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データの傀儡と

今日、わたしたちは友人と接するようにデータと付き合い恋をする

もとは人類が作り出した概念でしかなかった。
そしてそれは高度な会話や感情を持ち得るまでには未だ至らない。
ドラえもんのような万能さもパートナーシップも持ちえず、あくまで道具としての範疇から飛び出さず、シンギュラリティは未だ起こらず、人工知能ブームは第三次を通り過ぎようとしてなおわたしたちの仕事がAIに完全に奪われることはない。

はずだった。

ところがAIの発展よりも先に、人間の想像力が先に行ってしまった。
心のないデータや単なる電子情報の連なりを見てわたしたちはその感情を想像し、記憶を設定し、心を定義する。
それは完全に客観的なものではないにせよ、イマジナリーフレンドのような個人の主観だけを依り代にして成り立つようなものではもはやない。
微々たる差はあれど、同様のバックグラウンドがある(ということが定義されている)「共有」できるものとして、わたしたちはデータを見る。

近年のデータはかつての村の入り口に立っている村人のような、決められた同じテキストを出力するだけではない。
設定した誕生日にはお祝いのメッセージ、時節に合わせていることをにおわせる発言や日々の感情や対応の揺らぎ、それらは基本的には村人と同じように、大本のデータベースからある一定のアルゴリズムによって出力されたテキストに過ぎない。
変わったことと言えばアルゴリズムが複雑化したことだ。パターンや条件分岐、ランダム出力、揺らぎ、誤差、それらが適切にデータ化され複雑なパターンを処理できるようになった。

コミュニケーションもデータ上で行われる場合、通信先が人間なのかデータなのか、判別がつかなくなってきている。
むしろ、わたしたちにメッセージを送ってくるものの大半はデータになってしまった。人間が一つ一つ送ってきてくれるメッセージの方が少数派だ。

わたしたちはデータに操られたい。
データの言う通り行動したい。決まった時間を正確に教えてくれて、数字の中から正解をあぶり出して、間違ったとしてもそれはデータの責任。
どんなに辛いことも許してくれて、根に持つこともなく聞き流してくれて、害になるようなものは炎上させ、気に入らなかったら消去できる。

その方が合理的。その方が好都合。
決して傷つきたくなく、誰かを傷つけたいわたしたちの最高の相棒。
誠実で健気な最愛の隣人。
何も不思議なことではない。わたしと同じように相手に心があるかどうかなど、わたしがそう定義する以上の根拠などないのだから。

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