2022年上半期・声にならない声・このnoteを読んでくれる人たちへ

今回のnoteは

かなりスピリチュアルな内容になってしまうかもしれない。とはいえ、それも自分の本心であることに変わりはないので、たまにはこういうnoteもいいだろうかと思う。

四柱推命をしたことがある人はいるだろうか。私はそういう類のもの(理詰めの占い)はかなり好きで、ホロスコープや命式を見て、時々自分自身を占ったりする(なお、頼まれても占いません。人生相談は受け付けます)。四柱推命の本があるのだが、これが広辞苑並みに分厚い。面白いですよ。

2022年上半期について(私の場合)

さて、この2022年上半期についてである。6月も中旬に入ろうとしている。激動の…と言いたくなるが、私の人生はいつも激動なので今に始まったことではない。振り返ってみて思う、2021年の荒れ狂う情緒の波について。私の性質として、「0か100か」というところがある。ある日は常人の7倍ぐらいの仕事をやったかと思えば、ある日は20時間ぐらい寝ていたりする。過去最高睡眠時間は27時間でした。体感では4時間ぐらい寝たつもりが、1日以上寝ていて心底驚いた。

そんな不安定な波に揉まれて、一方では「いつも揺らがない」外見を得た気がしている。いつも概ね30点のテンション。心の中では「今日まじ最悪な天気すぎんだけど、耐えらんないまじ無理…よくみんな正気でいるね、ってかあそこにいるオタクくんの服きしょいな…」とかずっとギャルが叫んでいるが、外には絶対に出さない。髪色も一瞬で変えたいし明日は坊主で明後日はロングになりたい。

自分の不安定さを思うとき、いつも自分自身の出自について考える。生まれ持ったものについて。いつまで経っても、このことを我がごととして書けない。私自身を、私自身の歴史として、経験として語るためには、私は私を手放さなければならないのだ。震災の記憶や、トラウマや、虐待や、いじめ、こうしたものたちを語るためには、かつてあった自己を、一度埋葬しなければならないのだ。亡霊のように彷徨っている記憶を、いつまでも悲しい愛すべき林檎たちを。

かつ、マイノリティという境遇は、あまりにマイノリティすぎると語る声を失う。私自身をどこに位置付けて良いかわからないからだ。単に障害を持つだけならば、一般化=個別具体化の緩やかなレベルの中で、ある心地よいレベルを探り出せばよいのだけれど、その障害と克服の過程が(同時に、トラウマからの治癒でもある)、あまりにも特殊すぎると、もはや語る声が存在しなくなる。それは、私しか語れないということの先鋭化だ。地球上のどこをどう探しても、私しかいないとき、私は茫然と立ち尽くすしかない。砂漠の上で墜落した王子様も、こんな気分だったのだと思う。私の声が全て全て、私自身を執拗に指し示してしまうとき、私は一体何を語ればいいのか? 当事者としてではなく、世界の経験者として語ることすら、当事者性に引き戻されてしまう。不遇性は吃音になる。途切れ途切れの声、曖昧な声、判然としない声。私は私の声をしっかりと見届けないといけない。マイノリティ・マジョリティの論、ジェンダー論、クィア理論…それらを振りかざす人が決まって欠落させている眼差しは、ここにある。彼らは「辛かったら声をあげて」と言う。その声が、声になることの困難さを、知っているのか。発話行為はもはや権力で、マイノリティは常に権力を消尽させている。疲弊しきっていて、茫然自失としていて、飢えていて、ギリギリのところで踏みとどまっている。そんな私たちに/彼らに/あなたたちに、よくも「声を聞かせて」などと言える。あなたたちが聞きたいのは私の声ではなく、「あなたによって引き摺り出された内臓の叫び声」だ。それを嬉々として聞き取り、「ほらやっぱり苦しいでしょ?」と喜ぶ。私たちがほんの少しでも、健常の様子を見せるとすぐに不満がり、「あなたが普通に生きているのは面白くない」という。

とはいえ、やはりそこに「正しい暴力」というものはあって、不平不満たらたらのマイノリティに対して「何もしない」ことも、違う。正しい暴力で、マイノリティを痛めつけなければならない。私たちはそのことを、わかっている。マイノリティである以上、私たちは太陽のもとに晒されて、その生っ白い皮膚を糜爛させなければならない。そうしてはじめて、皮膚は回復の途を辿るのだ。インスタレーションはその実、暴力装置である。ある部屋や経験の場に鑑賞者を閉じ込めて、暴力的に鑑賞させる。ホワイトキューブの壁の白さ、歯科医院の壁、閉鎖病棟の床、wordの入力画面の白さ、A4用紙の紙の色。これらはその意味で並列になる。

透明なもの、不透明なもの。マイノリティの声は個別具体的で、不透明になる。半透明なエクリチュール…。

最近の夢として、「どこかへ行く」内容が多い。放浪を望んでいるのだろうか。確かに海にのぼる朝日は美しい。未明の色。行きたい国も、行きたい場所も多い。私の魂はパリやベルンやウィーンやヘルシンキの方が、よほど親しいのではないかと思う。NHKのトラムの旅を見ていると、胸が締め付けられる。その点、韓国ドラマはいい。程よい旅愁や隔世の感があって、「ちょっと銀座三越に行ってくる」ぐらいの気概で観ることができる。これがフランス映画になってくると「私はいつでもセーヌ川に飛び込めます」ぐらいの気概でないと観れない。セーヌ川に行ったこともないのに。

逃げない、でも休む

でも、逃げない。2021年が怒涛の年で、あらゆるものを直視しすぎた年だったとすれば、2022年はある意味で「馴化」の年でもある。酸いも甘いも喉元過ぎれば美味しい。そして、いい意味で図々しくなっていく。この「図々しさ」は2年前から自分の中に掲げているテーマではあるのだが、それを着実に身に付けていく。私は私の出自や特殊な経験ゆえに、自分のことを「控えめな人間だ」と思っていたけれど、実はそうでもないことがよくわかってきた。意外と図々しいし、意外と活動的な人間だと最近は思う。社交的になる場が少なかっただけで、本来は相当に社交的な人間だったのだと思う。

とはいえ、その非社交性ゆえに獲得したスキルも多いので、「今年からはバチバチに外に出て行きます」というわけにはいかない。程よく、自分が疲弊しない範囲内で、外に出ていく。輝かしいステージを、取り戻していく。輝くことに、慣れていく。そのために必要な努力や忍耐は、耐え抜く。人一倍どころではない努力で、成し遂げていきたい。というか、人一倍では大概の物事は突出できない時代を生きている。それは私だけの問題ではなく、世界全体の傾向としてそうだと思う。ゆえに、ヒュッゲが羨ましく思えたり、丁寧な暮らしに憧れる人が増えるのだろう。人々がみな、何かの卓越者になることが求められている。息苦しい時代ではある。

マヤ・ルンデの「蜜蜂」という本がある。比較的新しい本だ。この本を読むと、椎名林檎の「閃光少女」を丹念に引き伸ばした印象を受ける。いま・ここが限りなく絶頂で、幸せになるには今を憂うより今を楽しむしかないのだと思う。SFやスペキュラティブデザインが煽るべきは未来への思索以上に、今を生きることの意義を見出す勇気を与えることだ。確かに息苦しく、どうしようもない今を生きているのだけれど、でもやはり、どう考えても私は私のいる今を、生き抜くしかないのだ。それは快楽主義ではないし、シニシズムからの脱却でもない。ただ、そうであるだけなのだ。痛みを痛みとして知覚するのに必要なのは、ほんの少しの勇気だけだ。覚悟や勇気、それらがゆっくりと押し広げてゆく痛みの波紋を、浸透してゆくアレルギーを。

だからこそ、しっかり見つめていく。嫌なものも、好きなものも引っくるめて、一つ一つを剪定(選定)していく。無理なものは無理と言えるようになること。疲弊しきるまで全てを見ることはしなくていいけれど、そういう作業をやっていく。そんな半年間だったと思う。そして、薄々予感はしている。2023年はきっと、ある種の休息というか、初心へ戻る年になるだろうと思っている。もちろん、やるべきことは全力でやっていきながらも、どこか余裕のある息遣いを手に入れていく年になるのだと思う(早ければ2022年10月以降から、そんな雰囲気があるかもしれない)。今年のクリスマスはいい予感も、悪い予感もある(2019〜2021年は概ね悪い予感があった)。

そのためにもやはり、私には「書くこと」が大事になってくる。noteにつらつらと書いている暇があったら休めよ、とか、仕事しろよ、と思うかもしれないが、私にとって書くことは休息の時間でもあり、次へ進むための整理時間でもある。とはいえ、書くことに時間を割きすぎると、それはそれで支障があるので、不必要に書きすぎないこと。声を全て届ける必要はないし、比較的控えめに話していても十分に伝わるようになってきたから。語りすぎない勇気、とでもいえるだろうか。

加えて、身体的にも休息していかないといけない。それは2021年のような静的休息ではなく、動的休息。歩いて休まるとか、ストレッチをして休めるとか、そういったこと。ダイナミックに休んでいくことが重要になってくる。凝り固まりすぎないように、いつでもすぐに走れるように。

こういった感覚で日々を過ごしていくと、どうしてもお金の動きも、精神的なアップダウンも激しくなってしまうのだけど、ここで使い果たすものは、あらかじめ決められた浪費であるような気がする。何も間違ったことはしていなくて、なぜなら、カンカン照りの太陽のもとで、確実に選びとっているから。これが洞窟の中だと、間違ったものに大量のエネルギーを使い果たしてしまうこともあるけれど、今はそういった疲弊はあまりしない。することのない星回りになっていると思う。悩みすぎないこと。悩むことも美徳だけれど、過剰に悩まない。悩むよりはGOしていきたい。

読んでくれている人へ

これは一般論というか、私自身の整理のためだけでなく、このnoteを読んでくれている名もなき読者のために・知り合いのために・気にかけている人のために書くことなのだけれど、《どうしても合わない》人というのは確実にいる。それは実に様々なレベルで判断されるし、匂いや外見や雰囲気や言葉や声や…そういったもので第一印象から拒絶してしまうことはある。

これに対して、〈それでも声をかけていく〉ことが必要な人と、〈距離をしっかり取っていく〉ことが必要な人がいる。私は前者の方だ。私「嫌でも話しかけて、掴めるチャンスは全部取っていく」ことが必要な星回りになってきている。この差は人によって程度の差はあるし、どちらも必要だと言われればそうなのだが、意識するかしないかによって多少なり流れ方は違ってくると思う。このnoteを読んでくれている人にはぜひ、軽くでいいので自分はどちらなのか考えてみてほしい。不用意に自分や他者を傷つけることが減るように。

今、全体的に流れが早くて、疲れている人も多いと思う。情報についていけないとか、人付き合いに疲れたとか、将来のことを考えすぎないといけないとか(考えるだけではダメで、悩まないといけない人へ)、環境の変化が激しいとか。これは私の周りの話なので、私に関係ない人にとっては「そうでもないけどな」と思うかもしれない。私は存外に人のことを観察してしまうタイプなので、こういう書き方になっているけれど、そこは許してほしい。

こればかりはどうしようもなくて、全体的に今、ある複数の流れに分岐するために大きな主流に統合されていく時期という感覚がある。そこではやはり情報が錯綜するし、自分の立ち位置がわからなくなってしまうことがある。ゴウゴウと音を立てて流れる中で、揺るがない人のことが、羨ましく思えることもあるだろう。でもそれは、ある意味でノスタルジーというか、過去の栄光を羨ましく思うことと同じだと思う。生成変化していくことについていけない人は、そこで立ち止まることしかできないから。本当に優れた才能はもはや普通なのだ。周囲に馴染み、うまく取り込み、そこで細胞の一つ一つを全部作り直していくような人が、次の時代でうまく生き残っていけるのだと思う。だから、そういう人を羨ましく思う必要はない。彼らの持っているものは、一瞬で瓦解してしまう。

大きな流れの中で、何かに対して祈りたくなってしまうけれど、その祈る力を前に進む力に変えていくこと。むしろ、祈りながら進むこととでも言えるだろうか。日曜のミサという概念があるけれど、その「日曜」がゆっくりと溶け始めて、かつ教会という場もまた、流動していく感覚。お願いです神様、と言いながら、でも確実に一つのことをこなしていく。

祈ることの持つ余白や、余裕も大事だからこそ、その感覚を手放さないように。非人間的なものがどんどん増えていくからこそ。立ち止まるとき、自分がどの方向に流されていたのか、しっかり考えてみてほしい。立ち止まっていても、常にどこかに流れているから。

そして、連絡を取るべき人を見定めること。これは特に私の場合なのだけど、〈それでも声をかけていく〉ことが必要な人こそ、本当に丁寧な声をかけるべき人を見定めないといけない。丁寧な声はときに、沈黙になってしまう。それでもいいから、沈黙すべき人に、「私は沈黙しているよ」と伝えること。色んな人が不安定になりがちだから、しっかりと「私はあなたのことを気にかけているよ」と伝えることが重要になる。けれど、覚えていてほしい、この作業ができる人は少ない。余裕のないときはそんなことをやっている暇はないし、余裕があったからといってできることでもない。少ないがゆえに、この気遣いができるときはほんの少しでいいから、温もりを分けることが大切になる。きっとその温もりは、あなた自身をも温めうるから。

それでもやっぱり・離れること

「逃げない、でも休む」ことは、想像以上に大変なことだと思う(思うし、実際にすごく大変)。逃げたくなることはたくさんあるし、逃げるべきタイミングも多々ある。そのとき、逃げることに言い訳はいらない。むしろ、言い訳をせずに逃げることの方が、よほど大事かもしれない。相手に付け入る隙を与えないように、シャットアウトしていくことも、時には必要だろう。

そんなとき、「この人は自分から逃げないだろう」と思う人のことを思い出してみてほしい。その人に頼ることはしなくてもいいけれど、思い出すことで救われることもきっと、あると思うから。

言い訳をしないで逃げることは、物理的なことだけではない。髪を染めたり(色を抜いたり)、服を変えたり、物を捨てたり、環境を変えたり。そういう些細な抵抗で、気を抜くこともできるはず。

おわりに

何かと息苦しいことが多いけれど、おざなりになりすぎないように気を張っていくことが必要な半年だったと思う。それは私だけでなく、皆さんにとっても。自分のために書いたようなところもあり、誰かに向けてのメッセージのようになったところも多くあった。これはこれでいいと思うし、また半年後にやってみたい。反応が良ければもう少し更新頻度を高めてもいきたい。

声にならない声。どうしようもないときは、どうしようもないことを受け入れること。無理に何かを強要するのではなく、その状態を受け入れること。そんな気持ちで書いている。必ずしも何かの反省を迫るものではないから、このnoteは特に気にしないでほしい。

どこかもっと大事なところでも間違えてしまうかもしれない。でも、僕が悪いのではない。僕の友だちは何も説明してくれなかったのだから。たぶん僕も自分に似ていると思っていたのだろう。けれども、残念なことに、僕には箱の中のヒツジを見る目がない。たぶん、僕は少し大人たちに似ているのだろう。そうなる必要があったのだ。

サン=テグジュペリ、『星の王子さま』

もし誰かがある花を愛していて、何百万もの星の中でたった1輪だけ花を咲かせる としたら、星空を見上げるだけでその人はしあわせになれるんだ。その人は『どこか の星には、自分の愛する花があるんだ ・・・』と思えるから。

ibid.


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