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中庸だからではなく、自由だからだ・日記的なるもの・未明の亡霊

日記のようなもの。ここ最近の好調について。

緑が濃い。夏は嫌いなのだけど、妙に今年の夏は自分に合っているような気がしている。屋外ではマスクを外すことも認められるようになって、横断歩道を渡るときなど、名も無き人の表情を認めることが増えてきた。正常さ。

正しさ。どこにも担保されることはないのだけれど、それらを闇雲に信じてやまない。アカデミックな分野に進むこと、研究者を志すことは一見、真っ当な進路のように見えるけれど、実際にはお笑い芸人やフリーランスや露天商人と何ら変わりない。ただ、商売するものが知識になるだけだ。だから、机に齧り付いていたオタクくんが救われる場所でもない。むしろ、全く逆ですらあると思う。何もできないのだけど、奇跡的に頭がよかったオタクくんほど、悲惨なことになるのではないか。そもそも、日本の義務教育で測られる「正しさ」は「どれだけ正確に覚えているか」ということでしかない。

いい大学に行ったね、というひと。その「よさ」は、単に就職に有利なだけなのだろうと思う。就職したいのなら、就職専門予備校を作った方がいいと思う。大学の中にも「普通学部」と「それ以外」があって、「普通学部」は就職専門の授業をやる。学部編入も可能だけど、論文試験や口述試験があるとか。KO普通学部は基本的に有名ゼネコン、商社、出版、放送に行くとか。

変にエリート意識を持ってしまうこと。「いい大学」と褒めそやされるところへ入るのだという自意識が産んでしまったモンスターを所々で見かける。

アカデミックないし、アートの領域で覚悟を持つならば、「知識」を持っていることの「よさ」を完全に捨て去らねばならないだろう。知識は何の役にも立たない(役に立つのだけれど)。あって当たり前だ。かつ、エリートであることは、クソの役にも立たない(これは本当に役立たない)。

微妙に「個性」を重んじる方向性になりつつあるゆえに、本当に微妙な個性を持った人たちが多くいる。本人はそれを強い個性だと信じてやまない。自分たちを現代の三島由紀夫だと信じてやまない。本当に強い個性は、むしろ平凡に見える。あらゆる可能性を踏まえた上で、異常になっている。江國香織の言葉に「中庸だからではなく、自由だからだ」というところがある。文脈は全く違うけれど。そして、椎名林檎は「自由を手にした僕らはグレー」という。

空はもう青くないが、まだ十分にあかるい。ここにきて、たいして時間はたっていないだろう。その短さを、知りたくはなかった。(江國香織、サマーブランケット)

最近のこと。もう悩むことに飽きた。心の中に悩みの予備校講師がいる。「わかるよ、そこ悩むポイントだよね。じゃあ次行こうか」。このようにして、悩むことに飽きた。もういい。時折怒りが込み上げるが、もういい。自分にとって、これはもう亡霊と言ってもよい言葉で、「他人は変えられない、変えられるのは自分だけ」と言い聞かせている。どれだけ言い聞かせようとも、どれだけ声を尽くそうとも、人は変わらない。結局、その人が真に思い知り、真に行為を変えようとするのは、その人自身の判断次第なのだから。私は、可能な限り、彼らにも声を尽くしはするけれど、それは実のところ、自分自身のために他ならない。自分のために尽くしもできない人が、他人を動かせるだろうか。自分を満たすこともできない人が、他人を満たせるだろうか。母は子に無償の愛を注ぐのではない。子が母に、無償の愛を注いでいるのだ。

亡霊はまだ未明の空を漂う。時折想起する明け方の交差点や、清潔な海や、洗い立てのベッドシーツや、旅先のホテルなど。

匂い。人に会うことが増えて、マスク越しに匂いを感じることが増えた。香水の匂いの奥にある、その人の匂い。かつて、私にとって、人の判断材料に匂いは欠かせない要素だった。この2年間で、匂いは親密さの表象になってしまった。唇と匂いと。感染症によって進んだ秘匿が、同時にセクシュアリティさをも孕む部分だったと思い知る。同時に、もはやセクシュアリティなど不要の長物とも思い知る。その人が生物学上に男であれ女であれ、きちんと声を届けさえすればいいのに、生物学上の区別に従って、声が変質する。私は、変質しない声を持ちたい。透明な声ではなく、むしろ不透明の、しかし透徹した声を。

視線。投げかけられる権力。監視。しかし、リアルな視線は「私はあなたのことを監視しないよ」ということですら、ありうる。何が違うのだろう。私は確かに、あたたかな気持ちを込めて、視線の代替として「いいね」をしたはずなのに、それが「監視」になってしまう。私はあなたの投稿の真意を知ることはないのだけど、でも私はあなたの存在そのものを愛しているゆえに、視線を投げかけるよ、ということ。どうかすこやかでいてほしいから、祈るしかないのだけど、でもその祈りがいつかあなたの前途を確かなものにしますように。

未来。私が何もしなくても、きっと幸せをみずから探り出す人がいる。というより、詩的な行為や祈りや声なくとも、幸せになれる人がいる。彼らに対して、私は何もしない。引き込みすぎない、というべきだろうか。彼らにとって、アートは単なる休息や遊びや娯楽や趣味であって、精神を摩耗させるものではない。鑑賞者たることを望んでいる人たちに、プレイヤーになれとは言えない。それは残酷すぎる。鑑賞することは、美しい。透明。干渉することは、どうだろうか。少なくとも、透明な干渉はない。それまで透明だった関係性に濁りを挿入することで、より親密になることもあるが、それは責任を伴う。ゆえに、愛はもはや不透明で、固体ですらあるのだ。固体をしっかりと握りしめるとき、手のひらや肉体や皮膚に刻みつけられる痕。愛はむしろ、痛みで、固体たる不透明さをしっかりと抱きしめることですらある。思惟は永遠に伝わらないが、その不遇性や不能性を抱き締めること。それでもいいから、それでもいいから……

服。ダニエルリーのクリエイションを買った。パドルを買うつもりだったけれど、ストライドにした。パデットカセットについてはまだ流通がありそうなので期待している。そろそろ23ssも見えてくる頃だろうか? 服を褒められることも増えてきた。お世辞にも顔は褒められたものではないと思っているので、せめて服だけでも褒めてもらえると嬉しい。素直に。ようやく審美眼(と言えそうな怪しい何か)が身についてきたように思えている。ファッションエディターになるつもりはないけれど、VogueやELLEなどでコラムなどを持てたらいいな、と思っている。これは20代のうちに実現するつもりもないし、そこまでの知識もない。いつかは。

食事。ミントティーを買う。今年こそは。そろそろ燻製茶や春積みのものも出回ってくる頃だろう。いつも贔屓にしているお店で店主と歓談しながらお茶を選ぶあの時間が本当に好きだ。やはり、自分にとって高潔さは欠かせないものと思う。あの店や、周辺のものに足を踏み込むとき、確かに多少の緊張感はある。美術館やギャラリーも本来、そういう場だとは思う。全身が、思想が値踏みされているかのような強力な権力性と視線の場で。あの清々しい緑色の飲み物を。そういえば、ジャン・シャルル=ロシューのチョコレートも買いたい季節だ。緑も濃いのだし、梅雨が明けた頃にお伺いしよう。

いつのまにか、私たちは随分ちがう場所に来たけれど、旅はまだ続いていること、たった一杯のココアですべては簡単にあの頃に戻ること、を、私はちゃんと知っている。(江國香織)



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