見出し画像

波の壁

最近、自分のASDらしさを実感することが多い。

診断を受けた当初は、「ASDのような気もするけど、性格の範囲なのか微妙だな」と感じていた。軽度だからというより、誤解を恐れずに言うと、そもそもASDの特性であがるこだわりやコミュニケーションの不得意さは自力で変えられるもののように思えるから。だからこそ、私は自分を客観的に見て適切な行動に変えることができないのを「頭が悪い」と悩んでいた。病院に通ったのも、頭が働かないのをどうにかしたかったから。

いまだに「発達の特性」という言葉には違和感を感じるし、スマートに状況を調整する社交性や賢さを求める気持ちは変わらない。

でも職員の多い中規模図書館で働いている今、ASDの影響も無視できないと思うようになってきた。

私は次のような生きづらさがある。

・気持ち/考えの切り替えが難しい

(同時ではなくそれぞれ別の日に)同じ作業について複数の異なる指示を受けたとき、そのうちの正しいと思った案1つに固執する。1つ決めたやり方を変更することが難しく、違うやり方をさせられるのに抵抗が強い。

人の意見が変わったときに「もうあなたの考えはそれで固定なの??」と聞くのもこれに入るかな。前に言ったことと違うと、その人の像を組み立て直さないといけなくてすごく混乱するし、わからなくなったことに不安を感じるから1つに定めたくなる。

変化を理解できないのは、赤ちゃんの頃からだ。父・母・姉がディズニーランドに出かけ、まだ1、2歳だった私は祖母の家に預けられた。そこで出されたご飯がいつもと違っていたことにかんしゃくを起こして、祖母がとても怒っていた事を覚えている。

・状況を複数の要素から見るのが難しい。

例えば、意見をして人とぶつかったときに「自分の意見の内容に問題があったかどうか」しか考えられない。これは最近、先輩方に「口調やその日の忙しさ、相手の置かれた状況、見えている仕事の範囲などたくさんの要素があるんだよ」と教えてもらって気づいたこと。    

 ただ、そういうところが足りていないと気づいても、その場その場で相手の状況を想像して自分がどう振る舞うのが適切かを判断することができない。いや、自分なりに判断はしているのだけど、その対応で相手が不快になることが重なって自分で判断することが怖くなっている。人は「相手に問題がある」とか「あれは自分が間違っていた」とかどうやって判断しているのだろう。この辺は、私が「ただ考えることを放棄しているだけではないか」と感じる部分で、自分の基準をはっきり持って自分の頭で考えられるようになりたいと思う。

・0か100か思考

「自分は全く何も出来ないだめな人間だ」とオドオドするか、「自分の考えが正しい、私は問題を解決できる」と万能感で自信過剰になるか、両極端な自意識に疲弊している。

物の嗜好に関しても、私の中の箱は、100%好きか、0%全く興味が無い(嫌い)かのどちらかしかない。     音や光、質感、匂いの感覚が過敏だったり(一階にいるときに2階にある携帯のバイブ音に気づいたり、苦手なたばこの香りでぐったりなったりします。服の質感のこだわりも強くて、人から驚かれることも多いです)          一度気に入った食べ物や音楽も何ヶ月も同じ物を取り続けたりすることもあります。例えば、三カ月間朝昼晩のメニュー構成(朝は青汁とオートミール、昼は鶏胸肉、夜はスープ)が同じだったことがあります。あんまり食には興味が無くて、毎日考えるのも食べるのも面倒なんです。空腹がなければ、食事はいらないと思うのです。健康や栄養学には関心があったので、必要な栄養素を満たす食事で手間がなければ良いという考えでメニューを作り、それをこなしていました。なんて合理的でシンプルなんでしょう。この場合は、できあがったメニューの「毎日の計画が決まっている」確かさに100%満足していました。

この0-100思考で何が困るのかというと、職場で「私を理解してくれている!」と思う人がいると妄信的になってしまうんです。また、一度強く否定された相手にはもう何も言えなくなります。どちらにしても相手次第で行動が制限されるので、息苦しい。適切な心理的距離とは、どうやって身につけるものなのだろう。自分が確立できていないということもあるだろうけど。

・意識の分散が苦手

いわゆる「マルチタスクが苦手」「過集中」と説明される部分ですが、もっと日常的で、道を歩いているときとか庭の手入れをしているときなど、自分では何かに集中しているつもりじゃないときでも見ている範囲以外に意識が向いていないんだろうと思います。エレベーターを降りたら待っている人がいたとか、庭いじり中にポストに郵便が届いたとか、予想できる範疇のことにとても驚きます。これは結構辛いです。すぐに無意識に感覚範囲が狭くなるので驚くことが多くて、暗いところで手探りで生きているような不安があるんです。誰かが声を掛けてきても「自分に対する呼びかけなのか」気づくのに遅れることもあり、利用者さんに声を掛けられたときに反応が遅れて申し訳なく思うことがあります。

・丁寧すぎる口調

意図せず人とぶつかることが多いので、相手を軽んじているわけではないと伝えたくてどんどんかしこまった話し方になっていきました。職場の先輩がたのように、“相手を思いやる気持ちは十分に伝わるけれど、柔らかくて温かい口調”に憧れますが、私がやろうとしたらただ失礼になってしまった気がして、結局敬語を守るのが安全なのかなという気がしています。

・興味の限定

私は歌言葉や王朝文化、伝統芸能など和の美が好きなのですが、それらの情報、知識をコレクションしている感があります。特に歌言葉は時計や切手などと同じようなコレクション感覚が強いです。


⚪ 。⚪ ⚪

こんなところなのですが、まとめると、普通の人より“予想の範囲外”なことが多いのが生きづらさの正体なのだろうと思います。感情、感覚、共有できる物が少ないからどう接していいかわからない。どう想像したらいいのかわからない。

サービス業として考えたら図書館は向いていないのかもしれないけど、今は“和歌や古典籍の知識で自分の居場所を作りたい”と思っているので、諦めたくない。


優しいサポートありがとうございます。これからも仲良くしてくださいね。