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慶応SFC自主ゼミ・ドゥルーズ/ベケットの「幽霊トリオ」上映・20220520

このnoteは慶應義塾大学SFCにて自主的に開講されているゼミの記録およびアーカイブです。内容についてはその真偽を保障するものではなく、また、所属する組織の見解を示すものではありません。

はじめに

この自主ゼミは、2021年春に設立された、脇田玲研究室の「現代アートサブゼミ」が前身となっています。設立当初のメンバーは、筆者(@waxogawa)を含む3名で、現代アートの理論と実践の両軸を根底に据え、理論的な理解とコンセプトやドローイングなどの実践による包括的な現代アート理解を進めるものでした。2022年現在、メンバーは(非アクティブメンバーを含む)11名となっています。慶應義塾大学の授業形態が正式に対面推奨に切り替わったタイミングで、サブゼミは脇田玲研究室所属の学生だけでなく、広く人文系を志す学生を受け入れ、対面で実施することにしました。

また、自主ゼミは、慶應義塾大学SFCの学生・キュレーターであるwaxogawa(Twitterも@waxogawa)により設立/運営されています(現在は複数の主要メンバーにより運営)。参加条件などは特に設けませんが、現在、以下のような要件を含んでいます。

  • 毎週金曜、13:00〜14:30まで参加できること(オンライン参加も受け付ける)。

  • 広く人文系の視座に興味があること、もしくは人文系の知見に対し、意見を持てること。

  • SFCの学生であること(あくまで対面実施の場合、学校構内に入構できるのはSFCの学生や教員に限られているため、このような要件になっています。UCLAの学生や、休学した学生も受け入れています。他大学から参加希望の場合は、小川にDMをください)。

加えて、noteでの公開は現時点では無償公開ですが、予告なく有償に切り替える場合も想定されています。また、記述方法も模索中のため、後から変更となる場合があります。

ドゥルーズ/ベケットの演劇「幽霊トリオ」

小川:12:30〜教室入り。機材の調整中。zoomの立ち上げ、プロジェクターの確認や音声のチェック。

自主ゼミ参加学生がやおら集合。

小川:今週(2022年5月20日)は、サブゼミ第5回、前回予告通り、ドゥルーズとベケットの演劇を上映します。映像作品自体が30分ほどありまして、その台本はslackの方にすでにアップロードしています。日本語訳のものを持ってきたので、特に表層の理解について難しいところはないかと思いますが。ドゥルーズ自体はフランス語で書かれることが多いと思いますが、演劇での上映言語は英語です。今回slackにあげたものは「幽霊トリオ」「クアッド」、そしてドゥルーズの「消尽したもの」ですね。
映像自体は割とインターネット上で見つけやすいので、後からゆっくり見てもらっても大丈夫です。

cf:映像

補足:ベケットはアイルランド出身の劇作家、ウジェーヌ・イヨネスコと同列に、20世紀フランスを代表する劇作家。1969年にはノーベル文学賞を受賞。

演劇上映開始。プロジェクターから壁面に投影。学生がブラインドを閉める。

演劇上映。約30分間。but the clouds…(雲のように…)は省略。

小川:さて、教科書的な理解というか、論文などを扱う前にちょっと感想だけ聞いておきましょうか。一人2分ぐらいでざっくり印象や感想などを話してもらえると(感想は部分的に省略)。

マイクを渡す(オンラインにいる人にも聞こえるように)。

学生①:感想ですか。(…)身体と運動、映像として撮られた行為に対する視線だったり。そういったものを感じました。
学生②:正直にいって、「なんだこれは?」という印象です。
学生③:文学的な態度を感じました。

ベケットの動的静止について

小川:ありがとうございます。まあ正直にいってよくわからない部分が多いと思います。まあ、小川もよくわかっていない部分が多いので、一緒にやっていきましょう。まず、この演劇なのですが、上演自体は1977年。お渡しした台本は1994年に刊行と思いますが。そのあたりの時代ですね。ベケットの中でも後期の作品に位置するのではないかと。
加えて、slackの方にいま、いくつか論文を貼っておきました。ベケットの演劇についての論文です。ただ、一個だけslackに掲載できていない論文があるので…これは後からやりましょう。
そして、「消尽したもの」ですね、これが1994年、ここにベケットのビデオ演劇の台本が掲載されていると。作品自体は1994年より前のものですが、刊行自体がそういう時代になっています。また、ドゥルーズがどこに絡んでくるのか、ということなんですが、作品自体ではなく「消尽したもの」というタイトルで文を書いている。これが掲載されており、それを含んだ一冊の本になっているということですね。アンチ・オイディプスやミルプラトーなんかは1990年ぐらいに(日本語版が)出ますが(原本は1970年〜80年)、ドゥルーズにとってはその時期のものということになります。

小川:論文の方を確認しましょう。そんなにニッチなものでもなく、ネットで探せば上位でヒットするものです。一つはベケットの「うごめく静止」についての論文。一つはベケットの姿勢についての論文、最後にドゥルーズとベケットを扱っている論文ですね。

https://researchmap.jp/naoyamori/published_papers/32544191/attachment_file.pdf

https://core.ac.uk/download/pdf/236361641.pdf

小川:まず、姿勢の方から入っていきましょうか。かなり特徴的な映像だったと思います。不穏な雰囲気ですし。モノクロで、ナレーションがかなり怖い。英語でRepeat. Stop.とかがかなりクリティカルな声(物々しい言い方)で言われる。そして、ここですね。ベケット作品に特徴的な姿勢と言われているのですが、猫背で、前に屈んだような姿勢が出てくる。

この姿勢のことを「不調和にずれている」と言ったりする人がいますが。座ること、これ自体は休息、安息の姿勢ですよね。ちょっと疲れたから座る、ちょっと寄り掛かる、みたいなレベルで。この「疲れる」こと、疲労、これも今回の作品の中で重要なポイントになってきますが…例えば「モロイ」では主人公のモロイが片足が硬直してしまって座れなくなる。安息ではあっても、そこに何かそうでないものが付随してくる。疲れ切っていて、何か切実な、痛ましい在り方というものが見えてくる。

また、ベケットに特有のものですが、運動と静止、その中間状態というものがあります。まあドゥルーズガタリも言おうとしているところに近いかなと。全体的に間延びした印象のカメラワーク、というより画の印象がありますよね。このことを論文では「うごめく静止」という風に表現されています。この論文ではライプニッツとゲーリンクスを参照しながら、ベケット特有の運動感覚、静止感覚を捉えようとする。確かにそうとも見えるところはありつつ、もうちょっとスピノザを参照しても良いのでは?と思わなくもないですが。

そして、ここでベケット自身の言葉がありますね。そのまま読み上げてみましょう。

この息づきあえぐ色についていったいどう言えばよいのか? このうごめく静止(cette stase grouillante)について? ここではすべてが動き、泳ぎ、逃げ、戻り、崩れ、ふたたび形作られる。すべてがやむことなくやむ。まるで分子が反乱を起こし、風解する千分の一秒前の石の内部のようだ。(Beckett, 1989)

Beckett, Le monde et le pantalon, 35。ベケット「ヴァン・ヴェルデ兄弟の絵画、あるいは世界とズボン」(ベ ケット『ジョイス論/プルースト論』岩崎力訳、212

こうした運動に対する理解、これはこの論文の中ではパスカルの運動観と対比させながら提示されています。パスカルによって示される「運動を休息からの離脱とし、休息は運動の停止と捉えている」かつ「私たちの本性は運動のなかに見出されるのであり、完全なる休息は死である」ということですね。これに対比するものとして、ベケットの運動がある。それが動的静止となる。そこに、ライブニッツの生と死を超えたところでのモナド、形而上学が響きあってくるという構造ですね。

そして、このうごめく静止というのは、往還、往来。行ったり来たり、こうした中で見出されていく。生成変化の系とすることもできると思いますが…ある状態ではあるけれど、その状態には定まらない。最初に読み上げた「石」についてもそれが見えてきます。永続的なものなどなく、それは常に次なる予感を孕む。動き続けること、これが主題に含められている。

幽霊トリオの中で、おばあちゃんが出てきますよね。あとはちょっと怖い感じの子供。彼らの顔がアップで写されるとき、微妙に表情が微笑んだり視線が虚ろになったりする。完全なる表出ではなく、かすかなうごめきとして、人物が描かれる。ある意味、その微かさに対して私たちは注視することを求められてもいるわけですが…とにかくそういった状態ですね。

消尽したもの

小川:そして、ドゥルーズの方に入っていきましょう。資料は分けてあります。かなりクリティカルです。もう読み始めた瞬間に強い言葉が出てくる。もうそのまま読んでいきましょう。

消尽したもの、それは疲労したものよりずっと遠くにいる。「これはただの疲労ではない、ただ疲れたというものではない、坂を登ってきたとは言ってもそれだけの問題じゃない」。疲労したものは、もはやどんな主観的可能性も持たない。したがって最小限のどんな客観的可能性も実現することができない。それでも最小限の可能性だけは残っている。人は決して可能なことの全てを実現するわけではなく、実現するにつれて可能なことを生み出しさえもするからである。一方、消尽したものは可能なことのすべてを尽くしてしまう。疲労したものは、もはや何も実現することができないが、消尽したものは、もはや何も可能にすることができないのだ。

Deleuze, L'EPUISE, 1992. 

小川:強引な読みになってしまいますが、ベケットの作品で示されているのは、この「消尽したもの」であるというふうに読むと、ベケット作品で示されるもの、そして演者、そこに登場する人たちは何かを尽くしている、あるいは尽くそうとして疲れている、ということになるでしょうか。それはドゥルーズによれば可能なことは全て尽くされている、あるいは何か最小限のものだけが残っている。あらゆることをやりつくした上で、微妙に残っているヒューマニティとでもいうべきか、そういったものが残されている。

ここでいくつか理解しておかなければならないことがあるかなと思います。そもそも、ドゥルーズが主題としている思弁的なもの、そして小川が好きなものでもあるのですが…「あれであれ、これであれ」。もしくは「あれとこれ」の話ですね。ここでも示されていますが。ドゥルーズによれば、「あれであれ、これであれ」というのは離接的綜合の包括的用法である。もう少し厳密な引用をしましょう。

  • 排他択一的制限的ではなくて、十分に肯定的無制限的包含的なもの。

  • 諸項はたがいに制限しあうことも、排除しあうこともない、最高のバラドックスである。

  • 漂流 dérive が普遍的に可能になることで、分裂者は、次から次へと関係を重ねてゆくことを通じて、いくつかの不可分の距離を絶対的に飛び越える。

  • 従って、そこでは未分化状態となる

これらのことが「あれであれ、これであれ」、包括的な用法だというわけですね。そもそも、これも個人的な理解なので必ずしもそうだというわけではないですが…あれとこれ、こうしたものは意味素として理解しても良いかもしれません。イマージュを構成する前のもの、イマージュそのものかもしれませんが。あれとこれの間にある標章、くさび、切れ目を打ち込むことで、それはある一つの名言、命題的な論理、ある種の排他ができてしまう。このことを離接的綜合の排他的用法と呼びます。あれとこれ、あれやこれ、「あれ」と「これ」の間が一意に定まる状態を排他的用法という。「消尽したもの」では排他的選言命題と表記されていますが。それは、結局対立的で、夜と昼、とか出ると帰る、とか。そういったものですね。それは、人を疲労させると。
このことを、例えば千葉雅也は「非意味的接続詞たる「と」」というような表現をしたりしています。あれ「と」これのその接続詞が非意味的につながっていく。連鎖のその先が不確定のものになっていく、意味と意味の繋がりを非決定的に考えることが、包括的だということですね。

学生①:その「あれ」と「これ」がよくわからなかったです。

小川:なるほど。確かにわかりにくいですよね。日本語にも問題はある。「あれ」と言ってしまった瞬間にそれは「あれ」を指し示してしまうので。つまり、この何か指示しようとするもの以前のそれ、みたいな。例えば…ここにスマホがありますが。このスマホを指し示すことは、「あれ」である。これがスマホですよ、と示すこと。もう少しいうと、世の中にたくさんのスマホがあって、スマホの中にあれとこれがある。あのスマホとこのスマホのあいだに、私のスマホがある。これが私のスマホです、と指し示すことは、あれとこれの間にくさびを打ち込んで、それ以外のことを言わないことを選択することでもある。大丈夫でしょうか。そういう感じです。だから、安直に考えると、これがスマホですと言わないまま、スマホでもありうるし、パソコンでもありうるような可能性の加算濃度が最大化した状態でいることが、ある意味、包括的だと。こういう感じです。

小川:さて、もう少し読んでみましょう。その包括的な状態が、「昼も夜も何の役にも立たない」「あらゆる選択の順序や目的の組織化、あらゆる意味作用を放棄するという条件で、我々は一つの状況の変数の総体を組み合わせる」。それは1でありまた同時に多であるような状況ですね。多でありながら1であり、また同時にそれではない、それでは充足しきれないような状態。リゾーム概念では、

実のところ、〈多〉よ万歳、と言うだけでは足りないのだ、確かにこの叫びを発するのは難しいのだが。活字組みの、語彙の、あるいは統辞法のいかなる巧妙さも、この叫びを聞こえるようにするには足りない。〈多〉、それは作り出さねばならないのだ、相変わらず一個の高位の次元を付け加えることによってではなく、逆におよそ最も単純な仕方で、節約により、手持ちの次元の水準で、つねにnマイナス1で(こうしてはじめて一は多の一部となるのだ、つねに引かれるものであることによって)。設定すべき多様体から一なるものを引くこと、nマイナス1で書くこと。このようなシステムはリゾーム(根茎)と呼ばれうるだろう。

Deleuze and Guatteri, 1994, pp. 18-19

このように説明されていたりしますが、こうしたマイナス1の状態と思ってもいいかもしれません。ここでは「そう、わたしはわたしの父だった、そしてわたしはわたしの息子だった」という特徴的な言い回しがされていますが、これはアンチ・オイディプスにもつながってきます。注意しなければいけないところは、これが分裂症的にも読めることと、オイディプス、エディプス、そしてファルス的にも読めることですね。ドゥルーズの話は来週もやりますが…今回は分裂症的に読む。その方がやりやすいはずです。少し補足すると、シュレーバー控訴院院長、調べてもらうとすぐヒットすると思いますが、彼の精神分裂症の記録だったり、アントナン・アルトーとか。そこはまあ各自で後で見て欲しいのですが…こうした分裂症的な組み合わせ、全ての何かが分裂し、何かが次なる何かになる状況で物事を考えるとき、それはドゥルーズによれば「可能なことを包括的選言命題によって尽くす技術」であり、「あらゆる欲求、選択、目的、意味を放棄した」こと、そしてそれが「消尽したものだけが十分に無欲であり、細心である」ことになります。

こうやって見ていくと、あの演劇の無機質な感じ、ベッド(カウチ)と言いながら全く生活的ではない感じも理解できるかなと思います。それは無欲で、あらゆる可能性を尽くした状態では、もはや何事さえも、もういい。もうそれ以上もそれ以下もない。まあその中でも、ベケット演劇の人物は、まだ何かうごめく。疲れ切っていて、痛ましくも、まだ何かを聞く。幽霊トリオではラジカセがありますが。そこからベートーヴェン、ピアノ三重奏曲第五番が流れてくる。それがリピートされたりストップされたりする。動く、止まる、そのあいだで、あれでもあるしこれでもあることで、止揚されていく(されないかもしれない)。

ゴダール/ロブ・グリエ/太田省吾

ここでいくつか別の作品を参照しましょう。この中でゴダール見たことある人はいますか? アラン・ロブ・グリエ見たことある人は? アラン・バディヴとか読んだことある人?(複数人手を挙げる)

小川:なるほど、まあゴダール見たことがある人はわかると思いますが、急に映像が止まったり動いたりする。ロブ・グリエなんかは「快楽の漸進的横滑り」でそういう撮り方をしたり、ゴダールの最近の作品「さらば、愛の言葉よ」とかだと特にそういう映像が多い。登場人物が見切れてたり、途切れたり。まさに運動と静止ですよね。

小川:あとは、日本だと「水の駅」という作品があります。太田省吾の作品ですが。「沈黙劇」とか言われたりしますね。砂漠というか、それを想起させる茫漠としたところに、水道の蛇口だけがあって、そこに水を求める人がやってきては過ぎ去っていく。本来だと水を飲むのに3秒もかかるかかからないかのところを、引き伸ばして、ゆっくりゆっくり演じていく。発する言語もなく、沈黙の中で人間の行為だけがある、みたいな。そんな演劇です。

小川:こうした作品を参照しつつ、やはりドゥルーズの方へ戻っていきましょう。現実的なものを廃止するためのは二つが必要だという。その二つは消尽したものと、消尽させるもの、もう少し勝手な解釈をすれば消尽しつつあるものや、疲労したものも含む気がしますが、これによって、分裂症的あるいは包括的な状態を指向していく。ちょっとここは大事だなと思うのですが、「多くの作家は控えめすぎて、完璧な作品と自我の死を主張するだけで満足する」というんですよね。なかなか解釈のしがいがあるメッセージだなと思いながら見ていたんですが。

少し飛んで、ベケットの呪われたものたちは、「消尽より疲労にふさわしいものだった。横たわることは決して終わりや殺し文句ではなく、終わりの直前であり、起き上がるためにはもちろんのこと、寝返りを打つため、あるいは這うためさえ、休みすぎになる危険がある。這うものを止ませるためには、穴の中に入れ、甕のなかに閉じ込めなければならない」。といいます。時間がないので少し押し気味ですね。駆け抜けていきましょう。ただ、一旦3分ぐらい休憩しましょうか。

水分を摂ったり動いたり。休憩。

小川:大丈夫ですか?みなさん(笑)。よくわかんないことをよくわかんないままやっていますが。とはいえこういう役目を果たすのは小川の責務だと思っていて。訳のわかんない人間になろうと思っているので。訳のわかんないことをそのまま受け入れる体力も必要ですよね。

時間もあれなので、ちょっと駆け足でやっていきます。重要なところを引っ張ってみましょう。ここですね。「言語は可能なことを名づけるのである。我々はいかにして名前を持たないもの、対象=Xを組み合わせることができるだろう」。ここすごくいいですよね。

順列組み合わせは一つのメタ言語を構成しなければならない。それは非常に特別な言語であって、この言語においては物の関係が言葉の関係に一致し、言葉はもはや可能なことを現実に導くのではなく、言葉自身が、まさに一つの消尽しうる固有の現実を可能なことに与えるのだ。「ぎりぎりまで小さくなり。もうそれ以下はない。不在に向かって、無限が零に達するように一直線に」。この原子的、離接的な、切断された、途切れがちの言語を、ベケットの言語と呼ぶことにしよう。

Deleuze, L'EPUISE, 1992. 

小川:ドゥルーズの言葉で、審級という用語が出てきたりします。審級とXと、ラカンの話で独特の表記があったり。セリーとか言われたりしますよね。潜在的対象、第三の審級Xたる言語、とかなんとか。第三者の審級によって、包括的なまま、何かを積み上げていく。そういう哲学だと思ってもいいのかもしれません。安直ですが。このことを例えばこの中では「言語Ⅲ」という風に表現したりする。

それゆえ、もはや言語活動を、列挙可能で組み合わせ可能な物にも、それを発する声にも結びつけることのない言語Ⅲが存在する。この言語は絶え間無く移動する内在的限界に、間隙、穴、または亀裂に、言語活動を結びつける。

ibid.

小川:この「穴」という感覚、プラトーであるかもしれませんが、この感覚はある意味ですごくトポロジーに近いなと思っています。位相幾何学の話になるのですが。連続変形しても保たれる性質、その連続変形性といいますか。

こうしたトポロジカルな問題をも孕んでいるように思うんですよね。複素空間での函数解析接続だったり。リーマン球面上での積分路とか、函数が一意に定まること、正則な函数が一意に定まるように計算されていますが、この正則性がどこに担保されているのか、とか。部分的に連続な状態がどこに保証されているか、とか。そういうことも言えるのではないかと。

小川:まさに延伸し、交差し、それ未然の、リゾーム的空間といいますか。そうした空間上で、まあ例えばブール代数とか。そういった捩れを孕む空間内で、それでも何かうごめくこと。それがベケットの現代的読みというか、数論的な理解になるかも…しれない、という。ヒルベルト空間、ハウスドルフ空間上の話をするとなるとちゃんとトポロジーを考えないといけないですよね。
加えて、アラカワのいう「建築的な身体」もここに近いかもしれない。有機的な生成変化を孕む建築、その経験を通して、細胞的な入れ替わりを経験するというか。まあアラカワも後でやりましょう。

小川:そろそろ時間なので一旦ここで締めましょうか。あとは雑談するのと…来週はART SINCE 1900の、1960年代の現代アート、特に久保田成子とか草間彌生とか。その辺りを見ながら、ドゥルーズのファルス概念を少しやろうと思います。PDFはちょっと重くて送れないので当日渡します。じゃあそんなところで今週は終わりましょうか! お疲れ様でした!

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