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多すぎる「ごめん」をやめる訓練、の話。

私は生来、気が利かない――「察せない」タイプの人間である。
集中力には割と自信がある方だが、周囲に満遍なく気を払うのは苦手で、よほど意識していない限り、物の配置の変化や部屋の汚れ具合、他人の動きなど、大多数の人が何となく気が付くことに、大抵気が付けない。
他人の発言も言葉通りの意味で受け取りがちで、「雨が降ってきた【ので窓を閉めて欲しい】」のような言外の意図や、「手伝わなくても大丈夫【だけど手伝ってくれると助かる】」のような、発言と矛盾する他人の本音を汲み取ることがほぼ出来ない。

そして、私の母はそれを良しとしなかった。母にとって不都合だったからだろう、「気が利かない」はかなりの重罪とされていた。
今にして思えば、母にストレスがかかったタイミングで八つ当たりを受けていただけでは?という気もするが、とにかく「母の言外の意図を汲み取れなかった」や「自然に気が付き、やっておくべき事をしなかった」などの罪状で、わたしは幼少期からかなりの頻度で叱責を受けていた。もしかすると私に発達障害の傾向があるのかもしれないし、単に母の要求がハイレベル過ぎただけかもしれないが、まぁそこは一旦置いておく。

で、それらの結果、他人から指摘や注意を受けると、内容に関わらず全自動で「自分が悪かった!ごめんなさい!!」となる思考回路が組み上がってしまっているのが、今の私である。
幼少期から「何がどう悪かったのか根本的にはさっぱり分からないが、分からないこと自体が問題だとされて、めちゃくちゃ叱られた」を繰り返してきたために、指摘や注意をしてきた相手の方が自分よりも正しい、と無条件に信じてしまうのだ。
理不尽な注意を受けたりしても、しばらく経ってよくよく思い返さないと、それが理不尽であったことに気付けない。更に、怒ることが出来るのは理不尽さに気付いてから後になるので、下手をすると数日経ってから「あれって私は悪くなかったよね!?考えれば考えるほどムカつくな…!?」となっていく。

これは非常に良くない仕様だ。
パワハラ・モラハラの餌食になりやすいのも問題だが、何がマズいって、育児にめちゃめちゃ不都合なのだ。可及的速やかに治さねばならない。
――ということに気付いたのは、ここ1,2年で息子がこれでもかとダメ出しをしてくるようになったお陰である。

「今日学校にリコーダー持っていくの忘れちゃったぽよー!ママなんで教えてくれなかったぽよ!?」

こんなことを言われると、私はつい脊髄反射で「え、そうだったんだごめん!」と謝りそうになってしまう。
だが、それではいけない。教育上非常に良くない。口に出す前に意識して踏みとどまり、内容を精査せねばならないのである。
これは違う。違う……と思う、多分!

「そんなのママは知りません。自分で準備するの忘れたんでしょ?明日は忘れないで持っていきなさいよ」
――と冷たく言い放ち、頭の中で必死に答え合わせを始める。

そう、きっとこれで良いはずだ。
連絡帳に記載がなかったのだから――いや、あったとしても、息子の学校の準備は自分でさせているのだから、それは私の責任範囲ではない。そうだそうだ、だからこれは「ママのせい」ではない。むしろ、「ママのせい」であってはいけない事柄である。
うん、大丈夫。ここは謝ってはいけない所だ。合ってる合ってる。

「えー?夕ご飯、野菜炒めぽよ?違うのがよかったぽよ~」

これまた「ごめん」と言いそうになるが、ぐ、っと喉まで出かかった声を止める。これも違う……と思う、そんな気がする!
ちょっとだけ息を吸い、「文句言わないで食べなさい。野菜も食べないと大きくなれないよ?」と「カーチャンあるある」な台詞を返してから、自分の発言の妥当性を検証し始める。

そう、これで良いはずだ。一般家庭の食卓において、野菜炒めを夕飯に出すのが悪い、なんてことは社会通念上ありえない。毎日ハンバーグかカレーという訳にはいかないのだ。栄養バランス上も食育上も、これは必要な措置である。大丈夫間違ってない、これは単なる息子のワガママにすぎない。
オーケー問題ない、良かった良かった。っていうか息子よ、気持ちは分かるが少しは野菜も食え。

「えー、キャラパキチョコ買って来てくれなかったぽよ?食べたかったぽよ~」
「スーパーに行ったからって毎回チョコは買って来ません。おやつならグミがあるでしょ!」

そんな日々を繰り返す内、徐々に私の脳内の反応速度が上がってきた。息子とのやり取りは「これは『ごめん』ではない」思考訓練として、非常に効果的だったようである。
たまに本当に私が悪いこともあるので、全部却下すれば良いというものでもないが、「他人に文句を付けられて、それを却下する」という経験を、私はほとんど生まれて初めて、息子のお陰で積めている。

さて、息子を相手にレベル上げに勤しんだ私は、次なるターゲットとして最近、夫にもこの訓練を実施し始めた。

「ははっ、何で麦茶ポットあるのにコップないの?直飲みする?ぐいっといっちゃう奴?」

夫の休日。平日なので息子は学校に行っており、二人で昼食を食べている最中というシチュエーションで、笑い声交じりの夫の指摘が対面から飛んで来た。
見れば確かにテーブルの上には麦茶ポットがあるが、コップはない。どうやら私は昼食の配膳時に麦茶ポットを出したものの、コップの方は出し忘れたようである。

「あー、」

『ごめん』と言うべきか、言わざるべきか。一瞬悩んで、時間稼ぎに「そうだね、忘れたわー」を選択。
続けて、自分が今すぐ立ち上がってコップを持って来るべきか、食事を続けるべきか考える。

私は今、別に麦茶を飲みたいわけではない。なので、麦茶ポットを出しておいた時点で単なる「夫への親切」であって、「コップを出し忘れた私の手落ち」とは言えないはずだ。私だって今は食事中なのだから、夫が麦茶を飲みたいならば、コップぐらい自分で取りに行ってもいいはずである。
うん、そうだな。まぁ現時点でコップがないのは、親切としてイマイチだったわけだが、私のミスだとして、謝罪と補償をせねばならないほどの事柄でもない。ここは食べ続けていても良かろう。

とはいえ。夫が「麦茶のコップ」をわざわざ話題に出したからには、夫の方は麦茶を飲みたいと思っている可能性は高い……か……?
うーん、どうしよう。なんか大したことじゃないけど嫌だな、今その程度の事で立ち上がりたくないな。
……まぁ、夫だって手も足もある成人男性だ。自分でコップぐらい出せるし、そうすべきだろう。オーケー、このまま放っておこう。

そんなことを考えつつ、もぐもぐと食事を続行する。やがて夫よりも先に私が食べ終わり、洗い物をしようと流しまで食器を持っていった所で、使い慣れたコップが目についた。

ふむ。今の私は食べ終わったし、立ったついでだ。このタイミングなら、コップを夫に出してやってもやぶさかではない。

「そういえば麦茶飲む?コップ出す?」

「あ、ハイ。お願いします」

どういう訳か、やたらと丁寧な夫の返答を聞いてコップを夫に渡す。夫に「死ね」と叫んだ事件以来、夫はちょいちょい私に対してこういう物言いをするようになった。別に今日は怒っている訳ではないのだが、そう見えたのだろうか。まぁ構わんけど。

私が洗い物をしていると、その内夫も食べ終わり、空いた食器を持ってきた。使用済みの麦茶のコップと共に。
それらを受け取り、追加分を洗いながら今回のケースの妥当性について考える。息子の場合と比較して、流石に夫相手だと難易度が高いので、脳内反省会というか、将棋でいう所の感想戦をじっくりやる必要があるのである。

今回の私の「コップを出し忘れたことを謝らなかった」は、特に問題なかったと思う。夫の日頃の振る舞いを考えれば、恐らく「直飲みする?」あたりは嫌味を言った訳ではなくて、ちょっと面白い冗談を言ったつもりだろう。多分だが謝罪を要求していたわけでもないと思う。

だが、指摘された後にもコップを夫に出してやらなかったのは、果たして「悪いこと」あるいは「意地悪」だっただろうか?
……いや、うん。そこまでじゃないよな多分。

夫が発言したのは「何でコップないの?」であって、私はそれに「忘れた」と回答した。言外の意図として『コップを出して欲しい』という夫の気持ちはあったかもしれないが、なかったかもしれない。少なくとも夫は『コップを取って』とは発言していない。
つまり、ツーカーのコミュニケーションを取ろうとしていないというだけであって、夫の要求を拒絶したわけではない。うん、ちょっと「気を利かせなかった」だけで、意地悪というほどではないはずだ。大丈夫大丈夫。

あの時、私は夫のために食事を中断して、立ち上がってコップを取りに行きたくなかった。明確に依頼もされなかった。だから、コップを取りに行かなかった。ただそれだけだ。
そして、その後私は自分にとって都合のいいタイミングで、夫の意思を確認して、コップを渡した。最適かどうかはともかく、一応は親切な行動をしたと言える。

そして、今回のケースにおいて、何よりも重要なのは、私が「今すぐ立ち上がってコップを取りには行きたくない」というあの瞬間の自分の感情を守った、守れた――という点である。

そう。私はあの瞬間、「コップを取りに行きたくなかった」のだ。
だから、やらなくていい理由を探すために曖昧な発言で時間を稼ぎ、結局食事が終わるまで立ち上がらなかった。
私は自分の「やりたくない」を通したのである。そして、夫もそれを許容した。

うんうん、そうだそうだ。やりたくなかったんだから、仕方ない。これで良いのだ。

よしよし、良いぞ良いぞ。ちょっとまだビクつく所があるが、私にしては上出来である。
こういう些細な所から、自分の意思を大事にするのが多分、大切なのだ。
こんなどうでも良いレベルの話で勝手に我慢を重ね、ストレスをため込むのは誰にとっても良くない。この程度で「自分の意思を通した!」という達成感を得られたのだから、夫が麦茶を飲めなかった数分間も、きっと報われたはずである。うんうん、よくやった今日の私。

感想戦を終了した私は、そんな風に一人で悦に入りながら皿洗いを終えた。
この訓練に成功すると毎回、地味にだが興奮してワクワクするような感情が出てくる。
この程度で?と自分でも思うほど、実に下らないというかミクロな話ばかりなのだが、「これは『ごめん』ではない」思考訓練は、私に自信をもたらしてくれているのだろう。

私にとって『ごめん』の多用は、別にストレスではない……と長年思っていたけれど、「自分の何がどう悪かったか分からないまま、とにかく自分が悪かった結論にして謝る」という行動は、知らず知らずのうちに私の自尊心を削り取っていたのかもしれない。
社会生活を送る上では割と便利な『ごめん』ではあるが、とりあえず、家の中では『ごめん』を減らすのを続けてみた方が良さそうである。
自分が悪くてもなかなか謝らない母親、なんてものは巷にゴマンといるはずだし、多少間違っても後で気付いて謝りさえすれば、大抵は間に合うはずだ。

私が多少ビクビクしていたところで、無表情なせいで息子や夫には感知されない……という実績はあるが、ビクビクせずに生きられるならばそれに越したことはない。
目指したいのは、何でもかんでも「ガッハッハ!」と笑って済ませるような豪胆なカーチャン像である。ちょっとハードルが高すぎる気がするが、理想は高めに持っておこう。

『ごめん』を言えない人間になってしまうのも良くないが、『ごめん』をワゴンセールで叩き売るのも良くないのだ、多分。
謝るべき時に謝るのは当然として、謝らなくてもいいシーンでは、なるべく謝らないように――そして出来るだけ自分の感情に従い、やりたくないことはやらないか、不平不満を述べられるように。
これからも地道に訓練を続けていきたい所である。


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