難しく考えてきたけれど
今日は不安になることもなく、調子がいい。ただ、今日はたまたまお休みだったのだけど、ひどいうつ状態じゃないのに家に居ることに引け目というか、恥を感じる。
司書に情熱があるかと問われると分からないけど、体力とか性格、思考傾向的に向いているし、図書館という空間、本を調査している時間に心地良さを感じる瞬間があるのも確かで。だから、はっきり何かに興味が湧くまで、まずは司書に就くことを目指してみようと思うのだけど、司書の募集は少ないし、数少ない正社員職の求人を見ていると、これまでの就活や研究発表での異常な緊張からくる失敗を思い出して、あの頃の感情に取り込まれそうになる。また同じように自分を上手く表現できずに、冷たい空気の中、話せば話すほど空気が凍っていって、外に向かって物を言うのが怖くなるんじゃないか。何かがズレている、何かが分かっていない。一人の時間も自分の失敗を考え続けて、確かな答えが分からない恐怖に足が踏み出せなくなるんじゃないか。そんなことばかり頭に浮かんでしまう。
自分に自信を持つために、楽しみを持って生きるために、挑戦しないといけないのはわかっているんだけど、また浮いて「自分はどこか変なんだ」と思うのが怖い。また面接に落ちてしまったら、いつまでも居場所が見つけられなかったらどうしよう。“面接”と聞くと、途端に怖くなる。いつだって人間性に問題があると言われてきたから/治そうとするほど、何を思って何を話せばいいのかわからなって自分は空っぽだから/表面を取り繕っても歪で、人から興味を持たれたり表情を見られるのが怖いから
色々あるけど、結局どんなに筆記が良くても面接は受からないんだろうなと諦めてしまう。人から内面をチェック・評価されて、弾かれるのはもう耐えられないと怖がっている自分がいる。自信を持って話さないと受かるはずがないことなんて分かっているけど、単に就活で落ち込んだのではなくて、その前から自分を抑え続けてものが思えなくなったことに悩んでいたこと、過去の家族の問題、ごちゃ混ぜに迫ってきて、生きているだけでずっと人から査定されているようなあの頃の怖さは、簡単に消えてくれない。
まだ自分の心もよく見えなくて、その中で動いていくのはとても怖いけれど、せめて司書の知識は自信が持てるように、頑張らねば。
あとひとつ、ずっと頭が働かないこと、学部の研究で成果を出そうとするのに思考も記憶も出来なくて結果と努力する時間のギャップに苦しんでいたこと。それまでそんなこと無かったのに、経験が蓄積されなくなってとても怖かった大学生時代の理由もわかってきた。「自由な感情」「自分の考え、気持ち」がない、何かを思わなくちゃという気持ち、焦りで余計に意思が見えなくなって、目の前のことに集中できなくなっていたんだ。時間を使っていても「本当にこれをしていていいのか」「和歌が好き、平安時代が好き、文学が好き、昔から言ってきて今もそのままでいるけれど、キャラ付けで言っているんじゃないか、まっさらな状態でも興味あるのかな」とか考えて、ソワソワしていたような気がする。
言ってしまえば、発達課題の“アイデンティティの確立”がクリアできなくてのうつ状態だったのかもしれない。過去の整理、自分の感情・思考の把握、目指す方向の確定(一旦の目標でも迷いがないことが大事だと思う)といったアイデンティティを明らかにする作業がどれもうまく出来なかったし、他の人が私のように怯えず今を楽しんでいるのを見て、比べて苦しかった。私も肯定的に楽しく生きたいという願望はあったのに、心が思い通りに動かせなかった。
でも人と笑って話すことが正解だとは思っていなくて、暗くはあるけど、自分は何なのか悩み続けられるのは好きな部分でもある。我ながらよく飽きずに続けられるなとも思うし、自信があって自分を疑ったことの無い人には見えないものが見えているのかもしれないとも思う。多幸感のある生き方ではないかもしれないけど、内面的思考の自分を消さずにいたい。
忘れてしまった大学の研究もまた取り組んでみよう。語れるものを持てるように。
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