理石なんかを使っていたが、ソフトスカルプチュアでは、流動する柔らかい物体を用いて、モノでありながらモノ性を崩していくオルタナ性を押し出していく。そこで草間彌生の「ファルスの野」という作品が見えてきます。

草間彌生、「ファルスの野」、1965

小川:1960年代後半になってくると、建築も出始めますね。あまりここは踏み込みません。ジョルジュ・デ・キリコとか、マリオ・メルツとか。いいですよね。マリオメルツの作品好きなんですよね。1970年代に入るとよりSEAの流れが強くなってきますが…今回はアートの潮流に、ファルス的なものを読み解いて、フェミニズムへ導入する基礎付けを作ってみました。他にも多くの読みがありますが、今回はこの辺で止めましょう!

雑談

コメント:近代的なものをドゥルーズ的なリゾーム概念で捉えることの可能性というか。精神分析、ポスト近代の難しさを感じました。男性的な権力構造では、個別具体的な生を把握しきれない。エディプス・コンプレックスで説明しきれない。分裂したまま受け入れるということかなと。

コメント:森美術館のアナザーエナジー展を思い出しました。作っていた当時は評価されておらず、やっとこの時代になって正当な評価がされたという話が重なりました。個人主義というよりはだれかと関わりを持つことの重要性を感じました。

小川:1980年を超えてくると、アーティストコレクティブの流れへもメインストリームになってきますよね。それは大事ですね。東浩紀は「弱い繋がり」の中で、社会的に接続しつつも現実のものとして見ない、みたいなことを言っています。その状況で次を考える、と。

質問:千葉雅也の「動き過ぎてはいけない」にも重なりますか?

小川:そうですね。とはいえ、私は東浩紀の主張をそのまま受け入れることはできません。むしろ、つながり過ぎていることを否定してはいけない。過剰なつながりであるがゆえに、何か可能なものもあるはずです。相互監視、パノプティコンなのだけれど、それでも何か可能な声があると思っています。実際、「弱い繋がり」は、マーク・グラノヴェッターの論文を焼き直しているだけではという批判もある気がします。

小川:ちなみに、弱いつながりを考える上で、「プルーラル」な視線は考えなきゃいけないと思うのですが…長谷川裕子は、21世紀美術館の研究紀要のなかで、ミュージアムはプルーラルなものを受け入れるべきだ、というようなことを言っていたと思います。21美の構造は円形の構造ですが、あの円形のミュージアムは、ある意味でプルーラルなものを受け入れる姿勢の表象でもある。四角いミュージアム、従来の箱は、それ自体がファリックなんですよね。どこから入ってもいいし、どこから出てもいい。行為自体の重なり合いを増幅すると。その意味で、現代的なミュージアムはもはや建築にとどまらない。公共性や都市というものがミュージアムなる場に翻案されていく。



来週の話

来週は今後の自主ゼミの方向性を話し合う。それ以降、メルロポンティやソンタグの反解釈を読む。

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